P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

「筒井康隆 日本文学の大スタア」

日本SF第一世代の一人にして、現在では「日本文学」のスタアとなった筒井康隆を特集した本。
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ぶっちゃけ、「日本文学」に寄るほど個人的な興味は薄れるわけだが、それでも完全に興味が無くなるところまでの「日本文学」にはならないのが筒井康隆の素晴らしいところ。そういう認識の人間なので、幅広く色々な人たちが様々な面からみた筒井康隆について寄稿しているこの本の中で特に引っかかったのが、日本SF作家協会内での人間関係(i.e., 対立)について触れた大森望さん相手の筒井先生のインタビューだったり、1979年か80年の星新一さん相手の日本SF界についての筒井先生の対談。SF界については知的で友好的な世界であったという幻想を持ちたいし(勿論、そんな綺麗事だけなわけがない事はとっくに知っているのだけど)、そして80年頃の筒井先生がSFプロパーな事についてそんなに興味を持っていたのかなと、40年も遅い心配をしてしまう。
なんであれ、筒井先生の全集とかを読みたくなってくる本であった。

Unhinged: トランプの補佐官だった黒人女性によるトランプ政権暴露本

ドナルド・トランプのリアリティショー The Apprentice の出演者としてトランプと関わりはじめ、トランプ陣営の一員として選挙にも関わり、トランプ政権で数少ない非白人男性の一人として大統領補佐官の一員ともなったアマロサ・マニゴールト・ニューマンによるトランプ政権暴露本。

Unhinged: An Insider's Account of the Trump White House (English Edition)

Unhinged: An Insider's Account of the Trump White House (English Edition)

その途中、トランプファミリー内部の権力関係を理解しようと立ち止まって見ていた事を思い出す。眼の前で、ドナルドはバニー達といちゃついていた。その近くでは、ドンJrが父親に心配げな視線を送っている。父親を畏れかつ恐れている様子で。部屋の向こう側では、メラニアが彼女の夫を見つめている。ミステリアスに、張り詰めた様子で。そしてイヴァンカは微笑んで、近くの誰もを魅了していた。ドナルドは自分の息子も妻のことも見ることは無かったが、イヴァンカの事はしばしば眺めていた。

これは2007年、トランプのリアリティショーを祝うために、プレイボーイ誌の創刊者ヒュー・ヘフナーの大邸宅であるプレイボーイ・マンションでショーの出演者達、番組関係者、トランプファミリー、そして裸の女性たち一杯(!)と共に行われたパーティーについてアマロサが書いている1シーンです。トランプが妻のメラニアと冷めていて、息子たちは軽視していて、娘のイヴァンカにだけやけに興味を持っている事はよく知られていますが、それにしてもこの描写はあたかもアガサ・クリスティによるおぞましい家族関係の描写のようです。これから殺人事件が起こる前の。

殺人事件はともかく、この10年後にはトランプはアメリカ合衆国大統領となってしまい、そのおぞましさを全米そして全世界規模に広げてしまいます。アマロサはその悪夢の実現を手助けした一員です。そうなった理由について本人は、もともと協力していたクリントン陣営からひどい扱いを受けたから、トランプは長年に渡っての友人でありメンターだったから、そして(これは当選後に特に重要になったものですが)人種的多様性が非常に低いトランプ陣営に黒人を中心とした少数派の声を届けるためだったと書いています。そして実際、トランプ政権発足後、補佐官となったアマロサは少数派の為に色々と活動をしていたようです。トランプ政権は圧倒的に白人、さらに言って白人男性の集団であったわけですが、アマロサ本人は人種差別主義者(racist)と批判されるトランプは人種差別主義なのではなく"racial"なのだと信じていたと。この"racial"という言葉、いまひとつ意味が分からないのですが、それに"ism"がくっついた"racialism"は伝統的には人種差別主義(racism)と同義だったものの、現在ではその意味でつかわれる言葉としては完全に"racism"に圧倒され、どうやらなにやら"racial"は人種差別を意味しなくなっている模様。しかし結局、トランプ政権のほぼ全部白人、主に男性という環境で働く中で結局、それはいうなれば希望的観測、自分をごまかしていただけなのが分かったという結果に。
 
トランプ本人が実際に人種差別主義者なのかは正直分からない、というか実は単にクソな人間なだけで人種差別主義者ではないのではと思うのですが、トランプ政権が白人至上主義者からの支持を集めていた事は早いうちから分かっていた事実なわけで、正直アマロサの書いている事にはなんだかなぁという感想を持たなくは無いのですが、トランプの番組に出てトランプとの関わりを持った事が貧困からのアマロサの成り上がりを助けたのも事実なわけで、個人的に人種差別的な扱いをトランプから受けたわけではないアマロサとしてはトランプを信じたのも当然なのかも。そして裏切られてしまったのも。

