P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

33.「夜来る」

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第33セクション「「夜来る」」の翻訳です。
I.Asimovの翻訳は一週間と一日ぶりになりました。できれば毎日翻訳していたいんですが、そういうわけにも行きません。とにかく第33セクションです。アシモフといえばファウンデーション・シリーズロボット・シリーズが有名だと思いますが、短中篇だともっとも有名なのは「夜来る」でしょうか。2000年にたった一度だけ夜の訪れる惑星の物語。これだけ書くと、とても美しいですね。でもアシモフは自分のこの小説についてかなりシビアです。アシモフは作家としての自分の能力にもなかりシビアですが。とにかくこの作品によってアシモフの人生は変わってしまったわけですが、別にアシモフによって書かれなければならないわけでもなかった作品でした。もしかしたらこのアイデアがスタージョンによって(あるいはベスターによって)書かれていたかもしれない。そうなれば、アシモフはまた別の人生を送っていたのでしょう。しかしたまたま偶然、アシモフが書くことになり、人生が変わった。そういう事を考えると、人生ってこわいなぁと思います。

33.「夜来る」
1941年の春までに、私の15の作品が雑誌に掲載された。そのうちの4つはASF*1に掲載された。他にも10作ほど書いたのだが、それらは売れなかった。そして実のところ、掲載された私の作品のほとんどはひどいものだった。しかしながら、その頃までに私は「陽電子ロボット」のシリーズを書き始めており、これがある程度評判を得る事になった。そのシリーズのうちの3作がすでに掲載されていた。"Strange Playfellow"(「不思議な友達」)、後に「ロビイ」("Robbie")*2というタイトルに改題(、1940年9月号)、「われ思う、ゆえに・・・」("Reason")(ASF 1941年4月号)、そして「うそつき」("Liar!")(ASF 1941年5月号)だ。この3作はかなりよく出来ていた。
作品が売れるようになってほぼ3年経っていたが、しかし私はまだなにか飛びぬけた事をなしたわけではなかった。
しかし、1941年3月17日、私がキャンベルのオフィスを訪れた時、彼は私にラルフ・ウォルドー・エマーソンの"Nature"と題された初期の随筆からの次の引用を読んで聞かせたのだ。
「もし千年のうちの一夜にしか星々が現れないならば、神の都市の記憶をいかにして人々は信じ、崇め、そして世代を超えて伝えていけるだろうか」
キャンベルは言った、「エマーソンは間違っていると思う。もし星が千年に一夜現れたなら、人は狂ってしまうだろう。これについての物語を書いてほしい。タイトルは「夜来る」("Nightfall")だ」。
重要なSF史家であるアレクシー・パンシンは、他の誰でもない私にキャンベルはその物語を書いてもらいたかったのは間違いないとしている。私は違うと思う。キャンベルは自分の子飼いの書ける作家("his reliables")のうちの誰かがやってくるのを待っていただけで、それがたまたま私だっただけなのだろうと思う。ならば、私にとってはなんて幸運だったのだろう。それはレスター・デル・レイやテッド・スタージョン*3だったかもしれず、私は一生の機会を失っていたかもしれないのだ。
「夜来る」を私は他の作品とまったく同様に執筆し、4月にキャンベルへ売って、それはASFの1941年9月号に掲載された。
私にとって、それはただの普通の一作品にすぎなかった。しかしはるかに優れた批評家であるキャンベルは、それを普通の作品とはみなさなかった。彼は初めて私にボーナスを支払うことにして、私に通常の一語一セントではなく一語一セントと四分の一の小切手を送ってきた*4。(彼はこの事を私に教えてくれなかったので、私は考え込み、そして私の父から教え込まれた厳しい倫理規範に従って、私は彼に払い過ぎていると電話をした。キャンベルはとても面白がった。少なすぎるという苦情に彼は慣れていたが、払いすぎだという苦情を受けたのはその時が初めてだったのだ。もちろん、彼はボーナスのことを説明してくれた。)
彼はまた、私を表紙にした。これは私がASFの表紙になった初めての時だった。そして雑誌の最初に掲載されたのだ。
その物語、「夜来る」、はそれ以来、古典とみなされるようになった。とても多くの人達が、それを私が書いた最良の物語だと考えている。これまで書かれた雑誌SFの最良のものだと考える人達すらいるのだ。率直に言って、私はそんな事はばかげていると思うし、これまでもずっとそう思ってきた。
まず第一に、この物語の文章には、まだかなりのパルプ臭さが漂っている。私が思うに、1946年になるまで私はパルプ雑誌の遺産から逃れられてはいなかった。
この物語は興味深い、そして驚きのプロット(ずっと太陽が照り続け、夜の闇が訪れるのは非常に、非常に長期間にわたってたった一度しかない惑星が舞台なのだ*5)があることは認めるが、私はそれ以来、「夜来る」よりも気に入っている作品をいくつも、相当の数、書いてきたのだ。
後年、キャンベルは"Analytical Laboratory"というコーナーを雑誌に作った。これは各号の作品の読者の投票による相対的な人気について載せるものだ。もしこれが1941年にあったら、「夜来る」と同じ号に掲載された、アルフレッド・ベスター「イブのいないアダム」がトップに選ばれていただろう事を、私は確信している。そうなるべきなのだ。ベスターは私よりも優れた作家であったし(その時も、そしてその後も)、彼の作品は非常によかったのだから。
後年、非常に栄誉あるいくつかの賞がSF関係者の組織より、短編長編などのカテゴリーごとにその年の最良の作品へと贈られる事になった。そのうちもっとも重要なものの二つが、世界SF大会でのファンの投票によって贈られるヒューゴ賞と、アメリカSF作家協会から送られるネビュラ賞だ。もしこれらが1941年に存在していても、「夜来る」は中篇部門で受賞する事はなかっただろうことは間違いないと思っている。その年には、ロバート・A・ハインラインとA・E・ヴァン・ヴォートがSFの世界ではるかに、そしてもっとも人気のある作家たちであり、ASFのまごうことなき中心であったのだ。彼らが全ての賞をさらっていっていただろう。
しかしそれでも、「夜来る」は過去の傑作としてのポジション(("retrospective position"))を保っている。読者による多くのオールタイム・ランキングでは、それは非常に多くの一位を取ってきた。最近ですら、「夜来る」がSFについてのクラス*6で読書リストに載せられると、大抵もっとも好まれるというのをよく耳にする。
なぜなのか、私が理解する事はないだろう。
しかし、それは人生の転機であった。なぜなのか分からなくとも。「夜来る」が掲載されたあと不採用がなくなった。小説を書くとそれが売れて、1年か2年のうちに、私はハインライン/ヴァン・ヴォートレベルに、あるいは近くにまで来た。
そしてその物語が掲載されて40年経ち、私が会社を設立する事になった時、私には他に選択肢がなかった。Nightfall, Incと私は名付けた。

*1:アスタウンディング・サイエンスフィクション。

*2:邦題は早川の[http://www.amazon.co.jp/dp/4150114854/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1243648412&sr=1-2:title=「われはロボット」]によっています、

*3:スタージョンがもし「夜来る」を書いていたら、果たしてどんなのになっていただろう?

*4:日本のように原稿用紙一枚いくらではなく、アメリカの原稿料は一語あたりいくらで計算される。

*5:6重連星、つまり6つの太陽に囲まれている為、夜の訪れるのが2000年に一度しかない惑星が舞台。

*6:大学や高校での。