P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

39.NAES

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第39セクション「NAES」の翻訳です。

このセクションは、アメリカSF史において有名なアシモフハインライン、ディ・キャンプが海軍の研究機関で一緒に働いていた時のエピソードです。といってもこのセクションでは、アシモフな個人的な事についてだけで、3人の間で何があったとか、そういうエピソードは出てきませんが。第38セクションは「義理の家族」で、つまり奥さんとなったガートルードの家族についてなので飛ばしますね。
ところで、昨日、とある女の子を誘って映画に行って、晩飯を食ってきました。彼女とどこかに行くのはこれは3回目で、何ヶ月か前に彼女が別れたと聞いてましたので、結構期待していたのですが、新しい彼*1出来たことを聞かされてしまった。ああ、もう、こんなのばっかり!というわけで、出会って半年で結婚まで持っていったアシモフへの尊敬の念がさらに強まった私でございました。


39.NAES
1942年の春、ロバート・ハインラインがフィラデルフィアの海軍航空実験基地(Naval Air Experimental Station、NAES)で、彼とスプレイグ・ディ・キャンプとともに働かないかと勧誘してきた。これには本当に悩んだ。それを受けるのと断るの、両方についての強い理由があったからだ。
フィラデルフィアに行くのを断る理由とは、私はどこへ行くのも嫌だという事実だった。家に居たかったのだ*2。私は22歳だったが、いまだに自立するのを恐れていた。
第二に、Ph.D取得の為の研究を続けたかったのだ。どれくらいになるか分からない期間、いや、もしかしたら永遠になるかもしれないのに、それを中断したくはなかった。
しかしながら、フィラデルフィアへ行く理由はずっと強かった。研究を成し遂げて、Ph.D.を確実に取得する事ができるという確信は無かった。また、真珠湾攻撃の後の数ヶ月間の情勢は合衆国にとって望ましいものではなかった。ヨーロッパではソビエト連邦が盛り返してドイツ陸軍を防いでいたが、それがソビエトの最後の抵抗となるかもしれなかったのだ。
かなりの若いアメリカ人男性が徴兵されることになりそうで、私には自分のPh.D.の研究が戦争遂行よりも重要だと主張するなど出来そうに無かった。もし私がNAESで働いたならば、私の労働は戦争遂行に直接貢献するものとなったし、錯乱した歩兵としてよりもそれなりに能力のある化学者としてのほうが、役に立つことは私には分かっていた。そして恐らく政府だって、そう考えるだろうことも。
フィラデルフィア行きへの別の理由には、それが仕事であるという単純なものがあった。私はガートルードと結婚をしたかったが*3、いったいどうやって妻を養うというのか?銀行には400ドルほどあって*4第一歩としては良いように思われたが、しかし安定的に継続する所得をもたらす仕事が必要であった。ハインラインが提供してくれた仕事は、年に2600ドルをもたらしてくれるもので、十分であった。
そして、結婚したいという願望が勝った。1942年5月13日、私はフィラデルフィアへと移った。10週間ほど、自分ひとりでなんとか自活する事ができた(週末にはガートルードに会いに、ニューヨークへ行っていた)。結婚後、CatsskillsのAllaben Acresで一週間のハネムーンを過ごした。
そこで私はガートルードに私の知性を示す事ができた。クイズ大会に出場し、勝つ事を彼女に約束したのだ。彼女はバルコニーに一人っきりで座った。もし私が失敗した時に恥ずかしい思いをしなくてもよいようにだ。しかし、当然ながら、私が優勝した。そしてリゾートに来ていた多くの人達からの敵意を感じた。質問に答えようと立ち上がった時には--ガートルードに恥をかかせないようにしなければと非常に心配していたための--私の不安そうな顔から答えが分かっていないのだと思われて、私は笑われていたからだ。(他のだれも笑われはしなかった。)私が優勝した時には、そんな不安そうな顔をして私は彼らを騙したとでもみなされていたようであった。
