P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

歩むべきGlory Roadはどこにあるのか?ハインライン「栄光の道」

好きなSF作家はと問われればハインラインと答える事にしているわたくしでございますが、数あるハインライン作品の中で特にどれと問われれば、長編ならば「栄光の道」を挙げる事にしています*1ハインラインの有名作といえば、「宇宙の戦士」、「月は無慈悲な夜の女王」、「異星の客」、そしてまさに日本におけるロリ物の人気を示すような「夏への扉」*2とあるわけなのに、なぜ「栄光の道」なのか?一つには、ハインラインがこの作品で見せているSF作家としてのセンスですが、それは別にこの作品に限ったものではない。より大きな理由は、ハインラインといえばジュブナイルでも有名なわけですが、「栄光の道」はそのジュブナイルの時期が過ぎた後の青春小説(あるいは青春からの卒業についての小説)にハインラインが彼なりに近づいた作品だと感じるからです。いにしえの20世紀にハインラインと並んでSF BIG 3と呼ばれたアシモフ*3ハインラインについて、

ハインラインは時代についていこうと努めていた。だから彼の後年の小説は1960年代以降の文学の流行に関して、「それっぽくあった」

書いています。とはいえ、アシモフによるハインラインの努力についての最終的な評価は「私は彼が失敗したと思う」なわけですが。そのハインラインが時代についていこうと「努めていた」のがよく現れているのがこの"Glory road"こと「栄光の道」です。今回、この「栄光の道」を久しぶりに読み直したので、その感想を書いてみます。

Glory Road (English Edition)
アマゾンから原書の方を。これは今回、原書の方を読み直したからというのもあるのですが、訳書がアマゾンでは古本としてしかなく、早川書房のサイトで検索しても「栄光の道」が出てこないからです。訳書は絶版にでもなったのか?*4
 
この「栄光の道」の原書にはディレイニーによるハインライン評でもある「栄光の道」評(1979年)が載っているものがあります*5。このハインライン評によると、意外にもディレイニーハインライン好きなのだそうです。

ところで、マルクスの好みの作家はバルザックだった。公然たる王党派だ。そしてハインラインが私の好みの作家の一人だ。

また、デーモン・ナイトによるハインラインの哲学の中心的信条の引用を引き写した後で*6

ハインラインと私はおそらく何が「惑わされた」事になるのかについて、あるいは「惑わされた」事についての社会的責任に関して口論する事にはなるだろうが、それでも、もしハインラインの宣言を突き出されて署名を求められたなら、私はそうする。

とも書いています。こういうディレイニーによる「栄光の道」の評価は、

ハインラインの形式的にもっとも満足のいく作品の一つ…

その終盤では「銀河市民」(1957)以来のどんなハインライン作品に見られるよりも劇的な運命の変転が、はるかにずっと自然で納得のいくかたちで起こる。

ハインラインの他の作品群がなければ、「栄光の道」の喜びにあふれた発想の質の高さがもっとよく理解されていただろう。我々はそれを「軽い」作品として、けれどいつまでも定義されることを逃れ続ける理由によっていつまでも魅力をもつ作品としてみなすことが出来ていたかも知れない。いうならば、そう、我々がコードウェイナー・スミスの作品の事をそうみなすように。

というものです。ハインラインを評するのにコードウェイナー・スミスを持ち出すのは初めて見ましたね。という事で、ディレイニーハインラインを、そして「栄光の道」を高く評価していたわけですが、ディレイニーによると「栄光の道」は連載時(1963年, F&SF)にファンからの評価が非常に悪かったそうです。ディレイニーはそれはこの小説の構造のせいだと書いてますが、まずは作品の紹介を。

「栄光の道」は主人公である米軍退役兵のゴードン、ヒロインである魔女のようなスター、そして従者のような老人(おじさん?)のルフォによる、大雑把に分類すればファンタジーと言えそうな作品であり、大きく4つのパートに分ける事ができます:ゴードンが米軍を退役しヨーロッパで貧乏ボヘミアン生活を送る中でスターとルフォに出会うまで、3人の地球外での冒険パート、ゴードンのセントラルでの生活、そして地球に戻ってきてから。既に書いたように大雑把に言えば冒険ファンタジーなのですが、作品のポイントは冒険にではなく、冒険の後にあります。冒険が終わった後の勇者、つまり元勇者はどう生きればいいのか?

