P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

嫌な気分ってやつを思いだした...「海外SFハンドブック」

積読本を消化しようと、2年前に買って以来放置していたこの本に手を出してみました。
www.hayakawa-online.co.jp
早川書房の説明によると、

クラーク、ディックからイーガン、チャン、『火星の人』、SF文庫2000番のレム『ソラリス』まで! 巨匠の作品から最新の必読作まで全100冊を選定して紹介するガイド、年代別SF史、SF作家のエッセイ、完全保存版のハヤカワ文庫SF全作品データなど、一冊で海外SFのすべてがわかるガイドブックの最新版

とのこと。この説明に書かれている事以外にも、アメリカSF略史やミリタリーSF略史もあり、2015年8月に出た本なのでそんなに古い印象もありません。とはいえ、アメリカSF略史の中で触れられている中国のSF作家劉慈欣の「三体」のアメリでの翻訳が、この本が出た直後にヒューゴ賞を取ってしまうという神様の意地悪みたいな事は当然触れられていなかったりしますが。

読んでみた感想なんですが、「良い感想」と「悪い感想」の2つがあります。

「どっちから知りたい?」
「じゃあ、良い感想から」

という事で良い感想から始めますと、最近ほんとに本が読めていない私としてはお陰で久々に色々SFが読みたいなと思えました。流石に紹介されていた作品の大半は読んでるわけですが、やっぱこういうのを読むと忘れていたSFの豊かさや楽しさを色々思い出します。

けれど思い出すのは必ずしも良いことばかりでもないというのが、悪い感想。最近はSFマガジンもちゃんと読んでなかったりしてたので、久しぶりに批評っぽい文章を読んで、思い出したこのなんかちょっと苛つかさせられる感覚!どういう事かというと色々あるわけですが、

とか思ってしまったわけですよ。アシモフ、クラークときてSFビッグ3の残りの一人ハインラインをあげずに、ブラッドベリとかあるいはバラードとか持ち出すのって違うのじゃないのと。勿論、好みの話、自分の好きな作家を上げているのなら誰をあげようとそれは当然自由なわけですが、そういう流れではないところでビッグ3の一人だけハブったりするのがむかつきますです。これ以外でも批評の臭みみたいなものを久しぶりに感じてちょっとウンザリ。

ではあっても、やっぱりSFは良いものだと再認識させてくれた本でした(と、持ち上げて終わる)。

「誤解するカド」、あるいは「誤解する」んじゃなくて「誤解させている」アンソロジーの事

大森望さんと、現在(2017年5月)放送中のSFアニメ「正解するカド」の脚本を書かれている作家野崎まどさん共同の「ファーストコンタクト」テーマアンソロジー、「誤解するカド」を(だいたい)読みました。
www.hayakawa-online.co.jp

和洋合わせて10篇収録で、その最初の作品が筒井康隆「関節話法」。深夜にこれを読んで爆笑してのツイートが以下のもの。

この後で解説を読んだら大森さんが

ファーストコンタクトじゃないのでは――というツッコミなど、この小説の破壊力の前では屁でもない

と書いててまさにかと思ったわけですが、この「ファーストコンタクトじゃない」というのがこの「間接話法」だけの話ではなかったのが、この「ファーストコンタクト」テーマアンソロジーのミソだとは、神ならぬ身のこの凡人には予測のつくはずもなく...どころかそもそも異星人との接触ですらない話まであって、流石に看板に偽りありじゃないのかと思っちゃいました。未知との接触なら「ファーストコンタクト」ってことになるの?まあそれは看板の問題なので、どの作品もが「間接話法」並みなら文句も出しようがないわけですが流石にそんな事あるわけがなく、人の好みは千差万別だとはいえ、あるいはだからこそ俺には響いてこない作品も多くて。とくに筒井作品以外の現代日本SFがなんかダメで。もっともこのアンソロジーだけでなく、SFマガジンに載ってる今の日本SF作品でも響いてこない事が多いので、俺の嗜好にはなにか今の日本SFとは合わないものがあるのかもしれません。
 
