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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

16.屈辱

SF アシモフ

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第16セクション「屈辱」の翻訳です。
アシモフの高校時代、そして神童時代の終わりの始まりです。そのせいでアシモフ、暗黒面に落ちていってます笑。とはいえ、アシモフは12歳で高校に入ってますから、十分すごいんですけどね。
それから後一言、このセクションは経済学徒としましては、意外な発見でした。クルーグマンもこのI.Asimovは読んでいたと思いますが、まさか心理歴史学の創造主が、ねぇ、ということで。

追記:「文学的」の間違いのところ、一部変更しました。


16.屈辱
私が自分の事を子供の頃からずっと、すごい人間だとずっと考えてきたこと、そしてその見解を変えたことは一度もないという事はすでに説明した。誰もがそう考えたわけではない、という事は述べておく必要があるかな?
私の欠点、喋りすぎる事や、独断的な点や、自分の事に夢中になる所や、世渡りの下手さについて指摘した人達のことを述べているわけではない。私自身もそういった欠点は認識しているし、改善しようと努力はしてきた(し、すこしは成功した)。私が述べているのは、私が知的に優れているとも、私に何か普通でない(あるいはとにかく何かの)才能があるとは考えなかった人達の事だ。
私は学校生活の最初の6年間をまったく容易に、クラスの誰も私には敵わないという心安らかな知識と共にすごした。しかしながら、これは私が1932年に高校に入学して10年生*1となった時に、終了した。
問題の一つは、私が地元のトーマス・ジェファーソン高校(Thomas Jefferson High School)に進まなかった事だ。ボーイズ高校(Boys High School)に行きたかったのだ。この高校はブルックリン、つまり私がその子供時代に全てをすごした地区の中にはあったが、かなり離れていた。その当時、ボーイズ高校はエリート学校で、父と私はボーイズ高校を卒業するのはいい大学に入るのに有利だろうと考えたのだ。
しかしこの事は、ボーイズ高校が地区全体から「一番頭のいい子」達を集めているという事であり、そして何人か私よりも、すくなくとも学校の成績に関しては、頭の良い子がいるという事だったのだ。数学クラブ(ボーイズ高校はいつでも常に数学コンペティションに勝利していた)に入会しようとした時に、私はこの事をもしやと疑うようになった。私は自分を数学が出来る奴だと思っていたのに、他の生徒達は私が聞いた事もない数学を知っていること発見し、混乱した私は退部してしまったのだ。
そしてまたしばらく経つと、私はあれやこれやの科目で私よりもよい成績を取る生徒が結構いること発見した。このことは私を焦らせはしなかった。中学時代、ある少年は生物で最優秀だったが数学はまったくダメで、別の少年は数学は最優秀だったが生物はだめだったという事があったのだ--しかし私はその両方で次点であった。
しかしながら残念な事に、一部の生徒は私よりも全体の平均でよい成績をとっている事もまた発見してしまった。彼らの平均点は一度高かっただけでなく、ずっと高いままであり続けた。平均点は張り出されていたのだが、自分の名前が10番目とか12番目にあるという事を目にするのはいらだたしい事であった。(ひどい成績ではない。しかし私はもはや「一番頭の良い子」ではなかったのだ。)
その時の印象はあまりに強かったから、半世紀が経った後でも、私より成績の良かった3人の生徒の名前を覚えている。こんな事は私のような他人の名前など覚える価値もないと考える自分中心の人間には非常に珍しい事だ。言うまでもなく、この生徒達は私にとって衝撃だったのだ。
こういったことの全ては、私はすごいという私の信念を揺るがせはしなかった。しかしながら私は、この状況の説明を求めて頭の中で考えをめぐらせはした。私はいつだって考えをめぐらせるのだが、この場合は他にどうしようもなかったのだ。誰かのところへ行って、特に教師のところへ行って、「なんであの子達は私より成績がいいんですか?」とは訊けはしなかったのだ。
当然帰ってくる答えは、「彼らは君より頭がいいからだよ、アシモフ、この間抜けめが、ザマミロ」、だったろう*2。これは私が聞きたいような答えではなかったし、受け入れるつもりもなかった。
その代わり、私はこの並外れた子らは裕福ないいところの家庭から来たのだと、知的な環境で育てられて、勉強する時間が一杯あって、その上で、まあそこそこ頭がいいのだと説明をつけた。