上で触れたハインラインの後期の作品について、じつはあまり読んでいません。どうにも後期の作品には彼の頭の硬さというか、彼の保守性が顕著にそして声高に出てくるように感じられて、そうなるとこちらと思想的に合わないのでそれが気になって読めなかったりするわけです。勿論、「栄光の道」においてもそういう面は散見されて、例えばハインラインの保守性と彼の納税額のせいか税金についての文句が多いのは青春小説と考えるとほんとうんざりさせられるところだったりします。ですが文化の多様性についての引用を最初に掲げるこの作品は若いころのハインライン、1930年に海軍士官としてニューヨークに住む事になった時にはグリニッジ・ビレッジを選びレズビアンの友人もいた*7ハインラインの一面が、最初のヨーロッパでのパートなどに反映されているのではないかと思います。このヨーロッパのパートは60年代のヒッピーのイメージを先取りしているようにも思えます*8。作中でのハインラインの当時の若者についての評価は非常に保守的なものであり、60年代のヒッピーの隆盛を完全に予想失敗しているのにもかかわらず*9。もちろん、ハインライン自身はこれを執筆時点で既に50代であり、若者自身による青春からの成長の物語ではないわけでもあり、それは仕方がない。

かつて、栄光の道を最初に読んだころに印象的だったのは最初のパートなのですが、今回久しぶりに読み直して良いなぁと思ったのは地球に帰ってきてからのパートでした*10。上に書いたようにディレイニーによるとこの作品は連載時に非常に嫌われていたそうなのですが、それについてディレイニーはこの小説のファンタジーとしての上部構造のせいではないかと書いています。この小説は一応、冒険ファンタジーとみなされるのが普通なわけですが、ファンタジー小説的な第2パートにおいても正確にはファンタジーについて語るメタファンタジーであり、さらにその後には冒険が終了した後の勇者の存在の意味、あるいは元勇者である事の人生においての意味についての小説になっていきます。トールキンアメリカで大ヒットする直前にトールキンフォロワー達の小説より先を行っていたのは、ファンタジーをSFとして語ってみせる「魔法株式会社」を1940年に発表しているハインラインの面目躍如というところです。

ですがそれだけでなく、いやそれ以上にこれがSFを含む広義のファンタジーですらないからではないかと思います。実際、最初と最後のパートについては全くSFではなく、そこでは現実の地球の人間サイズの美しくもなく悲劇的というほどでもない悩みや問題が語られているからではないかと。そういう小説だから、つまり人生の意味を探す小説だからこそ何度も書いているように青春小説と感じるわけです。ゴードンは冒険を経て20代にして人生の頂点を迎えてしまい、その後、冒険の報酬として豪華ではあるが、結局はとても豪奢なヒモの生活を送ることになった事に気がつくわけです。そうなった元勇者はどうすれば良いのか?生活に追われるという事がなくなった後にどう生きるべきか?それは青春の(あるいは豊かな時代の引き延ばされた青春の)疑問。与えられたヒモの生活をI deserve it! I earned it!といって受け入れるのも一つのありかた。けれどそれを受け入れられない人間もいるだろうし、ゴードンはそういう人間として設定されています(といって与えられた富を完全に拒絶するわけでもないですが)。けれど、そのゴードンが新たな挑戦の為に戻ってきた地球(というかアメリカ)で消耗し、結局、一人では人生の闘いに負けて行くのがとても良いわけです。そして、そのゴードンを救済する世知に長けた友。第3のそして最後のパートは、そういう敗北とそしてそこから脱していく成長を描いていて、つまり夢物語だけでは人生はすまない、夢物語ですら人生全てを埋めることはできないという事についての物語になっています。そりゃ嫌われるわなw

