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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

17.失敗

SF アシモフ

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第17セクション「失敗」の翻訳です。
大学時代です。アシモフの神童はさらにしぼんで行きます。暗いです。暗黒面がちょっとのぞきます。でもそれよりさらに、アシモフの非コミュで、世渡りがダメなところが出てきます。読んでるとアシモフは現代日本に生まれなくて、ほんとよかったなぁと思います。もし生まれてたら、まじ引きこもりになってたのではないでしょうか。
でも、同時にこういうセクションは好きです。アシモフは自慢屋だとか、思い上がってるとか言われるらしいですが(セクション1参照)、なんでなのかわからないなぁ。アシモフは自分のダメなところについても非常に正直な人だと思うのですが。


17.失敗
私はコロンビア・カレッジに進学するつもりでいた。コロンビア大学(コロンビア・ユニバーシティ)のエリート学部学生校だ*1。私の父がその学費を払えるはずはなかったのだが、父はその事については後で心配しようじゃないかというのだった。まずは、大学入学を認められることだ。私はコロンビアのキャンパスへ、面接を受けにいった。1935年4月10日、これがそのキャンパスに入った最初の時だった*2
面接はダメだった。なぜかは分かる。コロンビア・カレッジの翌年度からのユダヤ人入学枠は既に埋まっていたのだ*3。それは私が経験した初めての、反ユダヤ主義による障害だった。しかしながら面接担当は優しい人であって、この入学不許可は私が若すぎるからだよと言ってくれた。コロンビア・カレッジの1年生になるには(少なくとも)16歳でなければならない。彼は、セス・ロウ・ジュニア・カレッジ(Seth Low Junior College)に行くことを薦めてきた。大学の別の学部学生用のカレッジだ。(これもまた入学最低年齢16歳の制限があることを私は発見したが、エリート校でないところでは誰も気にしないようだった。) それはブルックリンの中に位置しており、2年制の学校だった。そしてその後の2年間を私はコロンビア・カレッジの学生として学べるのだった。
私は同意した。他にできることはほとんど何もなかったのだ。
しかしながら、私の父は納得しなかった。父は、金を借りてでもなんとしても学費をひねり出し、私をコロンビア・カレッジへ送り出すつもりでいたのだ。だがセス・ロウへ、ではない。なので私は色々と歯を食いしばった後で、願書は出しており、また入学を認められていたシティ・カレッジ*4へ進学した。。ここは学費を取らなかったのだが、その為ある種のゲットー学校でもあったのだ。ユダヤ人が非常に多く、そして卒業生がいい仕事に就ける見込みはまずなかった。
私はそこで惨めな三日間を過ごした。私が覚えている唯一のことは、体力測定の事だ。誰もが自分のカードにWDのスタンプをもらっていたのに、私だけがPDのスタンプをもらったのだ。私は尋ねてみた。WDとは、私が受けた説明によると、"well developed"(
良好)のことだった。PDは"poorly developed"(成長不良)だった。私が検査を受けたほかのものよりも3歳も若いという事実は考慮されなかった。酷い侮辱を受けた気分だった。
しかしそこに、セス・ロウからの手紙がやって来た。私はどこにいるんだ?、と。私の父は、その手紙を開いて読んだあとセス・ロウに電話して、学費が払えないのだと説明した。彼らは100ドルの奨学金を申し出てきて、父はそれに抵抗できず、私はセス・ロウに転校となった。後に、私はシティ・カレッジからの手紙を受け取った。学生に受けさせた知能テストの結果を調べた彼らは、なんとか私にシティ・カレッジで学んでほしいと、学校でのキャリアについて私と話がしたいというのだった。私はかなり冷たい調子で返信を書き、もう遅すぎると伝えた。私はコロンビアに行くのだった。(まさに「成長不良」なのだった。)
(ところで、この件によって、私は父と真剣な口論をする事になった。ロシアでは手紙が届くなどまれな事なので、手紙を最初に受けとったものがそれを開くものだった。私はアメリカではそうではないと言う事を、かなりキツメに説明した。私宛の手紙は、私だけが開けることができるのだ、と。父はこの変な排他性に当惑したが、しかしその後は私宛の郵便は私の個人的なものとなった。)
セス・ロウも、ゲットー学校である事が判明した。半分の生徒はユダヤ人で、もう半分がイタリア系アメリカ人なのだ。コロンビア・カレッジのそれぞれの民族用の枠の中に入りきらなかった聡明な学生を多く受け入れていたのだった。セス・ロウは成功した学校ではなかった。私の一年目のあと閉鎖され、その学生達はモーニングサイド・ハイツ(Morningside Heights)*5に移された。大学時代の残りの間、私はコロンビア・カレッジのクラスに出席し、その教師達の講義をきき、テストを受け、そして彼らによって成績をつけられた。
