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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

22.初期掲載作

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第22セクション「初期掲載作」の翻訳です。

セクション19,20、そして21はそれぞれ、フレデリック・ポール、シリル・コーンブルース、ドナルド・A・ウォルハイムについてのセクションで、前に書きましたようにこういうSF作家についてのいセクションは飛ばします。ただちょっとだけ触れておくと、アシモフがポールと仲がいいのは知ってましたが、コーンブルースに嫌われていた、というのは初めて知りました。

あとそれから、この時期のSF雑誌の事をご存じない方のために書いておきますと、この時期のSF雑誌はアメージングとか、アスタウンディングとか、アストニッシングとか、マーベルとか、ワンダーとか、「驚き」、「驚異」、「驚愕」系の意味の形容詞をタイトルにしたものが一杯です。パルプ雑誌の出自なので、タイトルも安っぽいのです。その1930/40年代アメリカSF界のなかで、アスタウンディングは一段、抜け出たポジションにいた雑誌でした。

あと、これから仕事がまた忙しくなりますので、翻訳のペースが落ちていくと思います。楽しみにしてくださっている方には、すいません。


22.初期掲載作
適当に物語をつくっていくのではなくて、きちんとした結末を考えた上で物語を作るべきだという事に気付いたのは、17歳になってからだった。1937年5月、私は"Cosmic Corkscrew" (宇宙のコルク抜き)と名づけて、そういった物語に取り組み始め、断続的に書き続けた。時には机の引き出しの中に何ヶ月も手も触れずにおいておいたりしながら。
1938年初め、アスタウンディングが予告もなしにその出版スケジュールを変更したので、来るはずだった日に雑誌がやってこない事があった。出版をやめたのじゃないかと心配になった私はストリート&スミスに電話して、違う日に出るのだと教えてもらった。もう雑誌が無くなったのじゃないかと考えた時に感じたパニックこそが、私が「宇宙のコルク抜き」を引っ張り出して書き上げることにした理由だった。それを投稿するところがどこかにあるうちに、投稿しておきたかったのだ。書き上げたのは1938年6月だった。
なぜ急に投稿しなければ、と思ったのだろうか?1938年までには、私は全てのパルプ雑誌に飽きがきたように感じていた。サイエンス・フィクション除いてサイエンス・フィクションだけを読んでいたので、その作家達はまるで半神半人のように感じられた。私も半神半人になりたかったのだ。
そしてまた、もし私の小説が売れたらいくらかのお金が入ってくる、ということもあった。父に頼まずになんとか学費を払えないかと、私は必死だったのだ。1935年夏、何週間かの夏の仕事を行ったが、本当にそれが嫌だった。タイプライターで金を稼ぐほうがずっと私の好みだった。
そして小説を書き上げてはみたが、一体どうやって投稿するのだろうか?私同様、世慣れていない私の父は、編集者に直接会いに行って原稿を手渡してくればいいのじゃないかと言ってきた。そんな事は怖くて出来ないと、と私は言った。(大きな声で見下したセリフを言われながら編集室から蹴り出されるところを想像していた。)父は、「何がこわいっていうんだ?」と言った。(たしかに。父が行くわけじゃないのだから。)
父に従うのは深く染み込んだ習性だったから、私は地下鉄でストリート&スミスまで出かけて、キャンベルさん*1にお会いしたいのですがと頼みに行った。受付の人が彼に電話をして、お会いになられるそうですよ、と言ってきた時には信じられなかった。これは、彼が私の事をすでに知っていたからだった。彼は私の手紙を受け取って掲載していたのだから、私が真剣なサイエンス・フィクション・ファンである事を知っていたのだ。さらに、すぐにわかった事だが彼は話し出すと止まらない人で、いつでも聞き手を必要としていたのだ。丁度その時、私が聞き手になるだろうと彼は考えたわけだった。
ジョン・キャンベルは私を非常に敬意をもって扱ってくれた。原稿を受け取り、すぐに読む事を約束して、そしてその約束を守った。原稿はすぐに帰ってきたが*2、その不採用通知の手紙はとても親切なものだったので、私はすぐさま、「カリストの脅威」"The Callistan Menace"と題した次の小説に取り掛かった。これを書くには、たった一ヶ月しかかからなかった。
その後、私は一月に一作書いてはキャンベルのところへ持ってゆき、キャンベルはそれを読むと、ためになるコメントを付けて返却してきた*3
「真空漂流」"Marooned off Vesta"と題した私の三つ目の小説が売れたのは1938年10月21日、私のキャンベルへの最初の訪問から正確に4ヶ月たった時だった。しかし、キャンベルにではない。彼は不採用にした。それはアメージング・ストーリーズに売れたのだった。これは新しい出版社のZiff-Davisのものになったところだった。Ziff-Davisはパルプ調のアクション物語を出版する事に決めて、質を落として、部数を上げていた。