*1:あと「自由未来」とか「銀河市民」とか良いですね。それから「宇宙の戦士」もなんだかんだ好き。

*2:こんな表現をしてますけど、日本以外でのこの作品の人気のほどは知らないです。

*3:当然ながら残りの一人はアーサー・C・クラーク。私はアシモフも好きなんですが、なんだか今ひとつクラークは好きになれません。

*4:その上さらに、アマゾンあるいはネットで単純に検索すると弱虫ペダルの"Glory road"という曲がいっぱい出てくるし。

*5:あと、このディレイニーエッセイ集にも載っています。

*6:「どんな政府であれ、あるいはなんならどんな教会であれその民に『これを読んではいけない、これを見てはいけない、これを知ってはいけない』と命じようとする時、その最終的な結果は専制と圧政である。その意図がどれだけ立派なものだろうと。心がすでに惑わされている人間を操るのには大した力はいらない。その反対に、自由な人間、その心が自由である人間はどれほどの力を使おうが操る事はできない。拷問台でも、核分裂爆弾でも、どんなものを使っても出来はしない。自由な人間を征服することは出来ないのだ。最大限出来るのは、そいつを殺すことである。」

*7:くどこうとして失敗したそうです。

*8:あるいは戦間期のヨーロッパに滞在していたアメリカ人芸術家とかについてのハインラインのイメージとかだったりするんだろうか?全然しらんけど。

*9:とはいえ、実のところそういう若者像がニクソン言うところのサイレントマジョリティー的な若者の主流だったんじゃないのかなとも思うけれど。

*10:もともと嫌いだったとかってわけではないですが。

「文芸の本棚 久生十蘭」 

久生十蘭という作家さんをご存知ですか?

読書家の方ならご存じなんでしょうが昭和30年くらいまで活躍されていた作家さんで、検索すると「博覧強記と卓越した文章技巧を以て数々の傑作を世に残し、「小説の魔術師」の異称をもつ作家」といった称賛の言葉が色々ヒットしますが、無知な私はろくに知りませんでした。「全く知らない」ではなくて「ろくに知らない」なのは、横田順彌さんの無茶苦茶面白い日本SFこてん古典

日本SFこてん古典 (1) (集英社文庫)

日本SFこてん古典 (1) (集英社文庫)

の中で久生十蘭の「地底獣国」のタイトルが紹介されていた事をかすかに覚えていたからです。という事で俺にはSF系のイメージがありましたので、本屋で見かけた時にこの本をつい買ってしまいました。

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久生十蘭の短編や対談、彼についてのエッセイなどを収録しており、久生十蘭について興味を持つにはまさに丁度いい本です。戦中に書かれたショートショートの3篇「雪」「花」「月」とか良いです。大正期の「電車移住者」、素晴らしいです。戦中の44年発表の「第○特務隊」、面白い。収録されている11作のうち6作が戦中発表の作品で、もちろん反戦志向の作品などは無いのですが、戦争賛美、大日本帝国バンザイ!というのでもなく、その戦争の片隅について語るような作品ばかりが掲載されています。まあこれは作者の傾向なのか、この本の傾向なのかはわかりませんが。ですが収録作中もっとも長く、タイトルからするとなんだか特殊部隊の戦闘を扱っているかのように思える「第○特務隊」が、特殊部隊ではあっても特殊な建設部隊の話だったりして、戦う相手は建設場所の自然環境であるという事、しかもその結末がどこかすこし物悲しいという作品であったりするのでやはり変わっている印象です。

ただ、作品を読んでいると十蘭の文章についての様々な称賛の言葉にもかかわらず、(??)となるところがしばしばありました。なぜそうなったのかよく分からないまま話が進んでいたりします。捕物帳である「忠助」とか、なぜそうなったよく分からないところがあります。勿論、それは私の読解力の問題という事もありうるわけです。ですが、たとえば日本人の通訳と一緒にインドネシア人がオーストラリアまでカヌーで旅をした顛末をカタカナで記した「弔辞」では、そのインドネシア人が日本人を守る為にサメ(鱶、ふか)に追い払おうとした結果左腕の肘(肱)から食べられるのですが、

