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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

ニューディールと第2次世界大戦は財政刺激について何を教えてくれるか?

経済学 ニューディール 大恐慌 第2次世界大戦

クルーグマン他のリベラルが大規模な財政出動を主張し、オバマもある程度はそれに答えている中で、右の人達もそれへの対応を頑張ってられます。そしてこれまでも何度か訳してきましたが、それは今のところニューディールや第2次世界大戦によってアメリカは大恐慌を脱したのではないという主張の形を取っています。ニューディールや第2次世界大戦はケインジアン財政政策とイメージの上で結びついてますから、そのニューディールや第2次世界大戦の経済効果を否定する事で間接的にケインジアン政策を否定しようというものです。Marginal Revolutionのメイン執筆者であるタイラー・コーエンがニューヨークタイムズにニューディールの効果を否定したコラムを書いてました。そしてニューヨークタイムズでブログを書いているスティーヴン・レビットが、そのブログにニューディールと第2次世界大戦の経済効果について否定的な経済史家プライス・フィッシュバックの文章を載せていました。中身はこれまで訳してきたものと比べて特に新しい事はないですが、色々詳しく書いてありますし、またその内にブラッド・デロングや、レビット同様ニューヨークタイムズでブログを書いているクルーグマンが反論エントリーを書くと思いますので、このフィッシュバックの文章を訳しておきます。
(レビットの使う第一人称を「僕」に変更)
プライス・フィッシュバック:ニューディールと第2次世界大戦は財政刺激について何を教えてくれるか?  スティーヴン・D・レヴィット 2008年11月21日

Home Owners’ Loan Corporationについてこの間文章を寄せてくれた経済史家のプライス・フィッシュバックがアンコールを受けて戻ってきてくれた。今回、彼はニューディールと第2次世界大戦がケインジアン政策の成功例であるのかどうかについて語ってくれている。
僕はずっとそうなんだと思っていたんだけど、データをもとにフィッシュバックは実はそうじゃないという簡潔かつ説得的な主張をしてくれている。
僕はこの彼の文章から非常に学ぶものがあったし、みんなもそうなのじゃないかと思う。公共の議論を促進する為に、こういう文章をアカデミックの経済学者はもっと書いていかなきゃならないと、僕は思うんだ。

ニューディールと第2次世界大戦は財政刺激について何を教えてくれるか?  プライス・フィッシュバック ゲストポスト
誰も彼もが財政刺激策について語っている。そしてその多くがニューディールと第2次世界大戦を刺激策の古典的成功例として挙げている。評論家達による歴史では、連邦政府は多額の出費を1930年代にはワークプロジェクトに、そして1940年代には弾薬に行い、それがアメリカ経済にとって重要な景気刺激であった、となる。諸君は気をつけたほうがよい。歴史は数行で語れるよりもずっと複雑なものなのだ。
ニューディール
連邦支出はニューディールの時期にGDPの4%から8%へと、平時のアメリカ史では最大の増加を見せた。しかし、これは経済へのケインジアン財政刺激策の例ではない。経済学者と経済史家はこの事を過去70年間知っていたが、神話は未だに生きつづけている。1930年代の支出を1958年の貨幣価値で計った下の図が、それは神話だと教えてくれよう。きちんとした分析はより込み入ったものとなるが、しかしこの図はその結論への近道だ。

