P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

ジェームズ・ハミルトン:ニューディールは大恐慌を長引かせた

ここに訳した第2次世界大戦が大恐慌を終わらせたのかどうかに関してのMarginal Revolutionのエントリーに興味を持ったので、そのエントリ内のリンク先をいくつか訳していくことにしました。といってもさすがに論文を訳していくのは大変なので(あと大抵文章は面白いものではないし)、リンク先にあったブログのエントリーを訳していきます。最初のものは、UCサンディエゴのジェームズ・ハミルトンのブログ・エントリーです。これはニューディールの政策のいくつかは大恐慌を長引かせたのだというもので、2007年の頭にバークレーのブラッド・デロングとその事でやりあってたんですね。しかし読んでて思いましたが、製品の最低価格維持とか、農産物の減反政策とか、日本の政策ってしばらく前まで(いやいまでもか?)アメリカのニューディール政策をやってたんですね。なんか驚き。
ニューディールと大恐慌    ジェームズ・ハミルトン 2007年1月10日

MahalanobisMarginal RevolutionそしてFree Exchangeの彼ら同様、バークレーの教授であるブラッド・デロング(Brad DeLong)がこんな事を言っているのには驚いてしまった:「普通の人間ならニューディールが大恐慌を長引かせたとは主張しないだろう」。ブラッドは頭のいい奴だから、私は自分がまともでない事を認めておくべきだろう。
アメリカの大恐慌の時期を3つに別けてみよう:(1)初期の景気後退期(1929−30)、壊滅的な景気の自由落下時期(1931−1932)、そしてゆっくりとした回復期(1933−39)。それぞれの時期には異なる要因が作用していたと考えている。
初期の景気後退期は特別とりたててどうというようなものではない。1929年12月から1930年の4月までの株価の急激な上昇が示唆していたように、もし経済が1930年の半ばに回復を始めていたなら、このエピソードは他の歴史上の数多くの景気後退となんら変わるところはなかっただろう。よくある景気後退を引き起こすいつもと同じ要因が、1929−30年に起こった事の十分に筋の通った説明を与えてくれる。その要因のなかで、1928−29年の通貨供給量の減少(PDF)が後退につながったようだし、外生的な消費と投資支出の減少もそうだっただろう。
このエピソードを良くある景気後退と隔てるのは、後退初期の深刻さではない。よくある景気循環とは違って、1930年以後に物事が非常の劇的に悪化していったという事実なのだ。私の意見では、こうなった理由の一つは通貨供給の崩壊である。それが経済を悪性のデフレーションへと導いたのだ。私は金本位制がそうなった事の一因だったと主張してきたし、実際、各国は金の交換を停止するや否や大恐慌から回復し始めたことが記録されている。また、銀行の取り付け騒ぎが恐慌の第二期において重要な役割を果たしたとも考えている。そして、FDIC(連邦預金保険公社)やFSLIC(連邦貯蓄貸付保険公社)のようなニューディールの金融における制度的革新がそのような問題の是正に間違いなく貢献したとDaniel Grossに対して幸せにも認めることができる。
1933年以降、経済は再び回復を始めた。実質GDPは1933年から1939年まで年平均6.7%で成長した。しかしながら、この時期の成長は力強かったものの、失業率は高いままであって、相当の生産力余剰があったのも間違いない。なので、私は「何が大恐慌を引き起こしたのか?」という疑問の第三の部分は、通貨の減少要因が除去されたあとも、回復にそれほどまでに長い時間がかかったのはなぜかを説明する事だと考えている、
経済の回復を助けるものとされるのは、大規模な失業者の存在は賃金と物価の低下につながるということだ。政府が通貨供給の減少を防ぐ限り(これは先ほど述べたとおり、1931−32年に連銀が見事なほどに失敗した事だ)、それによって労働市場での均衡を回復するからだ。しかし、1933年から1934年の間の非常に大規模な失業の真っ只中で、平均時給が鉄や鉄鋼生産、家具、そしてセメントなどの分野で25%以上、製材分野では50%以上も上昇していたのだ。どうしてそんな事がありえたのか?
ところでこれらの数字は、2004年のJournal of Political Economyに掲載されたUCLAのハロルド・コールとリー・オハニアン(Harold Cole、Lee Ohanian)教授達の論文からのものである。この疑問にたいする彼らの答えは、多くの失業者が長期にわたって存在したことの小さからぬ理由は1933年の全国産業復興法(National Industrial Recovery Act of 1933)と1935年の全国労働関係法(National Labor Relations Act of 1935)にあるというものだ。
コールとオハニアンはルーズベルト政権の多く(の人達)が恐慌の深刻さは賃金と物価を余りにも低くしてしまった過剰なビジネスの競争によるものだと信じていたと述べている。奇妙な事だが、実のところ私はその診断に部分的に同意している−−1929−33年の急速なデフレーションは非常に(経済を)不安定化させるものだった。しかし私はそれを正すのは、純然たる政府の命令によって名目賃金と物価を上げさせようとすることによってではなく、金融政策と財政政策を通して行われるべきだったと考えるものだ。
NIRAとNLRAの目的は、企業間と労働者間での競争の程度を制限する為に労働と商業における(新しい)やり方を広める事だった(promote labor and trade practice provisions )。コールとオハニアンが着目したNIRAの規約には、会社がその製品を売ってはいけない最低価格だとか、生産能力についての制約、そして生産してもよい数量、それから労働時間に関する制限などが含まれていた。コールとオハニアンはモデル・シミュレーションの結果に基づいて、ニューディールのこういう側面が産出ギャップの継続の60%を説明するとしている。
製造業以外では、1933年の農業調整法(Agricultural Adjustment Act of 1933)や小麦を栽培しないように農家にお金を支払うSoil Conservation and Domestic Allotment Act of 1936(訳注:土壌保全と農地割り当てに関する1936年法?)は、農産物価格を上げる為に農産物生産を減少させるという目的で作られたものだ。テキサス州の鉄道委員会のような州の規制委員会は、石油価格を上げる為に石油会社に生産を削減するよう命じたりした。
経済の各分野においてもっと独占を作り出すために生産削減を奨励していけば賃金と物価が上り、なぜだかみんながそれで豊かになれるという考えは、余りにも素晴らしくばかばかしいので、ニューディールはいくつかの面で経済の大恐慌からの脱却を間違いなく遅らせたと信じている者は、ブラッド・デロングが本当にそれを信じているとするとただただ驚くばかりである。
製造業や、農業や、鉱業の産出制限を明示的な目的とした政府の政策は実際に、製造業や、農業や、鉱業の産出を制限する効果を持ったことだろうと信じている事を、私はここに公に宣言しておこう。