私ノ突キダシタ腕ハウマク鱶ノ口ノ中ニ入リ、鱶ハ私ノ左腕ノ肱カラ先ヲ喰イトッテ急ニ水ノ中ヘ沈ンデ行キマシタ。

改行されてからのその次の文章が

私ドモハソレカラ五日目ニ「ヨーク」岬ノ西側、「カルン」岬ノ北ノ「ダック」湾ノ、人ノイナイ淋シイ砂浜ニ舟ヲツケマシタ。

となっていて、ここを読んだ時、私は目を疑いました。左肘から先を食べられた事には何も触れないの?肘から先を食べられるというのはどんな人にとっても大事件のはずだし、食べられた後どうしたのかも非常に大事。二人っきりのカヌーの旅ですから、そのまま出血多量で死ぬかもしれない、食べたサメは肘から先を食べた事で満足したとしても血が他のサメを呼び寄せるかもしれない。当然ながら敢えて触れないという書き方もあるわけですが、この食べられた肘に改めて触れられるのが2ページ先、上の引用中の5日目からさらに時間が経って、オーストラリアから戻るカヌーの旅に出てから。ここで食われた左腕を蔦で縛っていた事が知らされるのですが、その左腕が腐って臭くなってから。「肱」という古い漢字なのでもしかしたら私が食べられた部位を誤解していて、実は指の先を食われたとかなのかもと自分の理解を疑ったりもしましたが、このやはりこのあたりの文章を読むと肘から先で正しいよう。となると、作者はこの主人公の左肘から先をサメに食われたという件に大した重みを感じていないという理解にしかならず、別にインドネシア人差別だとかどうとかという事ではなくて、やはり変な感じがします。まあ作品の物語の中で理解しようとすると、これは亡くなった日本人への追悼の文章である為、その日本人の「忠実ナ『ジョンゴス』(下僕)」を自称する主人公が使えていた日本人の死と比べて己の左肘から先を食われたその事件を些細な事と捉えていたという理解も出来なくはないですが、いくらなんでもって感じです。
 
こういった(?)となる唐突な部分もあったりはするわけですが、全体としては面白い本でした。ほんとに「第○特務隊」とかお勧めです。

ミシェル・ウェルベック「服従」、あるいはぶっちゃけ、男なんて持ち上げられてセックスできたらなんでも良いんじゃないの?

数年前に話題になったウエルベックの「服従」を今頃読みました。

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「仏大統領選で激震!!」と帯にあり、「世界の激動を予言したベストセラー」とも書かれている本であります。内容が2022年の大統領選で極右政党への対抗策として左派政党とイスラム政党が共闘、その結果イスラム政党からの仏大統領が誕生し、フランスのイスラム化が進むという設定のこの本、反マクロンのイエローベスト抗議運動が大きな話題になっている今、なんか時代とずれている感もありますね。ですが、中道を標榜していたマクロンが今の不人気のまま2022年の大統領選挙へ突入すれば、逆にそういう展開の可能性も高まるのかもとか思ったりもしますが...まあ別段、真面目に予想として捉える作品でもないでしょう。さて、そういう設定の作品となると自然に予想されるのは反イスラム色のポリティカル・フィクションというあたりになりますが、しかしウェルベックについてはろくに知らないながらもこれまでに読んだ唯一のウェルベックの本

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について

という感想を持った私としては、そんな単純な本なわけもないだろうと思いながら読んでみましたら、やっぱり違いました。もちろん、日本やアメリカならばともかく、フランスそして欧州・イスラム圏についての政治的言明については基本判断がつかないので話の中で起こっている事のリアリティの度合いは全く分からないわけではあるのですが。ちなみにこの本の事を全く知らない私の知人がタイトルだけを見てエロい本かと誤解した事があったのですが、そっちの方のは当たってはいないながらも、この本の重要なところを押さえてはいました。この本は、陰謀論を現実であるとするようなポリティカル・フィクションタイプの面白さではなく、文明論と、中の上流レベルのインテリの中年の危機が一夫多妻という名のハニートラップによって救われる様を描いた作品でした。そしてその精神的劣化・弱体化という中年の危機のセックスによる解決がフランスの征服・服従につながるという。