まあ今の日本SFだけでなく、今回はじめてちゃんと読んだ問題作として有名なコニー・ウィルスの「わが愛しき娘たちよ」も、その世界自体にはすっと入っていけたのは良いけれど、特に何かが刺さる事がなかったわけですが。作品の終わりでテッセルが救われたのならいいけれど(寮母は没収したテッセル達をどうしたんだろう?)、この作品が扱っているのは近親相姦?父親による娘への支配がなんらかのモラルコードの裏にあるとか?正直、登場人物達の個人的なフラストレーション以上の何がそんなにショッキングなのかよく分からないのですが...30年前のアメリカのセックスコードは分かりません。
まあでも「関節話法」が読めただけでももとは取れました。

「ザ・コンサルタント」 「ローグ・ワン」

「ザ・コンサルタント」と[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリ」をMovixさいたまで鑑賞。
 

映画『ザ・コンサルタント』予告編
ベン・アフレックが裏の顔を持つ自閉症の会計士を演じるアクション映画。随分と奇妙な映画ではあるのだけど、面白かったです。色々な話の筋が雑多に放り込まれていて、正直、その全てが上手く溶け合っているとは思えず、変な違和感をずっと感じさせる。その最大のものが、アクション映画なのにも関わらず自閉症についての教育映画のような要素を抱えているところ。なので食合せの悪さを感じる瞬間もあるのですが、なんとそこから結構上手くこの映画はひっくり返してくる。散々人を殺した後の山場のアクションシーンがマジですかというギャグのような終わりを迎えるのに、それでもなんか変に清々しい良い物を観た感で映画が追われるのには、実はこの教育映画要素がギリのところで上手くいっているのもあるのかなと。あと、主人公が物凄く強いのに物凄く童貞臭くてキュートな点も貢献していると思う。
 

「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」予告 希望編
スター・ウォーズシリーズは、その実写の映画についてはこれまで全作を一応観てはいるのですが、正直あまり面白いとは思っていませんでした。ですが今回は初めて、面白い!と思えた作品でした。スター・ウォーズシリーズ、評判の悪いEP.1からEP.3は勿論、シリーズを打ち立てたEP.4からEP.6にしてもどうにも面白えませんでした。というか今も思ってません。ごめんよ、ジョージ・ルーカス。あんたは悪くない。ただ僕らの相性が良くなかっただけさ。なのになぜ全作観てきたのかと言うと、SWファンの熱気に騙されたのと、有名映画シリーズについてのお勉強のため、そしてアクションはダメでもSF作品としてのデザインや絵は良かったりしたからでした。なんですが、EP.7あたりから少々面白くなってきて、この「ローグ・ワン」でようやく初めて、あれ、これは面白いじゃないのと思えて、ちょっとビックリしました。ありがとう、ギャレス・エドワーズ

「ゴッド・ガン」

日本SFにはいくつもの素晴らしい「タイトル」がありますが、その幾多のタイトルの中でも燦然と輝くタイトル「神狩り」は、山田正紀によるタイトル通り「神」を狩り殺そうとする人間たちの話であり、日本SF史に残るような素晴らしい書き出しから始まる作品です。そして残念ながら尻すぼみに終わる長編作品でした*1バリントン・J・ベイリーの「ゴッド・ガン」は、ちょっとマヌケなタイトルと、悪くはないが凄くもない印象の書き出しから始まる短編ですが、こっちはマジで神を殺します。

オフビートなユーモア奇想SFですが、明白なギャグSFでも、複数の神々がいる世界の話でもなく、唯一神が存在してそれが理屈ありで殺されてしまう作品って他にあるんでしょうか?思いつきませんが*2。この流石はバリトン・J・ベイリーという作品を表題作とした短編集が、

です。表題作が一番頭に収録されてもいるので如何にもベイリーという感じで始まる短編集なのですが、それが段々ベイリーとしては想像していなかったタイプの作品が出てきます。たとえば「災厄の船」の様な。ただあくまでベイリー作としては想像しなかった様なタイプという事ですし、また一面、ベイリーぽくは無いがこういうのを心の中にやっぱり抱えていたのかと合点がいく事もあります。「蟹は試してみなきゃいけない」のように。収録作はみんな良かったですが、一番心に刺さったのはこの「蟹は...」でした。だって、SFファンは、そしてSF作家は、どうせ非モテなんだから!*3

