P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

アメリカ保守派知識人の死

アメリカの保守派知識人アンドリュー・サリヴァンがウォールストリート・ジャーナルに掲載されたマーク・リーラという方のアメリカ保守主義の反知性主義に関する文章を「必読」と書かれてましたので、読んで訳してみました。アメリカではいま、さまざまな保守主義の人達が保守主義や共和党の変化を求めてますが(保守の変化って矛盾のある言葉の使いたかですが)、こういう保守主義が反知性主義に堕してしまったという批判を保守主義者が「必読」というのもその一環でしょうね。ただそう考えない人達もまだまだ多いのでしょう。ウォールストリート・ジャーナルは保守派の新聞ですが(もっとも新聞の論説以外の部分は保守とかリベラルとかは余り関係ないです。まあ、これはニューヨークタイムズや他の真っ当なメディアなら基本的にはどこでも同じですが)、この文章の載っているウェッブページでの人気記事ランキングによるとこの記事は4位、1位はブッシュはメディアや国民からひどい扱いを受けてきたかわいそうな犠牲者だ!というものでした。まだそういうものを求めている保守派の人達は多いようです。
ただこういう文章を訳していると実感するんですが、アメリカの反知性主義とか、知識人の堕落とかを取り上げるという事事態が、アメリカには知識人とその階層がいまなお歴然と社会的ステータスを持って存在しているという事をしめしているのですよね。だって今の日本において真顔で、知識人の死だとか、社会における知識人の役割だとか、論ずることが出来ますか?まあ、日本の場合、一時期知識人が社会主義と結びついてしまうという不幸がありましたから、アメリカと比べてその点、日本の「知識人」という言葉は不利だったわけですが。
書かれたマーク・−リーラさんという方は、コロンビア大学の教授ということですが、詳しい事は全然しりません。ただご自分でリベラルと文中におっしゃってられます。もっとも保守派の雑誌、Public Interestの編集をやってらしたそうなので、いわゆるバリバリのリベラルではなさそうです。
なおこの文章はサラ・ペイリンを枕として始まっていますが、もしなぜなのか判らない方がいらっしゃればこの町山さんのエントリーの方もどうぞ。