中年の危機に見舞われた大学教授である主人公はイスラム政権誕生後、ゆっくりとイスラム化していくフランスの中で、その過程に参加しないという消極的なあり方でイスラム化に(意識的にではないとしても)微妙に逆らっていたわけですが、それが最終的には体制に取り込まれていきます。男が女性に求める事は「セックスのできるお母さん」であるという批判をどこかで読んだ気がしますが、一夫多妻という制度により「セックスのできる(≈見た目の良い・若い)お母さん(≈世話をしてくれる)」妻をキメラ的に作り出すことでその制度を生み出すイスラム化をエリート層に容認させていくというこの「征服」方法は男についての身も蓋もない批評かもしれません。現実的であるのかどうかは難しいところですが。個人レベルでなら有効的でしょうが、流石に社会レベルだと既に存在している女性エリート層からのバックラッシュがあって実効的とは思われない。そういうバックラッシュへの暴力による抑圧を想定しているということだろうか?とか考えたりもしますが、まあ既に書いたようにそもそもまず真面目な予想ではなくて、これもある種の「世界系」、主人公自身の悩みがフランスの悩みを表しており、「世界」がそれに反応してくれる物語と捉えるべきなのかもしれません*1。そしてその点で、終盤、主人公のイスラムへの転向が起こるあたりで、この作品が「1984」の反転であるかのように感じました。「1984」では無気力な党員であった主人公がプライベートを得て活力を取り戻していく末に国家と衝突、国家によって粉々に破壊されて社会に適応しますが、こちらでは活力を失っていく主人公が変わりゆく国家の中で、国家によって女性と社会的地位*2をあてがわれて活力を取り戻し新しい社会へ適応していきます。個人の欲望の肯定による国家の勝利というのは、まあ現代的かな*3

*1:ま、いい加減に「世界系」という言葉を今さら使ってますけど。

*2:この両者はそもそも結びついているわけですが。

*3:あくまで男性についてだけですが。

キングの幻、ハーツの市街戦ー「まぼろしの市街戦」

1966年の映画が4Kデジタル修復されてK's cinemaでリバイバル上映*1。大昔に放送されたのを観て感動した記憶に動かされて行ってきましまた。といっても先月の話なのですが。


映画『まぼろしの市街戦』≪4Kデジタル修復版≫ 予告編

第一次世界大戦中のフランスの田舎町を舞台に、占領していた町から撤退するドイツ軍が仕掛けた爆弾を解除するために英軍から送り込まれた一兵士を主人公にした映画、という紹介だとなんかシリアスなミリタリーもののような感じですが、上の予告編からも分かるように全然違います。幻想の優しさと現実の悲しさが交差する、そしてそんなタイプの映画にしては珍しく退屈せずにちゃんと観れる映画です。公開当時、一般的な人気を得たわけではないそうなのですが、アメリカでの上映でカルト的人気を得たとか。70年頃のアメリカは、ナイト・オブ・ザ・リビングデッドとかエル・トポとか、マイナー映画が若者に支持されてロングランのカルト映画になるケースがよくありますね。

前にテレビで観た時は途中からだったので実はそもそもどういう設定の話なのかよく分かってなかったのですが、それでも戦争批判の主張がはっきり伝わったのがラストシーンが非常に印象的なものだからでした。今回のリバイバル上映ではそこからまだ話が続くので、正直、鮮烈さが失われているようには感じましたが、ただ幸せさはより伝わるようになったのかも知れません。

ところで今回観て、一番印象的だったのが、サーカスが放置していったライオンの入っている檻の出入り口を主人公が開けるシーン。66年の映画なので当然ながらCGではないし、ライオンは鎖に繋がれているわけでもないし、主人公は役者さんであってサーカスでライオンに芸をさせる人でもないわけで、すっと開けた時にはライオンが出来てたらどうするんだとマジびっくりしました。でも、ライオンは出てこない。勿論、それが分かっていたからこそ開けたわけでしょうが、それはそれでなんとなく檻から出ないライオンが可哀想にも思えてきます。

あと一つ、この映画を観終わって買ったパンフレットからこの映画の原題が"Le Roi de Cœur"、英題が"The King of Hearts"と知って驚きました。キング・オブ・ハーツって、機動武闘伝Gガンダムではないか!と思ったら、なんとGガンのあのキング・オブ・ハートの元ネタがこの映画だったとは!…いや、昔WIKIPEDIAでその情報を読んで、へー、と思いながらもすぐに忘れていた事をこの映画のパンフレットを読んで映画の原題を知り思い出しました。

*1:より正確には4Kを2Kに変換したもの。

「筒井康隆 日本文学の大スタア」

日本SF第一世代の一人にして、現在では「日本文学」のスタアとなった筒井康隆を特集した本。
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ぶっちゃけ、「日本文学」に寄るほど個人的な興味は薄れるわけだが、それでも完全に興味が無くなるところまでの「日本文学」にはならないのが筒井康隆の素晴らしいところ。そういう認識の人間なので、幅広く色々な人たちが様々な面からみた筒井康隆について寄稿しているこの本の中で特に引っかかったのが、日本SF作家協会内での人間関係(i.e., 対立)について触れた大森望さん相手の筒井先生のインタビューだったり、1979年か80年の星新一さん相手の日本SF界についての筒井先生の対談。SF界については知的で友好的な世界であったという幻想を持ちたいし(勿論、そんな綺麗事だけなわけがない事はとっくに知っているのだけど)、そして80年頃の筒井先生がSFプロパーな事についてそんなに興味を持っていたのかなと、40年も遅い心配をしてしまう。
なんであれ、筒井先生の全集とかを読みたくなってくる本であった。