*1:「神狩り2」は未読。

*2:とはいえ、実は多分あるんだろうなとは思います。世界は広く、SFは深いですから。

*3:まあ世の中は広いし、SF界は深いので、ニール・ゲイマンみたいにそうでもない人もいるらしいですが、俺の精神安定の為にこう仮定しておきましょう。

俺モラリストvs小悪党達の嫌な闘い: 「ドント・ブリーズ」

映画館の素晴らしいところはなにか?円盤レンタルはもちろん、配信が充実してきている今、わざわざ交通に時間とお金を費やした上で、2時間くらい特定の場所に閉じ込められにいくのはなぜなのか?

まずは大きいスクリーンに大音量、さらには最近は4DXなど劇場だけの魅力があるからですが、それ以外に劇場だと途中で作品を止められないというのがあります。これがホラー*1だと大きい。家で観てるとホラー映画は怖くなった途端に止めちゃうので最後まで観れないのですが、劇場だと閉じ込められて強制的に最後まで観ることができます。すばらしい事です。ということで、予告編だけでもテンションが高いこの映画を映画館で観てきました。


映画 『ドント・ブリーズ』 予告

観てる間、何度もだしてくれ~と思いながら座席で体が固まって疲れました。ちなみにこの日本の予告編よりもアメリカのオフィシャルトレーラーの方が更にテンション高くて怖かったりするのですが、この本国版が一ヶ所要らないネタバレをしているので日本の方を出してます。

作品の内容は、アメリカ南部の荒野の一軒家で若者たちが殺される話、ではなくて、荒廃して住民減少中のデトロイトで、周りに住民が住んでいない家に住む元軍人の盲人のもとへ金を盗むに忍び込んだ3人の小悪党の若者たちが経験する恐怖の物語です。正直、南部の一軒家の殺人鬼を北部に移した話かと最初思ってたのですが、全然違いました。殺人者の側が盲人であり、舞台が基本、家の中なので殺人者と対面する事が何度もあるのですが、主人公たちはそれをなんとかやり過ごします。タイトル通り息をしなければ、つまり音を出さないでおければ。SF系、あるいはそれっぽい作品でなら主人公が見えなくなっているといった理由で見つからないように息を止めるというのはありますが、SFでは全くない作品でこういう対面は珍しい。なので静かなシーンの多い映画なのですが、この静けさがテンション張り詰めた恐怖の静けさになっていて素晴らしいです。
 
あとホラーなのですが終盤、とある種明かしがあり、それによってこの作品がほんとうに南部の殺人鬼が北部に移住してきた作品ではなく、神などいない世界での俺モラリストと小悪党の対決の映画である事が笑いと共に明らかになります。アメリカらしい。この作品の最後にテレビニュースが流れるのですが、そこでも改めて俺モラル、つまりはモラルの不在を感じさせられました。
 

*1:そして眠くなりそうな芸術系の作品とか。

「伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ」

伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ (ハヤカワ文庫SF)

伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ (ハヤカワ文庫SF)

伊藤典夫さんが訳したSF作品をまとめたアンソロジー、つまり本書のタイトル通りの本です。より詳しくは、編者の高橋良平さんの編者あとがきによると

若き日の伊藤さんが<S-Fマガジン>のために選りすぐって訳した傑作中短編から、時間・次元テーマを中心に精選したアンソロジー

というものです。原作が40年代から60年代に発表、SFマガジン上の翻訳は60年代から70年代に掲載という7編からなっていますが、そのうち4編が40年代、2編が50年代と、現代SFどころかニューウェーブSF以前の作品ばかりです。なので懐かしい香りがする作品ばかりなのですが、帯にある「幻の名品を集めたSF入門書の決定版!」というのは伊達ではない。7編中6編は面白いです。SFの黄金時代はよく言われる40年代ではなく50年代というのが私の認識なのですが、やはり40~50年代の作品はいい感じ。翻訳されるかどうかのフィルターを抜けた上で更にこのアンソロジーに選ばれた作品たちなのですから面白くて当然ですが、半世紀以上も昔のSFには今更、書けない味というものがありますしね。あまり面白くない1編「思考の谺」が何故か収録作中一番長い中編作品だったりするのが困ったものですが。というかこのジョン・ブラナー作品、その楽しさがSF性には無いものなのに、なんで収録されているのかわかりません。