「ポピュリスト・チック」の危険 マーク・リーラ
Finita la commedia (訳注:道化の芝居はようやく終わりだ?) 火曜日の夜、バラク・オバマが第44代合衆国大統領に選ばれて、多くのことが終わりを告げた。誰に投票したのかによって、あなたは祝ったり、嘆いたりしてこの週末を過ごすことだろう。しかしあなたの政治的傾向がどんなものであれ−共和党だろうが民主党だろうが−サラ・ペイリン知事のアラスカ州ジュノーへの帰還を我々は皆、祝うべきである。
ペイリンの喜劇は既に多くの伝説を生み出した。少なくとも1世代に渡って、それは大統領に関する歴史家や深夜番組のコメディアンに仕事を与えるだろう。なかなか大した事ではある。しかし、この醜悪なエピソードに関する真剣な反省が笑い声によってかき消されてしまうならば、それは悲劇である。ニューヨーカーにおいてジェーン・メイヤーが伝えたように、ジョン・マケインの選択はただの失敗でも、老人ボケでも、そして追い詰められての奇策でもなかったのだ。それは影響力を持った保守派知識人達による、彼らが頼る事のできる若いポピュリストのリーダーを見つけ出そうという長い努力の結果であった。
そしてそれはただの知識人によるものではない。それはナショナル・リビューやウィークリー・スタンダードといった、ウィリアム・F・バックリーの洗練された保守主義や本の虫であるニューヨーク・ネオコンサーバティブ達を代表する雑誌の編集者達によるものなのだ。サラ・ペイリンを応援したことにより、それらの知的伝統はもう公式に死亡を宣告されてもよいだろう。
なんという時代の変化だろうか。過去40年間、アメリカの保守主義は政治的な躍進を遂げてきた。その小さからぬ部分はその知的躍進の成果であった。1955年、社会学者のダニエル・ベルは、「新しいアメリカの右派」は強い反知性の傾向があるとする本を出版する事ができた。そしてその見解は数年後、リチャード・ホフスタッターの影響力を持った「アメリカの反知性主義」(1963年)においても繰り返し表明された。
だがその次の15年間で、全ては変わってしまった。Public InterestやCommentaryが内政外政に真剣な関心を持つ者全てに必読の雑誌となり、ワシントンや様々な大学にて保守派の研究機関がつぎつぎと立ち上がり、公共政策に関する新しい考え方を提供していった。バックリー、アーヴィング・クリストル、ネーサン・グレイザー、ダニエル・パトリック・モイニハン、ガートルード・ヒンメルファーブ、ピーター・バーガー、ジーン・カークパトリック、ノーマン・ポッドレツ−−彼らに同意しようが反対しようが、彼らはまじめに取り上げねばならない人達であった。
リベラリズムが完全に消耗してネタ切れとなっていた陰鬱な70年代に政治的意識に目覚めた私は、彼らの書くものに最初に出会った時の興奮をいまだに思い出す事ができる。シンビオニーズ解放軍がパティー・ハーストを誘拐したのと同じ週に私はPublic Interestを発見したのだ。そのページは嵐からのシェルターを提供してくれた−−路上の暴徒達から、教授や仲間の生徒達のラディカルな言動から、現実をしらない金持ちリベラル達から、つまりポスト60年代政治の馬鹿げたサーカスの見世物全てから。当時、保守の政治ではなく、保守派知識人達の落ち着いた態度に私は惹かれたのだ。彼らの成熟と真剣さ、歴史観に基づいた視点、現実的なセンスを私は崇拝した。政治的俗物とデマゴーギーへの免疫を持たない国で、彼らはそれらに冒される事なく民主主義のあり方について研究していた。彼らは歴然としたエリートであった。しかし彼らは民主主義を愛しそれを助けようとするエリートであった。
そして、何が起こったのか?30年の後、若き保守派知識人達がどうして、無知、偏狭、そしてポピュリストのデマゴーギーといったかつての保守派知識人達が抗ったもの全てを体現するサラ・ペイリンのような候補を応援したり出来たのか?その悲しい物語は80年代、左派傾向のあるメディアや大学によって失意を味わった保守派の指導者達が「知識人の敵対文化 adversary culture of intellectuals」について語り始めた時に始まった。その言葉は偉大な文学批評家ライオネル・トリリングから拝借されたものだ。彼は自由な社会の核心にあって、起こりつづける変化について語るためにその言葉を使ったのだ。しかしその言葉は怒れる保守派によって取り上げられ歪められてしまった。いたるところに敵対者を見出した彼らは、それらを「普通のアメリカ人」と対比させる事にしたのだ。「普通のアメリカ人」など、彼らはろくに知りもしないのに。1976年、アーヴィング・クリストルは「ポピュリストのパラノイア」が「民主共和国が苦闘しながら秩序ある自治の為に生み出した機関や権威を滅ぼしかけている」という心配をおおやけにした。しかし80年代半ばには、彼は自身の新聞の読者へ、犯罪や教育に関する一般のアメリカ人の「常識」が「平衡感覚を失った我々のエリート達」によって裏切られている、それゆえに「通常ならポピュリストによる反乱を恐れるような私自身を含む多くの人達が、この新しいポピュリズムにとても同情的になっているのだ」と語った。
サイは振られてしまった。その後25年に渡り、かつての先人達の知的美徳をまったく持たない新しい保守派の物書きの世代が育ってきた−−実際、彼らは自分達を反知識人とみなしているのだ。殆どは良い教育を受けていて、多くがアイヴィーリーグの大学に通っていた。事実、ペイリン指名の立役者の一人はかつてハーヴァードの教授だったのだ。しかし彼らの保守派運動の中での機能は、ポピュリストの政治的傾向を指導し、より良いものに昇華することではない。それは一枚岩で一律に敵対的だとみなされる教育を受けた階層への反感を正当化することなのだ。彼らはノーベル賞受賞経済学者のアドバイスをあざ笑い、配管工や建設作業員の経済的見識を賞賛する。大使や外交官をからかい、異国に住んだこともなく外国語を話す事もできないが愛国心だけは強いジャーナリストを持ち上げる。そして、扇情的なラジオやテレビ番組の台頭によって、彼らは知的エリートへの侮蔑を喜ぶ大規模な観客を見つけたのだ。彼らはその観客を操ろうとした。しかし真実は、いまや観客が彼らを操っているのだ。
70年代の昔、保守派知識人は「ラディカル・チック」について語るのを好んでいた。それは、その政治的ファンタシーを荒っぽい革命家や路上の暴漢達に投影しては彼らの「苦闘」を美化する、教育を受けそして大抵は豊かなリベラル達の事だった。しかし、「ポピュリスト・チック」はまさに「ラディカル・チック」の真逆のものであり、同様に馬鹿げていて、笑えて、そして不気味だ。伝統的な保守主義者は常にポピュリズムを警戒していた。そして彼らは正しかったのだ。彼らはエリートを政治の現実であると、民主政治においてもそうなのだとみなしていた。民主主義において大切なのは、それらエリートがその地位を能力と経験に基づいて獲得する事、公益の為に尽くすように教育されている事なのだ。しかしまた、彼らがそのエリートである事をはっきり認め、そしてエリートの必要を説くこともまた大切なのだ。彼らは民主主義の友人として民主主義と、そして自分達自身を、全ての民主主義が持つ平均化と俗悪化から守らなければならないのだ。
最近、ニューヨークタイムズで、デビッド・ブルックスは正しくも(だが遅ればせながら)保守派の「リベラル知識人への嫌悪」が「教育を受けた階層全体への嫌悪」に転落してしまったと書き、そして共和党は教育を受けた有権者を遠ざけてしまっていると心配していた。私は共和党の未来などどうでもいいが、しかしこの国全体の政治な思考と判断に質については心配している。かつて、保守派知識人達がアメリカの公共政策に関する議論のレベルを押し上げ、真面目なものにする事を手伝っていた時期があった。そのような時期は、もう去ってしまった。政治的な判断については、サラ・ペイリンを世界の指導者になりえる地位の候補へ選んだという事が全てを語っている。共和党と政治的右派は生き残るだろうが、保守派の知的伝統はすでに死んでしまった。そして全てのものが、私自身のようなリベラルも含めて、何かを失ってしまったのだ。