Unhinged: トランプの補佐官だった黒人女性によるトランプ政権暴露本

ドナルド・トランプのリアリティショー The Apprentice の出演者としてトランプと関わりはじめ、トランプ陣営の一員として選挙にも関わり、トランプ政権で数少ない非白人男性の一人として大統領補佐官の一員ともなったアマロサ・マニゴールト・ニューマンによるトランプ政権暴露本。

Unhinged: An Insider's Account of the Trump White House (English Edition)

Unhinged: An Insider's Account of the Trump White House (English Edition)

その途中、トランプファミリー内部の権力関係を理解しようと立ち止まって見ていた事を思い出す。眼の前で、ドナルドはバニー達といちゃついていた。その近くでは、ドンJrが父親に心配げな視線を送っている。父親を畏れかつ恐れている様子で。部屋の向こう側では、メラニアが彼女の夫を見つめている。ミステリアスに、張り詰めた様子で。そしてイヴァンカは微笑んで、近くの誰もを魅了していた。ドナルドは自分の息子も妻のことも見ることは無かったが、イヴァンカの事はしばしば眺めていた。

これは2007年、トランプのリアリティショーを祝うために、プレイボーイ誌の創刊者ヒュー・ヘフナーの大邸宅であるプレイボーイ・マンションでショーの出演者達、番組関係者、トランプファミリー、そして裸の女性たち一杯(!)と共に行われたパーティーについてアマロサが書いている1シーンです。トランプが妻のメラニアと冷めていて、息子たちは軽視していて、娘のイヴァンカにだけやけに興味を持っている事はよく知られていますが、それにしてもこの描写はあたかもアガサ・クリスティによるおぞましい家族関係の描写のようです。これから殺人事件が起こる前の。

殺人事件はともかく、この10年後にはトランプはアメリカ合衆国大統領となってしまい、そのおぞましさを全米そして全世界規模に広げてしまいます。アマロサはその悪夢の実現を手助けした一員です。そうなった理由について本人は、もともと協力していたクリントン陣営からひどい扱いを受けたから、トランプは長年に渡っての友人でありメンターだったから、そして(これは当選後に特に重要になったものですが)人種的多様性が非常に低いトランプ陣営に黒人を中心とした少数派の声を届けるためだったと書いています。そして実際、トランプ政権発足後、補佐官となったアマロサは少数派の為に色々と活動をしていたようです。トランプ政権は圧倒的に白人、さらに言って白人男性の集団であったわけですが、アマロサ本人は人種差別主義者(racist)と批判されるトランプは人種差別主義なのではなく"racial"なのだと信じていたと。この"racial"という言葉、いまひとつ意味が分からないのですが、それに"ism"がくっついた"racialism"は伝統的には人種差別主義(racism)と同義だったものの、現在ではその意味でつかわれる言葉としては完全に"racism"に圧倒され、どうやらなにやら"racial"は人種差別を意味しなくなっている模様。しかし結局、トランプ政権のほぼ全部白人、主に男性という環境で働く中で結局、それはいうなれば希望的観測、自分をごまかしていただけなのが分かったという結果に。
 
トランプ本人が実際に人種差別主義者なのかは正直分からない、というか実は単にクソな人間なだけで人種差別主義者ではないのではと思うのですが、トランプ政権が白人至上主義者からの支持を集めていた事は早いうちから分かっていた事実なわけで、正直アマロサの書いている事にはなんだかなぁという感想を持たなくは無いのですが、トランプの番組に出てトランプとの関わりを持った事が貧困からのアマロサの成り上がりを助けたのも事実なわけで、個人的に人種差別的な扱いをトランプから受けたわけではないアマロサとしてはトランプを信じたのも当然なのかも。そして裏切られてしまったのも。