私は、いまだにキャンディーストアーで働いていて、勉強時間は限られていた。しかも、私は勉強時間を作り出す真剣な努力をしなかった。私はしつこく、勉強なんかしなくても大丈夫だと思っていたのだ。教科書は読んだし、授業は聞いていた。それで終わり。
されど、思うことと行うことは別物で、もし本当に彼らと競い合いたかったのなら、本当によりよい成績を取らなければと思っていたなら、がんばって勉強していたはずなのだ--しかし、私は拒否した。私は勉強しなくてもいいのだと思うことを選択したのだ。なぜなら自分のすごさを自分自身に証明するのに、私は成績など必要なかったから。私でいる事の楽しさは、まったく影響を受けなかった。結局つまるところ、私は学生ではないのだ。私は作家なのだから。
しかし、この点についてすら私は高校で屈辱を受ける運命であった。本当に、私の自尊心がこうむった最大の衝撃を受けたのだ。1934年、英語教師の一人で、学校が年に2回出す文学雑誌の顧問であったマックス・ニューフィールド(Max Newfield)が、特別のライティング・クラスを行う事にした。そのクラスから、雑誌に載せる原稿がでてこないかと期待したのだ。私はすぐさま参加した。私は14歳で、他の者はみな16か17歳だった。しかし私は作家だったのだ。
ひどい間違いだった。エッセイを書く事をまず求められて、私はどうにも完全に救いようのないひどいものを書いた。ニューフィールドが、誰か自身のエッセイを読んでくれるものはいないかと訊いた時、私はすぐさま手を上げた。私が四分の一まで読んだところでニューフィールドは私を止めて、侮辱的な下品な言葉で私の文章を評した。(教師が「汚い言葉」を使うのを聞いた事はそれまでなかった為、私はショックを受けた。)しかし、クラスは受けなかった*3。クラスメートは爆笑し、私はひどい恥ずかしさと屈辱と共に席についた。
しかし、私はクラスにとどまり続けた。私は自分のおかした間違いが分かっていた。私は「文学的」であろうとした。どうやってそうなるのか、知りもしなかったのに。私はその間違いを繰り返さなかった。(そして今でもそうだ。他の間違いについては、恐らく。しかしこれについてはない。)私はよりましになる決意をしていた。
そしてついに、文学雑誌の為に何かを書く時が来て、私は決意をもって再び執筆に取り組んだ。私のエッセイは"Little Brothers"(弟達)とタイトルで、5年前に我が家に参加した幼児のことについてだった。私は楽しい作品を目指した。ニューフィールドはそれを受け取り、ついには掲載されることになった。私の書いた重要なものの中で掲載された最初のものだ。
私はニューフィールドにお礼を言おうとした。彼が、私がどれだけ進歩したかを教えてくれるのではと思っていたのだ。しかしそんなことはなかった。言うまでもなく、これは大恐慌の底の頃の事で、クラスの中のどの生徒もそれによって酷い傷を負っており、ドストエフスキータイプの悲劇的なものを書いていたのだ。私だけが、キャンディーストアーに救われて、明るいものを書いていたわけだ。ニューフィールドは明るい作品も必要としていて、私のものだけがそうだったのだ。彼は悪意と不必要な残酷さをもって、それだけが唯一の採用の理由だと告げた。さらに彼はその雑誌に、私の作品を掲載した事についての事実上謝罪ともなる編集後記を付け加えた。
で、私はどうしてそれを耐えられたのだろう?
私がその芯まで衝撃を受けたことは言っておかなければならない。そして私は自分自身が本当に、いい作家であって、いつか成功するのだと自分自身に納得させるためにどういう説明をしたのか、思い出す事が出来ない。とにかく自分自身についての自分による好評価に頑固にしがみついて、そしてニューフィールドを嫌う事に救いをみいだしたのだろう。(私は嫌いな人がほとんどいないが、ニューフィールドは嫌いである。)
「成功した」人達には皆、「もしだれそれがこの事を知れば、あんな事やこんな事を言ったことを後悔するだろうに」といった思いがあることだろう。あるいは、「彼女も俺を振った事を後悔するだろう」だろうか。この全世界が自分をしり、賞賛するのに、しかし過去の誰か、永遠に手が届かず、永遠にこの事を知る事のない誰かが、その全てを台無しにするのだ。汚点は、汚れたしみは、癒された傷となる事はなく、そのまま残り続けるのだ。