この図は連邦政府の支出、財政赤字、そして各年のGNP(訳注:国民総生産。GDPは国内総生産。かつはGNPの方が経済規模の指標として一般的に使われていました。両者の差は各国国民の外国での経済活動の差で、先進国ではそれほど大きくないですが、発展途上国などでは大きな差が出ることがあります。)と1929年のGNPとのギャップを表している。
この図は連邦支出がそのギャップを補うには全く足らなかった事を示している。さらに1930年代の税制を考慮に入れると(訳注:1930年代、連邦支出は増加しましたが、税率の方も急増しました)、1930年代の財政赤字や均衡した財政(の規模)(the budget deficits of the 1930’s and one balanced budget)は当時の問題の規模と比べてわずかなものでしかなかった事がわかる。
ジョン・メイナード・ケインズはアメリカの主要新聞にオープン・レターをよせて、更なる支出だけでは不十分だとフランクリン・ルーズベルトに訴えた;政府は大規模な財政赤字を出さなければならないと。ケインズの主張は1930年代が過ぎた後に確証される事となる。アバ・ラーナー、E・カリー・ブラウン、そしてクロード・ペッパーのような様々な学者がニューディール財政を検証したのだ。その全員がニューディールをケインジアン財政刺激政策と呼ぶ事は出来ないという事で意見が一致した。我々としては、この事が十分に広まって神話が訂正される事を祈りたい。
さて、ケインジアン政策でなかったのなら、ニューディールは一体何だったのだろうか?それは「問題があるぞ、なんとかしよう!」といった感じの、支出と、規制と、融資と、徴税と、金融政策に幅広くまたがった混合体なのだ(It was a broad-ranging mix of spending, regulation, lending, taxation, and monetary policies that can best be described as “See a problem and try to fix it.”)。多くの場合、ある問題への対策は他の問題を悪化させてしまった。農産物価格を上げようという計画は救済を受けていた労働者へのダメージとなったし、賃金と物価を上げようとした努力はさらなる失業につながり、そしてさらなる救済への支出が必要となった。私はここでは支出に対象を限定するが、この文章の終わりで議論される文献からニューディールについての更なる情報を得る事ができる(訳注:それっぽい情報は示されてないと思いますが…)。
ニューディールの主要な支出プログラムのうち財政刺激的とする事のできるものは、ニューディール期間中の救済と公共事業についてのものである。救済プログラムは連邦緊急救済局(F.E.R.A.)と共にはじまった。これは1933年半ばにつくられて、1935年7月に廃止された。連邦政府は州に二つのタイプの救済資金を分配した:労働による救済と、現金、食料、衣類による直接的な救済。25%の失業率に直面して深刻な状況にあった労働者にとって、これは本当にありがたい救済であった。救済局の担当者達は、救済申告者の所得や必要性を評価して、彼らの家族がなんとかぎりぎりやっていくのに十分な直接、もしくは労働救済への賃金による救済を与えようとした。
もっとも良く記憶されている連邦の救済プログラムは、F.E.R.A.を1935年7月に引き継いで、主要な緊急労働救済プログラムとなった雇用促進局(W.P.A.)である。W.P.A.はF.D.R.(ルーズベルト)と上下両院との一連の妥協の産物として1935年に生み出された。W.P.A.においては行政府により大きな裁量権が与えられたが、これは1942年に最終的に廃止された。「失業予備者(?)」(unemployable)への直接救済への権限は州や地元の当局者へと返された。そして最終的に、社会保障法(the Social Security Act)が今日、社会保障として知られる古からの年金を設立し、そしてまた失業保険や、扶養が必要な子供への援助、高齢者への補助、そして盲人への援助など一連の州と連邦によるプログラムを作り出した。これらの一連のプログラムは多くの州でそれ以前からあった州政府独自のプログラムに取って代わった。
W.P.A.やF.E.R.A.の労働救済プログラムを新しい景気刺激のプログラムの雛型として持ち出す人達がいるが、彼らは実のところそれらのプログラムがどのように動いていたのか理解していないのだろう。
F.E.R.A.やW.P.A.が多くの道路や、建物、そして公共事業を行ったのは事実だが、それらは労働が要求される「救済」プログラムとして計画されたものだった。その目的は、多くの家族が最低限の所得水準を稼げるようにする事で、それらのプログラムでの平均時給は後に述べる非救済目的の公共事業での時給の大体40%であった。
賃金がそのように低かったのは、1933年から1939年まで失業率が14%から25%の間にあった時に、ルーズベルトが財政赤字を抑えながらなんとか出来るだけ多くの人々が基本的レベルでの生活水準を実現できるようにしようとしたからだ。
この基本的レベルでの生活水準を実現しようという努力は、色々な社会−経済面での状況改善に貢献した。最大規模の都市での救済プログラムについての最近の研究は、2008年物価での250万ドル(1935年での20万ドルにあたる)の救済への支出は、幼児1人の死、自殺1人、感染や寄生による疾病からの死2.5人、下痢による死1人、そして21件の窃盗事件の減少につながったとしている。