そのハネムーンの後、私は新婦をフィラデルフィアへ連れてゆき、家賃が月に40ドルとすこしの、(少しばかりましな)アパートメントを見つけた。結局、私は実家から離れても大丈夫な事が分かった。ガートルードと一緒だと私は自分の家にいるように感じたからだ。残念ながら、ガートルードは同じようには感じなかった。アパートは小さく、エアーコンディショニングもついておらず(その頃は、ほとんどの住居にはついていなかった)、それどころか換気の設備もあまりよくなく*5、そして我々は暑くて、ムシムシするフィラデルフィアの夏の中にいたのだ。私がエアコンディショニングの効いた研究所で働いている間も、ガートルードはその熱気の中、家にいなければならないのだ。彼女はその事を非常に恨んだ。自分の母や実家の事を恋しがっていたのでなおさらだった。
毎週、我々は金曜の夜にはニューヨークへと旅行した。私は日曜の夜には戻り、彼女は水曜まで残っていた。彼女がフィラデルフィアで惨めに感じるようにと彼女の母が出来うる限り実家を彼女に居心地よくしていたのだ。そして毎週、私は彼女がもう帰ってこないのではないかと考えることになった--しかし彼女は毎週、必ず戻ってきた。だが彼女を幸せにすることが私にはできないのも毎週同じだった。そしてそのために私は何度か絶望感に襲われたのだった。
私はNAESに1942年から1945年まで、三年半留まっていた。自分の研究の成果が戦争遂行の役に立ったと思いたい。少なくとも、役にたったとは言われたが。
この仕事は戦争の間、私が徴兵されることを防いでくれたし、私と同世代で(そして身体のコンディションがずっとよい)多くの男性達がそこで働いており、彼らは別段徴兵されていないことを気にしているようには見えなかった。自分に勇敢さが欠落していることはずっと分かっていたから、私は軍に徴兵されたくないという願望と、されないでいる事についての羞恥心との間に挟まれ続けた。最終的には、まあ言うまでもないだろうが、願望が羞恥心に打ち勝った。なにしろ私はガートルードに激しく恋しており、彼女の元を離れるなど考えることもできなかったのでもあったのだ。
NAESでの生活は、私にとって特に幸せなものではなかった。全体的にみて、私はひどい失敗であった。もし戦時でなければ、そして私が文官(the civile service)あつかいでなければ、故に全ての社会が免れていない信じがたい官僚主義ののろさに守られていなければ、私が解雇されていただろうことは確信している。たとえば、私はかなり早い時期に昇給を受けて年2600ドルから3200ドルになったのだが、それっきりだった。何も言われずとも、それ以上期待すべきでないことは私にも明らかだった。
なぜか?いつものことだ。きっともうあなたは聞き飽きただろうが。(私がそれに生き飽きていないことは驚くべきことだ。)上司とうまくやっていけなかったのだ。勿論、後年、存命していた上司達は私の事を親愛の情をもって接してくれて、私もそれに非常に友好的に対応したが(そうしないわけがあるか?)、しかし私達は皆、そんな事には何の意味もない事が分かっているほどにはシニカルであったのは間違いない。戦時中、彼らが私と関わっていた時には、私は研究所の「問題児」だったのだ。
振り返ってみると、その時の上司達を懐柔する為の努力をもっとしなかったというのは、まったく不思議なことだ。なんと言っても人生で初めて、私は自分自身以外の誰かについても責任があったのだから。私は、昇給が一度しかないことを、これは一時的な仕事で将来はもっと大きな仕事をするのだからとしてこの失敗を気にしないようにすることは出来た。しかし、私はその失敗の証とともにガートルードと顔をあわせなければならなかったのだ。そして彼女は、他の人達は私よりも稼いでいるという事実に悩んでいたのだ。私は、「期待していてよ。十年もすればダイヤモンドを着ているくらいになるから」と言っていた。後々、彼女は私を信じていたと言ったけれど、その時には私のそんな言葉に彼女がとくに感銘を受けた様子はなかった。
そして、私の執筆はどうだっただろうか?