「トリフィド時代」、ゾンビ物として 

ふつう彼らはほかのグループと合流したがらず、かならずやって来るアメリカ人の到来を待つあいだ、手に入れられるものを手に入れ、避難所をできるだけ快適にしようとする傾向があった。

カーゴ・カルトか!人類社会の終わりを迎えた英国田園地帯にまだ生き延びている英国人達がこのように描写される時代(1951年)に出版された、まさに古典。
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非常に有名な作品なのである程度ネタバレしますが、全人類のほとんどが失明した朝から物語が始まり、タイトルにある歩く食肉植物トリフィドが環境を支配していく中での人類の物語です。これまで全訳を読んだ事はないはずですが、ジュブナイル版を読んだのか、映画の方を観たのか*1、こういう筋であることは知ってました。ですが今回読んでみたら、面白かったです。今のエンタメとは違って文章がエンディングへ向かって一直線に進んでいく感じではなくて、あっちに行っては少し散策、こっちに行ってはまたちょっと考察、という感じでなにかジグザグに進んでいく感じですが、それもまた面白い。という事でおすすめです。以下、読んでて思った事を適当に書いていきます。

1951年の物語なわけですが、現在(2018年)において読んでいると、後の作品、特にゾンビものを思い出します。解説で触れられている「28日後」は英国が舞台なので名前が出てくるのも当然なのですが*2、私としてはそちらよりもロメロのゾンビシリーズの2作目である「ゾンビ」を思い出しました。オールディス言うところの「心地よい破滅」、物を残して者がいなくなった世界の物語。ロメロの「ゾンビ」のショッピングモールはそのカリカチュアとして印象が強いですから。

第二次世界大戦後の「世界の終わり」のより現実的なパターンである核戦争物では人と共に物がなくなってしまい、生き残った者たちは欠乏に追い込まれることで人間性の極限を見せる事になるわけですが、物を残して人間が消えるタイプの世界の終わりの物語では生き残った者達には(少なくとも)当面の生存に問題がなく、というか以前よりも物についてはより恵まれたりするわけで、物語の中で生物としての人間のサバイバルの面が薄くなり、それよりも人間的な感情の問題であったり、人間社会のサバイバルの問題の方が濃くなります。その中でエンタメ作品としての緊張感を担保するのがゾンビであったりトリフィドであったり、そして人間同士の争いであったり。実際的にはそういった怪物のアウトブレイク後、それらが当然の存在になってしまうと主人公たちにとってゾンビもトリフィドも環境になってしまい、闘いのメインは対人間にどうしてもなっていってしまうわけですが。

そういう事も含めて、「トリフィド時代」は後のゾンビアポカリプスの雛形がそこにはっきりと現れていて面白いです。ゾンビアポカリプスの原型としてはマシスンの「地球最後の男」(最新の版でのタイトルは原題にそった「アイ・アム・レジェンド」)

アイ・アム・レジェンド (ハヤカワ文庫NV)

アイ・アム・レジェンド (ハヤカワ文庫NV)

が有名ですが、じつのところ「地球最後の男」には現代ゾンビアポカリプス物の重要な要素である人間同士の対立がありません。しかし「地球最後の男」以前の作品である「トリフィド時代」にはしっかりそれが入っているわけです。ただ、一般のゾンビアポカリプス物では人間、ゾンビという2層構造なのに、「トリフィド時代」では3層構造になっており、「アイ・アム・レジェンド」でもそうなっているのは面白いところ*3

最後にこの作品、人類全体の失明にトリフィドと、SF的嘘が2つも使われるのはSFリアリティ的にキツイなと読む前に思っていたのですが、実はあまり注目は浴びないものの更に謎の疫病というものまであって、それが人類滅亡の後押しをしていたのですね。しかしマイナーなものまで含めて3つの大きな嘘を(当時の)現代社会に導入するというのは更に厳しいなとなるところですが、その3つの根本に冷戦が置かれているのは、ある種の集約を図り、リアリティを担保しようという計算だったのでしょうか。あんまりうまく行っているとは思えませんが。

*1:観たことがあるはずなのですが、はっきりとした記憶がありません。

*2:ロンドンの病院から始まり田舎へ逃げていくという主人公の動きも一致していますし。

*3:もちろんゾンビ物でも「ウォーム・ボディーズ」のように3層構造のものはありますが。

「スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか」

スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか

スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか

ナバホ族のファンの熱意で初めてナバホ語に吹き替えられたスターウォーズEP.4を、これまでスターウォーズを観たことがなかったナバホの老人が観るエピソードから始まる1000ページ弱の、スター・ウォーズ誕生前からEP7公開前までのスターウォーズを巡る物語。スターウォーズは既に現代社会の一般教養だが、この本はどうやってこの古いスペオペのお話がそこまで来たのかについての物語です。それがジョージ・ルーカスの個人史や、スターウォーズ制作のエピソード、ファンのリアクションなどを交互に交える事で語られていく。個人的にスターウォーズには全くハマっていないので、SWヲタにとってこの本の中のエピソードが周知のものなのか、目新しいものなのか全く分かりませんが、ルーカスについてのエピソードは私にはとても新鮮で驚きでした。いや、私が無知すぎたというだけなんだろうけど…ルーカスって実はできる奴だったんだ!知らんかった!