表題作にして非常に有名な作品でもある「ボロゴーヴはミムジイ」は面白いのですが、同時に一番昔っぽさを感じました。といっても設定やアイデアが事ではなく、話の進行に無理がある、アイデアを説得力を持って文章にできていない感があるというのと、あと訳文に硬い感じがあるという点で。しかし、半世紀も昔の訳文がそのまま掲載されているようなのに、文章が気になったのがこれだけなのが凄いものです。

収録作中もっとも新しいのがニューウェーブ期の65年にニュー・ワールズに掲載された「旅人の憩い」です。ニュー・ワールズといえばニューウェーブですが、この作品は多分、ニューウェーブではなくて奇想アイデア系の楽しい作品です。まあ、ちょっと慣れてないと読みにくい感じですが...とか書いてるのは、昔、この作品を読もうとした時に苦労した経験があるからですね。

7編中、ベスト作品はフリッツ・ライバーの「若くならない男」だと思いますが、これが1947年。これと1948年のヘンリー・カットナーの「ハッピー・エンド」がニューウェーブぽい、のかな。いや、「若くならない男」は確実にニューウェーブにつながっているが、「ハッピー・エンド」は上手いオチのアイデア物かな。まあ今更、70年前の作品が半世紀前のSFの新しい波ぽいかどうかなど論じても意味ないですが。

アメリカ政党政治のダイナミクス:Asymmetric Politics

アメリカの二大政党、民主党と共和党の間の違いはなんなのか?

勿論、民主党はリベラルで共和党は保守なのが重要な違いなのですが、その点を除くとあたかも両政党が同じかあるいは鏡像であるかのように扱われる事がよくあります。政治経済学の伝統的な中位投票者定理などのモデルでも一次元の政治的選好、つまりイデオロギーの軸上に政党を置きますが、これなども政党は政治的ポジション以外は同じであるという仮定の上に成り立っています。
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                          (一次元の政治的選好の例)
もちろん経済学や政治学のモデルにおけるそういう仮定は興味の対象以外の要素を排除する為の方便であって、真実であることは勿論、現実的であることすら意図しているわけではないのですが、そういった研究の為のモデルではない政治についての一般の言説においてもそのような対称性が仮定としてではなく、あたかも自明の事実であるかのように語られたりもします。とくにメディアにおいては何らかの問題が起こった場合、民主・共和両党はどっちもどっちだと扱われることが多々あります。勿論、両党は政治的立場以外でも異なるという認識もまたありますし、それを共和党の過激化とそれこそが現在のアメリカ政治の問題の根源であると批判する中で主張したのがトーマス・マンとノーマン・オースティンの

It's Even Worse Than It Looks: How the American Constitutional System Collided With the New Politics of Extremism

It's Even Worse Than It Looks: How the American Constitutional System Collided With the New Politics of Extremism

ですが(その二人によるこのテーマのコラムを翻訳したのがこちら)、共和党の過激化という点を越えて両党は異なっているのだという主張の決定版と言えるのがこのAsymmetric Politics: Ideological Republicans and Group Interest Democratsです。
Asymmetric Politics: Ideological Republicans and Group Interest Democrats

Asymmetric Politics: Ideological Republicans and Group Interest Democrats

この本の主張は二つあります。その2つからアメリカ政治の重要なダイナミクスの一つが出てきます。二つの主張のうちの一つはサブタイトルにあるように共和党の行動の根幹にはイデオロギーがあり、民主党の行動の根幹には様々な(人種、民族、労働、環境、性的指向、その他)少数派利益団体の利害があること、そしてそういう違いは両党の支持者である党員達の間にも存在しているというものです。

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