それはつまり、私はクラスの一員だったと言う事だろうか?違うのだ。私は大学の学部生に分類されていた。卒業の時が来ると、コロンビア・カレッジの全てのメンバーはB.A.、つまりBachelor of Arts(文学士号)を受け取った。紳士の学位だ。わたしはB.S.、つまりBachelor of Science(理学士号) を受け取った。少々、威厳にかける学位である。私は専攻が科学分野であったからそれを受け取ったのかと思ったが、しかし違っていた。それは2級市民の証であった、ということをやがて私は発見した。私にとってのこの世の不快さが、また一つ増したわけだった。
さらにまた、大学はUniversity Extensionを引き継ぐ為に、School of General Studies (一般学習(研究、教養?)学部)を設立することにした*6。これは主に昼間働いて夜勉強する学生の為のものだった。その名前のもとに、様々なカテゴリーの学生が放り込まれていた。大学学部生も含めてだ。それはつまり、私はSchool of Genral Studiesの卒業生として記録されることを意味する。そして何人もの不注意な伝記作家達がこの事から、私は夜学に行っていたのだろうと考えるのだ。違うのだ
勿論、やがて、コロンビア大学も私の事をとても誇らしく思うようになり、名誉博士号を授与し、私を色々とつかって、何かの折に色々と講演などをさせたりした。そして、コロンビア・カレッジもまた、私に講演を依頼してきたりしたのだ。その時には、私は私を1939年の卒業のカレッジの学生としてくれなければ行かないと要求できるほどになっていた*7。そして1979年、私はカレッジの40周年同窓会に出席した。これは私が出席したかったからではない(私は大抵の同窓会には出席しない。ノスタルジーに浸ることをにあまり価値を見出さないからだ。)しかしこの時は、いうなれば、つながりをつくっておく為*8に出席したのだ。その同窓会に出席した他の誰の事も私は知らなかったが*9、彼らは皆、私の事を知っていた。その誰も、私の事をクラスメートとしては覚えていなかっただろう。
つまり、どの点をとっても、私の大学時代は失敗であった。私の高校時代よりも恐らく悪かっただろう。学業についてもさらに落ちていたのだ。小学校と中学校では、私はあの頭のいい子、であった。高校では、頭のいい子の中の一人だった。大学では、私は特にどうと言う事はないレベルで頭のいい子でしかなかった。
最大の失敗は私の大学生活の終わりにかけて起こった。
ご存知のように、大学生活の終わりには危険が待ち受けている。小学校、中学校、高校、そして大学に通っている限りは、私は実家暮らしの、家の仕事を手伝っている、いつもどおりの平穏な人生を送っている学生であった。
しかし年月が経ち、大学の卒業と学士の学位取得が近づいてくると、私は仕事を探さなければならなくなった。私の卒業の年は1939年だった。私は19歳で、仕事探しは困難であった。
その上、何があろうとも一部の仕事は私には手の届かないものだったのだ。ユダヤ人が自動的に排除される類の仕事を私が手に入れられる事はありえなかった--つまり、社会的地位と金銭への道を上り詰めていくことが出来るタイプのものだ。とはいえ、私は反ユダヤ主義をどうこう言うつもりはない。たとえ私がユダヤ人でなくても、私が私のままなら、そういった仕事には向きはしないのだ。見た目はよくなかった。ひょろ長く、にきびまみれで、なにか人をいらつかせるような笑顔をして、しかもこれがバカみたいに見えるらしい。そのうえ私は非常に人付き合いが下手だったのだ。誰かが私を雇いたいと思うなど、考える事もできなかった。
唯一の解決策は、学校の中に残る事だった。そしてもし可能なら、自営でやっていける仕事の為の訓練をうけるのだ。状況の奇妙なめぐりあわせで、私はその目的を意図せずしてすでに達成していた。大学3年生と4年生の時、私の小説を2、3本売っていて*10、私はすでにプロの作家になっていたのだ。
しかしながら、小説から時折こずかいくらいの金が入る事以上のことは、考えることも出来なかった。職業としての作家など、それも収入の良い作家になるなど、誇大妄想の類であって、私はうぬぼれ屋ではあっても、そこまでではなかった。
ユダヤ人に開かれた自営の仕事で、社会的地位と良い暮らしを実現できる可能性があるものというと、医者、歯医者、法律家、会計士、などのような職業だった。勿論、一番は医者になることだ。ニューヨークの非常に多くの医者はユダヤ人であった。ある程度の反ユダヤ主義のある社会においてユダヤ人が成功するには、それが一番確実な方法だったのだ。
そして、私の父もこの事をずっと考えてきていた事が分かった。私が大学を出たら、当然ながら私は医学校へいき、医者となるだろう、そう父は考えていたのだ。そういったことで父に逆らうなど考えた事もなかった私もまた、当然のようにその線で考えるようになた。
しかしながらやがて、心のなかに疑いが沸き起こってきた。まず第一に、そんな金が一体どこにあるのか?学費と、教科書と、その他のものに支払う金などまったくなかった。私は大学を、まったくの幸運と、夏の仕事と、いくつか売れた作品からの金と、小額の奨学金、そして家族の金をかき集めてやってきたのだ。貯金などありえなかった。医学校はさらに金がかかるのだ。やっていけるはずがなかった。