まあ、流石にルーカスの「アメリカン・グラフィティ」や「THX 1138」*1南カリフォルニア大学云々の事は知っていたのだから、ルーカスの凄さを予想する事は出来たはずではないかと今となると思うのだが、この本を読むまでそんな事には全く思い至りませんでした。なぜなら子供の頃から、スターウォーズはカッコ悪いなと思っていたから。例えばEP.4~6などは何度か観ていて美術は素晴らしいと思うのだけれど、アクションについては、何このテンポの悪さ、カッコ悪さ?、といつも疑問だった。この旧三部作制作・公開期間中にはガンダムの劇場版三部作も公開されているわけで、クラシカルなSF美術の面以外では断然ガンダムの方が良いし、面白い。そしてEP.1~3が更にそれに輪をかけました。金はかかってて美術は素晴らしいのに、なにこの鈍重なアクションは?、と。

という事で私の中ではルーカスは、子供の頃の思い出に(当時の)最新のSFXを組み込むことで一山当てた人、くらいの認識だったわけです。既に書いたが冷静に考えれば流石にそれは違うだろうとなりそうなものではあったのだけど、ルーカスの監督したスターウォーズ作がつまらなかったのだもの。じゃあなぜそんなツマラナイ作品を一応全作観ているのかというと、それは私がSFファンで、映画好きで、そして何よりもうすでにスターウォーズが一般教養であったから、特にEP.1~3についてはお勉強として観ておかなければという事があったわけです*2。これまでそういう思い込みにより過小評価をしておりましたこと、ジョージ・ルーカスさんに謝罪し、お詫びに今度、ハン・ロソを観てきましょうか。

*1:どっちも未鑑賞。

*2:ここまですっとスターウォーズを貶してきてますが、実はEP.7、8、そしてスピンオフのローグ・ワンは面白かったです。

「英語教師 夏目漱石」

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坊っちゃん」「吾輩は猫である」等々、無教養なでもタイトルは一般常識として知っているレベルの作品*1を生み出した夏目漱石。その夏目漱石が英語教師をしていた事、イギリスへ留学していた(そしてどうやら英語が嫌いでイギリスが嫌いだったらしい)事等々はぼんやりと知っていましたが、俺なんかだとその程度しか知らなかった漱石の教師としての側面に注目した本。漱石が英語については厳格だけど、生徒の面倒見のよい教師であったことが知れて面白かった。ただ、明治、それも10年代とかの日本の学校システムは今とは全然違っているわけで、流石にもうちょっと当時の学校システムについての説明があっても良かったのではないだろうか。

*1:あくまで「タイトルを知っている」なだけなのが無教養なところ。

『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』

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開戦直前の日本において開戦後の予測がいくつか行われていた事はよく知られている。そしてそれらの結論が、短期的にはともかく中長期的には日本がアメリカに対抗できる事はない、長期戦となれば日本に勝ち目はないという事であったのもよく知られている。

「秋丸機関」は開戦直前に経済調査・謀略機関として作られた陸軍系の組織であり、数年間の活動中、謀略についてはともかく、経済学者を中心とした諸国の「経済抗戦力」の調査と予測を実際に行った機関であった。その調査結果も当然ながら、簡潔にまとめれば日本はアメリカに勝てないというものであったが、その報告の文献が戦後長く発見されなかった事、そして「報告が陸軍の気にいらないものだったので、報告書が回収・焼却された」という関係者の証言によって、秋丸機関の報告が日本の敗北を予測するという陸軍にとって都合の悪いものであったため握りつぶされたのだという物語が生まれた。ところがその陸軍によって焼却されたと思われていた報告書がこの本の著者を含む人たちによって発見され、この物語の過ちが判明する事になる。上述したように確かに秋丸機関は開戦となった場合、日本はアメリカに長期戦となれば勝てないと予想していた。しかし実のところこの予想は当時において、すくなくともエリート層においてはある程度常識的なものであったのであり、陸軍においてもその認識は共有されていた。つまり殊更に秋丸機関の報告を問題視する必要はなかったという事をこの本は明かしていく。開戦前の出版物や秋丸機関以外の組織による開戦後の予測でも同様のことが予想されていたからだ。日本とアメリカ、その生産力の格差により長期戦となれば日本がアメリカに勝つことは単純に不可能、とまで断言するわけではないとしても長期戦となれば厳しいというのは常識的な判断であった。そもそも、開戦しなくてもアメリカの禁輸によってこのままではジリ貧になるというのが対米開戦派の早期開戦の主張の根拠でもあったわけで、開戦がその長期的ジリ貧状態への確実な解決になるとは開戦派も思ってはいなかったはず。