「トリフィド時代」、ゾンビ物として 

ふつう彼らはほかのグループと合流したがらず、かならずやって来るアメリカ人の到来を待つあいだ、手に入れられるものを手に入れ、避難所をできるだけ快適にしようとする傾向があった。

カーゴ・カルトか!人類社会の終わりを迎えた英国田園地帯にまだ生き延びている英国人達がこのように描写される時代(1951年)に出版された、まさに古典。
www.tsogen.co.jp

非常に有名な作品なのである程度ネタバレしますが、全人類のほとんどが失明した朝から物語が始まり、タイトルにある歩く食肉植物トリフィドが環境を支配していく中での人類の物語です。これまで全訳を読んだ事はないはずですが、ジュブナイル版を読んだのか、映画の方を観たのか*1、こういう筋であることは知ってました。ですが今回読んでみたら、面白かったです。今のエンタメとは違って文章がエンディングへ向かって一直線に進んでいく感じではなくて、あっちに行っては少し散策、こっちに行ってはまたちょっと考察、という感じでなにかジグザグに進んでいく感じですが、それもまた面白い。という事でおすすめです。以下、読んでて思った事を適当に書いていきます。

1951年の物語なわけですが、現在(2018年)において読んでいると、後の作品、特にゾンビものを思い出します。解説で触れられている「28日後」は英国が舞台なので名前が出てくるのも当然なのですが*2、私としてはそちらよりもロメロのゾンビシリーズの2作目である「ゾンビ」を思い出しました。オールディス言うところの「心地よい破滅」、物を残して者がいなくなった世界の物語。ロメロの「ゾンビ」のショッピングモールはそのカリカチュアとして印象が強いですから。

第二次世界大戦後の「世界の終わり」のより現実的なパターンである核戦争物では人と共に物がなくなってしまい、生き残った者たちは欠乏に追い込まれることで人間性の極限を見せる事になるわけですが、物を残して人間が消えるタイプの世界の終わりの物語では生き残った者達には(少なくとも)当面の生存に問題がなく、というか以前よりも物についてはより恵まれたりするわけで、物語の中で生物としての人間のサバイバルの面が薄くなり、それよりも人間的な感情の問題であったり、人間社会のサバイバルの問題の方が濃くなります。その中でエンタメ作品としての緊張感を担保するのがゾンビであったりトリフィドであったり、そして人間同士の争いであったり。実際的にはそういった怪物のアウトブレイク後、それらが当然の存在になってしまうと主人公たちにとってゾンビもトリフィドも環境になってしまい、闘いのメインは対人間にどうしてもなっていってしまうわけですが。

そういう事も含めて、「トリフィド時代」は後のゾンビアポカリプスの雛形がそこにはっきりと現れていて面白いです。ゾンビアポカリプスの原型としてはマシスンの「地球最後の男」(最新の版でのタイトルは原題にそった「アイ・アム・レジェンド」)

アイ・アム・レジェンド (ハヤカワ文庫NV)

アイ・アム・レジェンド (ハヤカワ文庫NV)

が有名ですが、じつのところ「地球最後の男」には現代ゾンビアポカリプス物の重要な要素である人間同士の対立がありません。しかし「地球最後の男」以前の作品である「トリフィド時代」にはしっかりそれが入っているわけです。ただ、一般のゾンビアポカリプス物では人間、ゾンビという2層構造なのに、「トリフィド時代」では3層構造になっており、「アイ・アム・レジェンド」でもそうなっているのは面白いところ*3

最後にこの作品、人類全体の失明にトリフィドと、SF的嘘が2つも使われるのはSFリアリティ的にキツイなと読む前に思っていたのですが、実はあまり注目は浴びないものの更に謎の疫病というものまであって、それが人類滅亡の後押しをしていたのですね。しかしマイナーなものまで含めて3つの大きな嘘を(当時の)現代社会に導入するというのは更に厳しいなとなるところですが、その3つの根本に冷戦が置かれているのは、ある種の集約を図り、リアリティを担保しようという計算だったのでしょうか。あんまりうまく行っているとは思えませんが。

*1:観たことがあるはずなのですが、はっきりとした記憶がありません。

*2:ロンドンの病院から始まり田舎へ逃げていくという主人公の動きも一致していますし。

*3:もちろんゾンビ物でも「ウォーム・ボディーズ」のように3層構造のものはありますが。