さらに悪い事に、父は1938年に狭心症をおこしていて、父が果たしてこのままキャンディーストアーで働き続けられるものかどうか分からなかった。私が店を引き継いで、店主になる以外の全ての可能性をあきらめなければならないかもしれなかったのだ。
幸運にも、一時は体重が220ポンド*11あった父は慎重に体重を落としていき、160ポンド*12になり、その後の人生でそれを維持した。父は投薬を受け、キャンディーストアーでの仕事を続けた。しかしそれでも医学校への進学など疑問であった。
さらに個人的なことをいって、私が家をはなれられるのか、という問題があった。もし私がオハイオだとかネヴァダだとかの医学校から入学を認められたら?
わたしはそのころまで人生をずっと実家ですごしてきていた。ニューヨーク市を離れることすら非常にまれな機会にしか、それもとても短い間だけしかなかったのだ。長時間労働の場合とおなじで、私がこのことに反発して、機会が来て家にいる必要がなくなればすぐさま、歓喜とともに世界を見に出かけていってもよかっただろう。私の弟のスタンレーはそうした。彼と妻は世界中を旅して、それを愛したのだ。
不運な事に(それとも、幸運な事に、だろうか?誰にわかると言うのだ)、旅への欲求など私にはなかった。家を離れたくなかったのだ。実のところ、私は家を離れるのを極度に恐れていた。他の州に行って、一人っきりになり、自分の面倒をみることになるかも、など考えると眠る事も出来なくなった。そんな事をどうやってするのかも分からなかったのだ。確かに、人生が進むなか、やがて私も家を離れて、自分の力で生きていく、自分の妻子についての責任を果たさなければならなくなった。だが、いつであれ家と呼べる場所が出来るとすぐさま私はそこに張り付いて、動こうとはしなかったのだ。
私の人生で、これはずっと続き、旅嫌いと、心地よくなじみのある環境の家に篭りたいという欲求は強くなっていった。現在、私はマンハッタンに住んでいる。ここにもう20年間住んでいる。マンハッタンを離れることがないように、出来うる限りのことをしている。本当に正直に言ってしまうと、自分のアパートを離れるのすらうれしくないのだ。私はフィクションの中の探偵ネロ・ウルフを羨んでいる。彼は事実上、ウェスト・サーティ・フィフス・ストリートの自宅をまったく離れないのだから。
三番目の理由は、一番簡単なものだ。考えれば考えるほど、医者になりたくないという事が分るのだ。どんな医者にもだ。血を見たりするのは耐えられない。傷についての話など聞いたりしたら、吐き気がしてくる。病気についての説明はどんなものでも、気分が暗くなる。段々感じなくなるものだということは分かっていた。大学で動物学をとっている間に、私は解剖についてあまり感じなくなっていったのだ。しかしそのつらいプロセスをもう一度、行いたくはなかった。
幸運にも、医学校の問題は医学校自体が私の為に解決してくれた。その解決は適切なものであった。私が願書を出したのはニューヨーク・エリアの五つの医学校だけだった(実家を離れないことを決めていたからだ)。コロンビア大学のCollege of Physicians and Surgeons (内科・外科学部?)を含むそのうちの二つは、すぐさま私を落とした。多分、彼らのユダヤ人枠はもう埋まっていたのだろう。そのほかの3校は私を面接したが、いつもどおり、私は彼らにあまりよくない印象を与えてしまった。そんなつもりじゃなかった、という事は言っておく。私は魅力があるように、好かれるように出来るだけがんばったのだ。しかし、そういった要素はただ単純に私の中にはなかったのだ。少なくとも、人生のこの時点では。
大学3年の時に5校全てから落とされて、そして翌年、私はもう一度願書を送ってみたが、さらにすばやく落とされただけだった。
それは、私の父にはとても大きな失望であった。父のすばらしい息子が何か父が非常に重要だと思う事に挑戦してそして失敗した、最初の時であった。父は、その原因はある程度、私にあると思っていたのだろうと思う(そしてその通りだ)。私達の関係はしばらくの間、冷たいものだった。私自身も、自尊心がかなり傷ついた。そうでなかったら、私は人間ではなかっただろう。大学での私の一番の友達は、成績は私よりずっと下だったが、社会的な面ではずっと上で、医学校への入学を<認められた>。そしてしばらくの間、私は私がほとんど感じた事のないつらい感情に覆われていた--ねたみだ。
しかし、私は立ち直った。そして年月が経つと共に、私は医学校ではまったくダメだっただろうという考えは確信となっていくのだった。もし必要な金があったとしても、私は退学というより大きな屈辱に見舞われるだけであっただろう。なぜなら単純に、私は必要な能力に、そしてさらに、医者向きの精神に欠けていたからだ。
もしそんなことになっていたら、どれほどのダメージだっただろうか。それから私は立ち直る事ができなかっただろう。私は人生のこの危険な時のことを、入学審査の任にあった人々の先見の明と知性に、彼らが慎重にも私を医学校に入れさせなかった事に、大いなる感謝の念を持たずには思い出す事ができないのだった。