私の場合、それがニューフィールドだ。私が本当に有名な作家となる前に彼は死んだと思う。よって彼は一体自分が何をしたのかを知る事はなかっただろう。しかしながら時折思うのだ。もしタイムマシーンがあって、私の本何冊かと私について書かれた記事のいくつかを持って1934年に戻り、「どう思いますか?このしらみ野郎!自分のクラスにいるのが誰かわかってなかった。もし私をちゃんと扱っていたら、私を最初に認めた人として記録してやったのに。しらみ野郎としてじゃなくな!」と彼に言ってやれたらなと。
実は、半世紀以上に渡ってこの痛みによって擦られて耐えてきたものだから、最近、"Time Travelar"(タイム・トラベラー)というタイトルの物語を書いたのだ。その中では、私がこうむったのとまったく同じ痛みを受けた人物が過去へ戻っていく。しかし残念ながら、作家として、私はその結末をドラマチックで適切なものにせざるを得なかったのだ。本当に私を満足させてくれるものにではなく。(いや、私はそれがどんなものかは言わないよ。)
私の感じるささやかな満足はこれである。"Little Brothers"を収録したその文学雑誌の号はいくつか残っているはずだ。たとえば、私も一冊持っている。で、私は断言できる。私を除いて、掲載されている作品の著者で非常に有名になったものはひとりもない。アルフレッド・A・ダケット(Alfred A. Duckett*4)という才能ある若いアフリカ系アメリカ人による詩がいくつか掲載されており、彼はその後、かなり執筆していく。しかし圧倒的に、もっともなじみのある名前は私のものだ。この号を前にすれば、私の書いたものが最初に掲載されたからという理由だけで、かなりの額を支払うコレクターもいるのだ。ニューフィールドが謝罪した作品の為に。
卒業アルバムができた時、それには最優秀学生や、最優秀作家や、その他の最優秀あれこれのリストが掲載されていた。言うまでもなく、私はどの最優秀にも選ばれておらず、そしてまた言うまでもなく、最優秀あれこれの誰も(私の知る限り)、その名を有名にはしていない。実のところ、そのアルバムの中で私の名前が出てくるのは私の卒業写真の真下だけで、そこにはこうある。「彼が時計を見つめた時、針は止まるだけでなく、逆戻りした」。学生のウィットというやつだ。
そう、私の高校時代はいかなる意味でも成功ではなかった。全体としての平均の成績は非常に良かったのだが。しかもこれは、なんとも恐ろしい事に、この世には私にまったく理解のできない科目があるということを発見したのにも関わらず、だ。
文法から、代数、ドイツ語から、歴史まで、私は取ったどの分野も容易に修得する事が出来たものだった。しかしながら、ボーイズ高校において経済学を取った私は、驚愕した事に、それを理解できなかったのだ。教師の説明を聞いてもわからず、読んでみてもわからなかった。私の人生で初めて、私は精神の壁にぶち当たったのだ--私の頭脳の中へスッと入ってこない科目。
こういったこと全てを乗り越えなければならなかった。ライティング・クラスでの屈辱に、平均の成績で私が上位の6人の中にすらいないという事実に、私が卒業アルバムでは完全に無視されているという事実に、私の理解のできない科目もあるのだという事実に、耐えなければならなかった。
なんとかやり遂げた。少なくとも、私は落ち込んでいた時の事は覚えていない。私はまだすごい人間で、私はそれを世界に証明するつもりだったのだ。私は1935年に高校を、15歳で卒業した。

*1:アシモフは飛び級をしているので、12歳の時に高校に入学している。なのでそれまでの学校生活は6年間。あと、アメリカでは学年を小学校1年生から続けて数える。なので高校一年は、10年生(10th grade)。

*2:勿論、アシモフがこういう風に理解するような答えという事。

*3:括弧の後の文が括弧の中の文を受けていておかしいですが、ここの原文は"The class wasn't, however."でして、これを括弧の中のショックと絡まさずにどう訳すのか、俺にはちょっとわかりません。

*4:y-mat2006さんに教えていただいたんですが、なんとこのダケットさんはキング牧師をその本やスピーチで助けていた人だそうです。さらに大リーグの人種差別の壁をやぶったジャッキー・ロビンソンの本にも手を貸していたそうで、つまり50・60年代の市民権運動の裏方の一人ということですね。1984年に無くなった時のニューヨークタイムズの[http://www.nytimes.com/1984/10/08/obituaries/alfred-a-duckett-67-dead-an-author-and-businessman.html:title=死亡記事]。この部分のアシモフの文章は少々、回りくどいというか、有名・有名といった後に「馴染みのある名前」とかちょっとしつこい感じでしたが、こういう歴史の裏側にいた人が同じ雑誌に載っていたからか。納得。