この成功にも関わらず、多くの人の関心は、低賃金雇用による社会の為の公共事業を行うシステムの再建には向いていないように思われる。失業保険や、健康、栄養、そして福祉プログラムからなる現代の社会保障構造が、こういうタイプの問題解決の為にすでに存在するからだ。
財政刺激を支持する人達の目的により適したニューディールのプログラムはそれほど有名ではない公共事業局(W.P.A.)や、公共道路局(?)(the Public Roads Administration, P.R.A.)、そして公共建造物局(?)(the Public Buildings Administration, P.B.A.)などだ。そしてまた、民間土木工事局(?)(the Civil Works Administration, C.W.A.)も満額の賃金を払いながら、1933年/1934年の冬の4ヶ月の間、400万もの人々を雇用する救済プログラムを行っていた。
これらのプログラムも、W.P.A.やF.E.R.A.同様、ダム、下水道、橋、道路、そして建物を建設していた。違いは、これらのプログラムは民間業者を雇っていた事だ。そして業者は建設業界での通常の賃金を払っていた。
景気対策として、これらのプログラムはどれほど効果的だっただろうか?現在時点で、我々の知る効果の推計は公共事業と救済策とをあわせたものしかない。郡のレベルでの効果を調べた研究によると、1933年から1939年までの公共事業と救済による郡への一人あたり1ドルの追加は、1939年での郡への人口流入と一人当たり80セントの所得増につながったという。しかし、これは労働につくことのできる失業者の数が膨大にいた時期のものだったことを思い出してもらいたい。そしてこの時期ですら、民間雇用へのクラウディング・アウトの証拠を発見した研究がいくつかある。失業率が7%を下回る今日、そのような公共事業支出が民間の建設を大きくクラウディング・アウトする可能性は高いだろう。
私としては、公共事業プログラムの効果は、経済への刺激ではなく、そのプログラム自体の生産性に基づいて計測されるべきだと考える。道路や、橋、そしてダムなのどのインフラが老朽化していることは誰もが知っている。それらの更新のコストと利益がに基づいてお金を出すかどうかを決めるべきだと考える。
第2次世界大戦
第2次世界大戦が経済を大恐慌から脱出させた巨大なケインジアン刺激策であった、というのはよく言われることだ。表面的には、事実はこれに支持しているように思える。連邦政府GDPの44%を戦争遂行につぎ込み、非常に大きな財政赤字を出した。多くの女性が労働力に加わったのにも関わらず、失業率は2%以下にまで下がった。
一連の学術論文において、Independent Instituteのロバート・ヒッグスはこのケインジアン景気刺激策の見事な成功の図に疑いを差し挟んだ。戦争経済とは極度に通常ではない状況だ。大きな財政赤字を出しながら、連邦政府は経済の大きな部分を統制下に置き、資源の大きな部分を戦争努力につぎ込み、労働人口の15%を軍隊に送り出し、賃金と物価のコントロールを行った。
第2次世界大戦中の民間消費についての公式の統計では、実質消費支出は上昇している。しかし、その統計は、その時期の真の消費財価格とは異なる公的にコントロールされた価格に基づいている。
真の価格を反映するように比較的マイナーな調整を行うと、戦時下の実質消費は1941年のそれを下回っている。大部分の軍人は外地において身体と命を危険にさらしていた。内地においては、人々は新しい車も、タイヤも、多くの家電も、いかなる価格でも買う事が出来なかったのだ。配給プログラムが、肉やガソリン、そしてその他多くの物資の入手を規制していた。
第2次世界大戦下の生活は、大体において大恐慌の欠乏の継続であったが、二つの違いがあった:戦争を戦うなかで、多くのものが彼らは戦争勝利という大きな目標のために犠牲を払っているのだという考えのフレームの中に入っていた。そして買う物がない当時の人々は貯蓄を溜め込んでいった。
ケインジアン財政赤字がアメリカの大恐慌からの脱出の鍵ではなかったことをしめす一つのサインは、何が戦後に起ったかである。全てのケインジアンが大規模な政府の財政赤字がなくなり、多くの男性が戦争から職なしで帰ってくる為に、民間経済は不況に落ち込むと予想した。しかし実際のところは、政府の赤字が減少していく中、民間消費と投資が大きく盛り上がった。資源はもはや弾薬の生産に配分されるのではなく、通常の消費財とサービスの生産につぎ込まれた。
この議論はアメリカは戦争を戦うべきではなかったと言っているのだと誤解する人もいるかもしれない。この議論の要点は、第2次世界大戦とは多くのアメリカ人が大恐慌の後期において経験した欠乏と同等のものを経験した時期であったのだという事だ。莫大な財政赤字は言葉の通常の意味での財政刺激ではなかった。アメリカは総力戦を戦う為の統制経済であったからだ。ウィリアム・テカムセ・シャーマン(訳注:アメリカ南北戦争での北軍の将軍)は良く知られるように、「戦争は地獄だ」と述べた。我々はこう付け加えるべきだろう。「大規模な財政赤字で賄われていても」。