*1:このあたりのアメリカの(イギリスもか)の大学システムはよく分からないのですが、Universityは「総合大学」と訳されることもあるように、多くの学部や大学院などを持つ大きな学校で、Collegeはより小さな、時折「単科大学」とも訳される、より小さな学校です(wikiによる「カレッジ」の[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=24792237:title=説明])。Collegeは単体の学校として存在することもありますが、Universityの一部であることもあります。単体で存在するCollegeは、University同様に大学ですが、ここで出てくるCollegeはコロンビアの中のものであるので、以下ではcollegeについてはカレッジ、Universityについては「大学」の訳を充てます。なおCollegeと2年制のCommunity Collegeを混同した説明を以前に見たことがあるので書いておきますが、Collegeと言えば普通、4年制の学校のことです(というか、俺の経験ではそうだった)。ただ文脈によってはCommunity Collegeが省略されてCollegeと呼ばれることもあるみたいです。もしもっと詳しいことをご存知の方がいらっしゃったら、コメント欄にお願いします。

*2:基本的にアメリカの大学は入学試験がなく、高校までの成績、課外活動やその他の活動、そして面接などで入学が決まるみたい(あと全国統一の試験(SAT)とかもあるが、この当時にそんなものがあったのかどうかは知らない)。

*3:ユダヤ人は差別の対象だから、大学入学なども非公式の制限があった。

*4:City College of New York。一般均衡理論の経済学者[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=25056689:title=ケネス・アロー]が1940年に卒業しているから、もしかしたらアシモフは知り合いに成れていたかもしれなかった。それからずっと後になるが、[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=24001549:title=コリン・パウエル]もここを卒業している。

*5:コロンビア大学のキャンパス、つまりコロンビア・カレッジに来たと言う事。

*6:このUniversity Extensionという言葉はいきなり出てきてます。アシモフさん、昔を思い出してお怒りなのか、説明不足です。あるいは、アメリカでは普通の言葉なのかな?たしかアシモフ自伝の1か2にこのあたりの事が詳細に書かれていたような気はしますが...とにかくおそらくは、セス・ロウがなくなった後、そこの学生達の身分はUniversity Extensionというところの学生という扱いになったのだろうと思います。

*7:うーん、力ずくの学歴ロンダですね笑。

*8:原文"establish the franchise"。

*9:一応3年間、カレッジのキャンパスにいたのに、知り合いはいなかったのだろうか?さすが俺が非コミュのロールモデルと見込んだだけのことはあるぜ!

*10:雑誌にです。

*11:100キロくらい。

*12:72キロくらい。