では、なぜ、少なくとも当時の日本の開戦派を含めたエリート層の中でアメリカには勝てないという認識が少なからずあったのにも関わらず、開戦となったのか?この本は秋丸機関の伝説が間違いであった事から、ではなぜそれでも開戦へと日本は向かったのかの謎へと向かっていく。当然ながら、「ハル・ノート」によって日本は開戦に追い込まれたのだという虚構はその答えではない。全体として経済学的ではない本書において、この謎の答えの部分は少しばかり経済学によった答えが与えられる。といっても、その答えがこの本の独創的なものというわけではなく、秋丸機関の報告が戦前においてある程度そうであったように、現在時点である程度は知られている答えを経済学的な視点で語ったものと言える。

しかしその答えも開戦前の時点でなぜ開戦の決定をしたのかという疑問についてのものである。だが、そもそもその開戦前の時点にまでなぜ至ったのかという疑問もまたある。戦前日本の軍・政治関係についての本を読むと、とにかく対(英)米戦を、言葉は悪いが求めているかのような人たちがいろいろと出てくる*1アメリカと戦わなければならないのなら、あの開戦にもそれなりに合理性はあったのかもしれない。しかしアメリカと戦うための資源と生産力を得るために外へと向い、それによって当然アメリカと対立して結果アメリカと戦争、ボロボロになるというのは一体どういう悪い冗談なのだろうか。

*1:その最たるものが「世界最終戦論」の石原莞爾だろうか。

「怪奇礼賛」

19世紀から20世紀半ばまでのイギリスの怪奇小説アンソロジー
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古い怪奇小説となると読みづらい文章をつい想像してしまいますが、これはそんな事はなくてちょっと古風な感じが味になる程度です(読みやすいとは言いませんが)。全体通して特に怖いという事もなく、また全体として特に面白いということも無いですが、個々では結構面白かったので、印象に残ったものがあったので、以下にそれらを紹介。
 
「塔」マーガニタ・ラスキ
  20世紀半ばというこのアンソロジーの中では新し目の作品。その為か文章が読みやすくかつ終わりの切れ味が良い。
 
「よそ者」 ヒュー・マクダーミッド
  酒場で語られるよそ者についての話。1930年代の作品らしいが、ニューウェーブにつながっていく50年代SFのような感じの作品。
 
「メアリー・アンセル」 マーティン・アームストロング
  哀しみに心を囚われた女性の話だが、優しいオチが綺麗につく。
 
「谷間の幽霊」 ロード・ダンセイニ

「今日と明日のはざまで」 A・M・バレイジ
ジプシーの呪いによるタイプトリップが出てくる1922年の作品だが、恐竜の出てくるシーンがちょっと怖い。
 
「髪」 A・J・アラン
1920年代のホラーコメディ。普通に楽しいが、オチがイマイチ分かるような分からないような。多分、当時の有名商品を皮肉ったジョークか何かを元にしているんだろうが。
 
「溺れた婦人」 エイドリアン・アリントン
1954年の作品だけど、出てくる幽霊が何かJホラーぽくて、これからハッピーエンドのJホラーが出来そうな話。原題はLady for Drowningなんだけど、それを「溺れた婦人」と訳したのは「溺れた巨人」とかけたかったからとかあるのかな?まあ、読みは婦人と書いて何故か「ひと」と読ませているのだけど。
 
「死は素敵な別れ」 S・ベアリング=グールド
1904年のこれもコメディ。著者は牧師さんだそうだけど、宗教に入れ込んでる人はウザいというところから始まる話。ぶっちゃけオチも予想がつくが、やっぱり楽しいし、100年以上前の宗教家も同じうような事を感じていたというのも嬉しい。
 
「オリヴァー・カーマイクル氏」 エイミアス・ノースコート
つけられている解説を読んでもいつ発表の作品かわからないのだが、1920年代か10年代なんだろうか?だけどその解説にも書かれているように、なんか現代感(というか第二次大戦後感)がある作品。
 
「ある幽霊の回想録」 G・W・ストーニア
1952年の作品だが、SF読者の感覚だとこれもニューウェーブっぽいよく出来た作品。