P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

35.修士

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第35セクション「「修士」」の翻訳です。(この部分修正。TrueSevenTHさん、ありがとう)

いやー、半月ぶりですね。忙しい、というのとあと、東京は一杯映画をやっていて素晴らしい!為に、翻訳がおろそかになっております。ちなみに先週観た映画の中には、タイ映画の「チョコレート・ファイター」と「ターミネーター4」があったのですが、「チョコ・ファイ」の主人公の女の子ってかわいいと言えばかわいいけど、でも実はターミネーターです。「ターミネーター3」にも女性型ターミネーターが出てきてたけど、こっちの方が怖いです。ラストの格闘シーン、俺には追っている主人公の女の子がシュワルツネッガーで、追われている悪人の方がカイル・リース/サラ・コナーであるかのような錯覚に囚われました。こわいですよ、あの映画(面白いけどね。あと、阿部寛がかっこいい!けど)

アシモフに戻りまして、大学院時代です。苦労しますよね。でも、アシモフの本当の苦労は、まだまだ先の話なのでした...


35.修士
人はみな、やがて試験を受けなければならない。(a)修士号(M.A.)を受けるに値するか、そしてさらに(b)博士課程(Ph.D.)を目指して進むことを許すに値するかを確かめるために。
私が恋に落ちた女性は一年目の終わりにその試験をなんなくパスし、M.A.を授かった。もし望めばPh.D.を目指す事も出来たのだ。私の試験のできは、私の学業レベルの低下を顕著に示していた。M.A.を授かる事は出来たが、お情けでもらえただけのもののように思われたし、Ph.D.を目指す事が許されるのに十分なものではなかった。
その為また私は悩むことになった--もう何年も付き合ってきたのと同じ悩みだった。もしM.A.を受け取ったら、そしてそれで止めてしまえば、学校を離れて仕事を見つけなければならなくなる。しかし一方、私はさらに講義を受け続ける事もできた。2度目の試験をめざすことができたからだ。
もちろん、労働市場は大きく変化していた。アメリカは、もし必要ならば、戦争に突入できるように準備を整えつつあった。そうならなくとも、すくなくともフランクリン・ルーズベルトが呼んだように、「民主主義の武器庫」となる準備をしつつあった。
なので戦争関連の仕事ができるような優秀な学生には、色々と就職関連での接触があった。もしそんな仕事をもらえて、ヒットラーとの戦いに何か貢献ができていると感じる事ができていたら、私は喜んでいただろう。
残念ながら、私には二つばかり不利な要素があった。私はもはや優秀な学生ではなかった。少なくとも化学ではそうではなかった。第二に、昔からの古い問題があった--教授達が私の事を気に入っておらず、そしてどの学生を推薦するかを決めるのはその教授達だったのだ。
学生を苦しめては楽しんでいる一人の教授がいた。私は言われるがままに従ったりしなかったから、彼は私がちゃんと敬意を払っていないと考えていただろうと思う。よって、彼が私を何にであれ推薦したりするなどありそうに無かった。そして彼は大きな影響力をもっていたのだ。つまり私は、大学院においても、依然として教師といい関係を築く事ができないままであった。
そしてさらに、私関連のとある問題が、最悪に気難しいアーサー・W・トーマス教授のところへ持ち込まれてしまった。どうにも切羽詰って、私はその問題について私からの説明をしようと教授との面会を申し込んだ。(私が化学のラボで歌を唄って他の学生達の邪魔をしているという苦情を彼は受け取っていた--クラスのなかで小声でささやくという私の幼い頃の問題とまったく同じように。)なんとか自分の事をよく見せて彼に気に入られようとがんばった私は、驚いた事に、成功してしまった。
ほんとに驚いた事だが、彼はアシモフびいきになったのだ。そしてその後すぐに、化学学部の学部長代理*1になった。彼の態度が変わった理由の一つは、私に難しい分析をやらせて、失敗したら追い出してしまえという指示をラボのアシスタント達に出していたことだろうと思う(アシスタント達が一年後に話してくれた)。しかしながら、私は忍耐強くがんばり、なにかの陰謀を疑ったりするには愚か過ぎた私は文句一つ言うことなくやり遂げたのだ。
しばしば私はトーマスとの会談のことを思い出しては、「私が正しい--あなたが間違っている--妥協なんかしないぞ」態度ではなく、必要な時にはいつでもその時に発揮したような魅力を発揮できていたなら、私の人生は一体どんなものになっていたのだろうと考えてきた。しかしそんな風にはできなかったのだ。完全な自営業になるまで、私は自分の上司にあたる人たちと深刻な問題を持ち続けてきた。
2度目の試験を受けて、私はようやく、1942年2月13日にPh.Dコースへ進む許可を得た。恐らくは、優しくなってくれていたトーマス教授のとりなしがあってだ。しかしそれで私の問題が終わったというわけではなかった。私を受け持って、取り組むべき問題を与え、そして有能かつ友好的に私の研究を指導してくれる教授を探さなければならなかったのだ。残念ながら、学部の私の知っている教授達は何があっても私を受け持とうとはしそうになかったし、トーマス自身は管理の仕事で手一杯で、研究はしていなかった。
しかし、他の学生が、自分の教授、チャールズ・レジナルド・ドーソン、は優しい人で、他の教授が欲しがらない「だめ学生」*2を受け入れていると教えてくれた。私はそんな風に呼ばれる事に抵抗感は感じなかった。その通りだと思っていたからだ。
ドーソンのところへ駆けつけると、彼は私を受け入れてくれた。彼は中背のやさしく話す、穏やかな人であった。機嫌が悪くなったり、怒ったりした事はなかった。(これは安くはつかなかっただろう。彼は酷い十二指腸潰瘍を患ったのだ。)彼は非常に忍耐強くて、そして私の事を面白がった。それが私にはうれしかった。変な奴だと思われる事は気にならないのだ。なにしろ他の選択肢は、問題学生と思われる事なのだから。
ドーソンは色々なことを教えてくれたし、また非の打ちどころのない優しい紳士であった。ラボでの作業についての私の見込なしの無能さにもかかわらず、ドーソンは私を慎重にそして倦むことなく指導してくれ、なんとか私がやり遂げさせてくれた。私は精力的なアイデアメーカーで、非凡な人間だと彼はなぜか考えていたのではないかと、私は思っている。(すくなくとも、一、二度、彼が他の教授に私の事を話しているのを耳にした時には、それが本当に私のことだと理解するのが難しいくらいだったのだ。)
で、その結果はどうだったか?そう、彼は生前に、私がいまの私になり、彼に私の本を捧げて、何度と無く印刷物上で彼のことを賞賛するのを目撃することができた。(わたしには多くの罪があるだろうが、恩知らずの罪は犯したことがない。)
実際、彼は--愛情のこもった誇張とともにであることは分かっているが--彼の最大の功績は、私が彼の生徒であったことであったと私に語った事がある。そんな事はないだろうが、しかし私はもしそれが本当だったらと思うのだ。彼が私にしてくれた事へのそれ以上のお礼など私には考えられないのだから。

*1:原文"acting head"。

*2:原文"lame dogs"。