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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

クルーグマン:流動性の罠のなかでの最適財政政策

クルーグマン 経済学 流動性の罠

明けましておめでとうございます!新年の元旦を皆様はどうお過ごしですか?おれは東京に出てきたたばかりでいく所もありませんから、朝から翻訳してました。とっても有益ですね!その前の大晦日の晩は、スコセッシュ/デニーロの「タクシードライバー」を観てました。やっぱりアメリカンニューシネマは良いです。トラヴィスのいってしまっているへたれぶりがよいです。これ、初めて観た時はあれだけの事をしたトラヴィスが何事もなかったかのように元通りの生活に戻っていることが理解できずに戸惑ってしまってましたが*1、今になるとあれはヘタレで頭の悪い70年代のフィリップ・マーローなのかな、と思います。強くなければ、優しくなければ...でもだれもがマーローなんかになれるわけもなく。卑しき街を彷徨う騎士なんて、なかなかなれませんです、はい。
さて、このところアセモグルの論文をずっと訳してきましたが、おれの受け持ちパートはひと段落つきましたので別ものということで、またクルーグマンです。クルーグマンは財政出動を主張していますが、その理論補強としてモデルを書き出したようです。まだ荒削りということですが翻訳しときます。
流動性の罠のなかでの最適財政政策  ポール・クルーグマン 2008年12月29日

財政刺激政策についての経済学者間でのやり取りで明らかに欠けているのは、きちんと組み立てられたモデルだ。ある程度までならこれもOKだろう−−とくに危機への対応の最中に、政策のすべてが1階の条件にちゃんと基づいていることを求めているわけにはいかない。しかし、暗黙の理論に完全に頼ってしまうことにも危険がある;正しいはずと考えていることを話しているつもりでいながら、実は最大化を行うエージェントを組み込んだシンプルなモデルにおいてすら正しいくないことを話していたということはありえることだ。

一例:私はこの流動性の罠について、そんな罠というコンセプトはナンセンスだと思いながら関わっていった--お金をすればいつだって価格を上げることができるはずだ。とてもシンプルな最大化のモデルを書くまで、それが間違いだということに気がつかなかったのだ。一時的とみなされた金融拡張は完全に無直でありえるのだ(http://web.mit.edu/krugman/www/japtrap.html を見よ。邦訳)。
私のホームフィールドの国際経済学、ニューケインジアン経済学に基づいたいわゆるニュー・オープン・エコノミー・マクロ経済学は大きなインパクトを持ってきた。これは主に、それが財政政策の厚生への効果についてシステマティックに語るすべを与えたからだ。モデルは現実的なものではない:金融ショックに短期的な実質効果を与えるなんらかの短期的な価格粘着性を除いて、それらはすべての人々が異時点間での完全な最大化行動を取ることを仮定している。しかし非現実的なモデルですら、クリアに考えることを大いに助けてくれるのだ。
このノートにおいて私が行おうとしていることは、流動性の罠の中での財政政策の役割についてのニュー・ケインジアンタイプの分析のスケッチを与えることだ。その結論は非常に強烈なものだ:いくつかの条件はおいて置いて、結論として私は経済が流動性の罠に落ち込んでいるとき、政府支出は完全雇用が回復されるまで拡張されるべきだ、と主張する。それは勘ではないし、個人的な信条でもない。それは[分析の]結果である。
この結果の背後にある基本的な理屈は、経済が流動性の罠の中にあるとき、経済の資源の完全雇用を実現するのに十分なほどの民間需要がない為に、政府支出の社会的限界費用は低いということだ。これは、完全雇用(いくらかの説明がここでは必要なコンセプトだ)が実現されるまで、政府支出の増加は厚生を上げることが普通に期待できることを意味する。[完全雇用が実現される]ところまでくると、政府支出の限界コストがはねあがる。民間支出から資源を奪ってしまう為だ。
OK、ではモデルをスケッチしていこう。後でもっと注意深く、きちんと書いたバージョンを作るつもりだが、しかし今のところはとにかく[モデルが]できればいいとする。
Obstfeld and Rogoffの1996年の論文"Exchange rate dynamics redux" (これはBlanchard and kiyotaki の1987年の論文"Monopolistic competition and the effects of aggregate demand"に大きく寄っている)などで使われているタイプの典型的なニュー・ケインジアンモデルから始めよう。こういったモデルでは、消費者は異時点間効用関数の最大化を行う。こういった関数だ(特定の関数の利用は重要なことではない):