その編集長レイモンド・A・パルマー(Raymond A. Palmer)は、非常に活発かつありきたりではない発想をする身長120cmのせむしの男だった。後年、事実上独力で、空飛ぶ円盤の流行をつくりあげ、疑似科学についての雑誌を出版するようになった。1977年、67歳で彼は死んだ。直接会った事はないのだが、彼は私の小説を最初に買っくれた編集者であり、やがて彼はその事を自慢するようになった。
私は64ドルを受け取り、その小説は<アメージング>の1939年3月号に掲載された。この号は1939年1月9日に発売された。私の誕生日の一週間後だ。父は自慢して飾り立てた文章の手紙をその友人全員に送った(友人がいるなどとは知らなかったが)。さらにその後も小説が掲載されるごとにこれを繰り返しそうだった。止めてもらうのは、非常に大変な事だった。
その後、私は2作目の「カリストの脅威」をフレッド・ポールに売り、これは<アストニッシング>の1940年4月号に掲載された。処女作の「宇宙のコルク抜き」は売れなかったし、そのほか七つの初期の作品も売れなかった。これらのうちのどの原稿も残ってはいない。1942年に私が(後述する理由によって)街を離れた時に、私の母が気付かぬうちにそれらを捨てたのだろうと思う。文学的には、それは損失でもなんでもない。実のところ無くなって、世界は少しましになったのだ。しかしながら歴史的には、これは残念な事だ。若い頃の作品にはいつだった興味が持たれるものなのだ。
ジョン・キャンベルに売った最初の作品は、「時の流れ」("Trends")と題したもので、アスタウンディングの1939年7月号に掲載された。その頃までに、アメージングは私の別の作品も掲載していた。「恐ろしすぎて使えない武器」("The Weapon Too Dreadful to Use")(<アメージング>1939年5月号)という、お粗末な作品だ。つまり私の最初のアスタウンディング掲載作品は、三つ目の掲載作ということになる。
私はこの事がどうにも気に入らなかった。私はこれまでずっとその最初の2作を無かったもののようにしてきた。Ziff-Davisの<アメージング>は認めがたいし、そんな低レベルのところに載った事について恥ずかしく感じたからだ。私が載りたいと思っていたのはアスタウンディングで、だから心のなかでは「時の流れ」こそが私の最初の掲載作品なんだと考えようとしていた。
しかし、それは間違いだったのだ。そのアメージングに載った二つの作品が私を死よりも悪い運命から救ってくれたのかもしれないのだから。ジョン・キャンベルは自分の作家達は短くさっぱりした名前を使うべきだと信じていた。だから、ほんとうなら彼は私にジョン・スミスといったペンネームを使えと間違いなく言ってきただろう。そして、私はそんな事は絶対に断っていたはずだ*4。そして、私の作家としてのキャリアは終わっていた事だろう。
しかし、アメージングに載った初期の2作は私の本名で掲載された--アイザック・アシモフで。パルマーは、彼に祝福を、名前のことなど気にしなかった。おそらく私の名前が、本名が、サイエンス・フィクション雑誌の目次欄にすでに掲載されていたので、キャンベルは注文をつけず、私の名前が<アスタウンディング>の夏号に正しい名前で掲載される事になった。
こういった事全てから、コロンビアでの4年目に私は197ドルを稼いだ。これは1939年には今よりもずっと価値があったが、それでもやはり大金なわけではなかった。しかし始まりではあった。自分で学費を払えるようになる時の、そして束縛からの自由の、自分で生きてゆく力の始まりであった。
そしてそれ以上のものでもあったのだ。金よりも求めていたものがあったからだ。求めていたもの--夢見ていたもの--渇望していたものとは、目次に載った私の名前、そしてさらに大きく印刷される、小説の最初のページに載った自分の名前だった。
そしてそれを手に入れて、私の心は幸せに満たされたのだった。

*1:アスタウンディングの編集長。ちなみに映画[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=24988377:title=「遊星よりの物体X」(1951)]と[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=25771645:title=「遊星からの物体X」](1982)の原作[http://www.amazon.co.jp/dp/448871501X:title=「影がゆく」]の作者でもある。キャンベルの下、アスタウンディングは[http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%83n%83C%83%93%83%89%83C%83%93&x=0&y=0:title=ハインライン]、[http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%83%94%83%40%83%93%81E%83%94%83H%83N%83g&x=0&y=0:title=ヴァン・ヴォクト」]、などがデビューして、1940年代にアスタウンディングは最盛期を迎える。このあたりのエピソードは、日本の漫画界における「トキワ荘」のようなポジションを、アメリカSF界において占めている。

*2:原文"I received it back by virtually return mail"

*3:不採用ということ。

*4:アシモフは自分のIsaac Asimovという名前をものすごく大切にしている。未訳のセクション6は「私の名前」というタイトルで、彼がどれほど自分の名前が好きかについてだ。