ここではCは私的消費、Mは保有されるお金の額、Gは公共財への実質政府支出、そして最後の項は労働の努力である。消費需要にシフトファクター s をつけた。いま我々が経験しているような需要への負のショックを作り出す為の大雑把な方法としてだ。Gは一括税(lump-sum tax)によって賄われる;後で述べるように、この仮定を緩めるのは、結果を緩和する一つのやり方である。
各労働者は差別化された財の唯一の生産者--「ヨーマン企業家」(yeoman entrepreneurs)ということだ--であり、かれらは独占的競争をおこなっている。消費者と政府はこういった差別化された財の集合を購入する:

独占的競争によって価格粘着性が理解しやすくなる:個々人にとって、最適[価格]からの小さなずれを修正しても、その利益はずれについてのセカンドオーダー(second order)でしかない[訳注:非常に小さいということ]。これはつまり、価格の変更についての小さなコストが価格を粘着的にできるということだ。しかし価格粘着性の総厚生への重みはファーストオーダー(first order)である[訳注:セカンドオーダーより大きい]:貨幣供給を減らして、もし価格が低下しなければファーストオーダーでの厚生の損失がおこる。
このモデルにおける民間の行動は三つの一階の条件によってまとめられる:

(貨幣需要は消費と名目利子率に依存している)

(今日の消費と将来の消費、そして実質利子率の間のオイラー条件)

(労働からの限界負効用を消費の限界効用にρ<1を掛けたものに等しくしている労働供給の条件--このくさび[ρが1未満であること]は独占的競争から発生する)
このモデルの「ケインジアン」的なところは、(3)が期待の中でのみ成立するという仮定だ--生産者達は貨幣供給、そしておそらくは消費のシフトファクターなど、その他のものについて知る前にその価格を設定しなければならない。この一時的な価格粘着性が貨幣供給に実質効果を与えている。
さて、このモデルにおいて政策の効果を調べるやり方は、第2期から以降、すべてのものが定常状態にあると仮定することだ--一定のM、sも一定、Gも一定。これによって第2期とそれ以降のPとCが結び付けられる;実質消費が実質利子率に依存するので、(4)がある種のIS曲線のようなものになるのだ。そして現在のPは事前に決定され、将来のPはそれに縛られてしまうため、それは名目利子率についてのIS曲線ともなっている。
そしてまた、(3)はある種のLM曲線である;Pが事前に決まれば、金融当局は貨幣供給を変えることで利子率を設定することができる。
通常の状態では貨幣政策は効果的であって、中央銀行は「完全雇用」をいつでも確保できる--「完全雇用」とは(5)が成立すること、つまり雇用のレベルが、もし価格の設定者達が経済の状態を事前に知っていたらそうなるのと同じレベルにあることを意味するものとする。実際には、この手のモデルでは中央銀行は「超過」雇用を作り出すことで厚生を高めることができる;独占的競争のくさびのせいだ。しかし、そんな事をするとBarro-Gordon流の時間的整合性の問題がおこる:中央銀行が超過雇用を起こそうとしていると知られれば、これはインフレ期待をひきおこして、etc。よって、中央銀行は完全あるいは通常の雇用を実現するだけの貨幣を供給するように調整して、それ以上は行わないと仮定しよう。
中央銀行はこれが実現できるだろうか?政府購入のレベルGを一定としよう;(2)と(5)から、完全雇用を実現する為に必要なCのレベルが計算できる;(4)からそのレベルのCを実現する為に必要な実質利子率が分かる;そして現在と将来の価格水準はすでに決まっているのだから、これは必要な名目利子率を意味する。よって、中央銀行が行わなければならないことは、利子率がその望ましいレベルとなるまで貨幣供給を増やすことだ。
しかしもし必要な名目利子率が負だったらどうだろうか?この場合、金融政策は助けとならない:一旦利子率がゼロとなってしまえば、人々はどんな追加的な現金も退蔵してしまう--流動性の罠のなかにいるのだ。一度そんな罠に落ちてしまえば、金融政策を実効的なものにするただ一つの方法は、すくなくともこのフレームワークのなかでは、現在とそして将来の貨幣供給の増加に信用のおけるコミットを行うことだ。これが日本の罠についての論文で私が発見したことだ。
そしてついに財政政策の話となる。
通常の条件では、中央銀行は経済が完全雇用にあることを確保する。そのため、政府購入の増加は民間消費の減少という費用を伴うことになる。最適な財政政策はGの限界効用をCの限界効用と等しくするものだ。
しかし、経済が完全雇用を下回る水準にあって、流動性の罠に落ち込んでいると仮定してみよう。Cはオイラー条件(4)によって縛られている:Gの増加は民間の支出をクラウドアウトしない(そしてまた、乗数効果も存在しない−−こういった完全市場、不死の消費者のモデルを使うことは財政政策に不利なようにできている)。Gが増加すると、より多くの労働の努力が必要となり、負効用となる。しかし、完全雇用においてすらこういったモデルでは追加的な労働時間からの負効用は、その労働によって可能となる追加的な消費による効用の増加を下回る。もし経済が不況下にあれば、その差はより大きくなる。
これはつまり、もし経済が流動性の罠に落ち込んでいれば、Gの社会的限界費用は通常の条件下でよりもはるかに低いということだ。そしてそれは、ここに図にしたように明らかな政策的含意をもつ。

私がここで示したものは、流動性の罠に落ち込んだ/落ち込みかけている時の公共財の政府購入の限界費用と利益である。限界利益はおそらく右下がりの曲線だろう。もしGが低ければ、よって金融政策が完全雇用を実現できなければ、Gの追加的な一単位の限界費用は低い。これは追加的な政府購入が民間支出をクラウドアウトしない為だ。しかしながら、一旦Gが完全雇用を実現できるほどに高くなれば、政府購入のどんな増加も利子率の上昇によって相殺されて、追加のGはCの犠牲をともなうことになる。限界費用がジャンプするのだ。
この図が示しているように、最適なレベルのGがその限界費用のジャンプがまさに起こるレベルにあるような状況がかなり多くありえる--つまり、最適な財政政策とは経済を完全雇用に戻すようなものとなる。
何がこの結果を変えてしまうだろうか?上で述べたように、一括税の仮定は重要であるだろう。この仮定が意味するのは、政府負債について心配する必要がないということだ--将来の税による死荷重について心配することなしに、その債務を支払う為の税をいつでも課することができる。明らかにこれは現実とは異なっており、負債についての懸念は財政拡張を制約する理由を与える。一方、そのロジックは悪いときだけでなく、良いときにも働く--すなわち、負債についての懸念はGの限界費用を上げるが、しかし完全雇用において限界費用のジャンプが起こることについては変わりがない。よって、流動性の罠に直面した時には、Gを上げるべき、おそらく完全雇用が回復するまで上げるべきだという根拠がやはりあることになる。
ここでの結論は、通常我々はケインズ経済学[Keynesianism]をアドホックなモデルからなるものと考えるが、この場合、それを「正しく」を行っても--最大化を行うエージェントと異時点間制約について適切な関心を払っても−−実は流動性の罠に直面すれば大きな政府支出への非常につよい根拠があるのだ。経済が不況に陥り、金融政策がそれを正せないなら、政府支出の機会費用は低い。ゆえに、公共事業を進めよう(let's get those projects going)。

*1:いまでも、あれだけの事してそれでタクシードライバーに戻れるってあり?とは疑問だけど。ただトラヴィスの内面は元通りではないですよね。