週に6日の仕事のプレッシャー、そして空いている時間はガートルードと過ごしたいという私の願望によって、私の執筆の時間は大幅に減ってしまった。実のところ、NAESでの最初の年には私はまったく何も書かなかったのだ。しかし、仕事と結婚ですら、執筆への欲求を永遠に抑えることは出来なかった。1943年、私はまた書き始めた。
「百科事典編集者」(Foundation)と名づけた小説を書いていて、これはASFの1942年5月号に掲載されていた。私はまた「市長」(Bridle and Saddle)という続編も書いていた。それは次の号に掲載された。私が執筆に行き詰まり、フレッド・ポールがブルックリン・ブリッジでそれを解消してくたのが「市長」だった*6。「市長」は私がNAESで働き始めたその月にスタンドにならんだ。
この二つの小説は私のファウンデーション・シリーズの最初のものだった。そして私がNAESで働きながら執筆に戻った時、私は4つの続編を書き、それらは戦時中にASFに掲載された。それらは、「豪商」(The Big and the Little)、「貿易商人」(The Wedge)、「将軍」(The Dead Hand)、「ザ・ミュール」(The Mule)だった。
さて、この事の重要性について説明させてほしい。
若い頃からの歴史についての興味、その分野で学びたいという欲求、さらにはPh.D.を目指したいと思っていた事についてはすでに語った。うまくは行かないだろうと思っていたから、そのすべてを脇に押しやったのだ。かわりに化学に進んだが、しかし歴史についての私の興味は残ったままだった。
歴史小説を私は愛しており(暴力的過ぎず、くだらないセックスで一杯でなければ)、いまだに私は機会があればそれらを読んでいる。自然に、サイエンス・フィクションへの愛からサイエンス・フィクションを書きたいと思うようになったのと同じように、歴史小説への愛から私は歴史小説を書きたいと思うようになった。
しかしながら、歴史小説を書くというのは私には実際的ではなかった。それにはとんでもない量の読書と調査が必要で、そんな事ができる時間はなかった。私は書きたかったのだ。
早いうちから、自分で歴史を作ってしまえば歴史小説を書く事ができるという考えを持っていた。言い換えると、未来の歴史小説を書けばいいのだ。サイエンスフィクション小説だが、歴史小説のように<<読める>>ものを。
さて、私は未来の歴史小説を書くというアイデアを作り出したのはを自分だというフリをするつもりはない。それはこれまでも何度と無く使われてきたのだ。もっとも効果的、かつ驚愕的なのは英国の作家オラフ・ステープルドンで、彼は最後にして最初の人類(First and Last Men)とスターメイカーThe Star Makers)を書いた。しかしながらこれらの本は、歴史の本のように読める。私は歴史小説を書きたかったのだ。よくあるサイエンス・フィクション小説の様に会話とアクションがあるものを。しかしテクノロジーだけでなく、政治的・社会的な問題とも取り組むものを。
私は早くも1939年にはこれに取り組んでみた。"Pilgrimage"(巡礼)というタイトルの小説を書いたのだ。だがそれはお粗末なもので、キャンベルはてんで気に入らなかった。最終的に私はそれをPlanet Storiesに「焔の修道士」(Black Friar of the Flame)というタイトル(編集者の選択で、私のものではない)で売り、その雑誌の1942年春号に掲載された。それはおそらく、掲載された私の作品の中では最悪のもので、そして最悪のタイトルがついたものだ。(売れるまでに7回書き直しをしたが、書き直しのたびに悪くなっていった。それ以来、非常に特殊な場合を除いて、私は大きな書き直しはしない事にした。)
これである程度くじけたが、未来の歴史小説を書きたいという欲求はいまだ私をつよく捕らえていた。私はエドワード・ギボンのローマ帝国衰亡史の2回目を読み終えたところで、銀河帝国の衰退と滅亡についての話を書けるのではないかという考えを思いついたのだった。
1941年8月1日、私はそのアイデアと共にキャンベルのところへ行ったところ、彼は熱烈に支持してくれた。一作だけでなく、長い、結末なしのサーガを彼は求めた。銀河帝国の滅亡と、それに続く暗黒時代、第2銀河帝国の最終的な誕生、そしてそれら全てについて裏からみつめる「心理歴史学」。この仮想の科学は熟練した心理歴史学者に未来の歴史の流れのなかでの大衆の行動についての予測を可能にするのだ。
このファウンデーション・シリーズは、私の全ての作品の中でもっとも人気のある、成功したものとなった。そして長い中断期間の後の1980年代において再開したこのシリーズはさらなる人気と成功をよんだ。私が想像し得た以上に、ほとんど金持ちかつ有名となるのに、このシリーズは他のなによりも貢献してくれた。ファウンデーション・シリーズのほとんどは、私がNAESで完全な失敗であった頃に書かれたものだ。
勿論、第2次世界大戦中、化学者として働いている時に、これから何が起こるのか私には知るすべはなかった。しかし振り返ってみると、私の職業である化学は失敗であり続け、時と共にそれはドンドン酷くなっていったことに気がつくのだ。上司と私はうまくやっていけなかっただけでなく、私は特によい化学者でもなかったのだ。そしてそうなる事もなかった。
しかし、私が捨ててしまった歴史は、未来のサイエンスフィクション歴史小説のシリーズという、到底なさそうな形態で姿を現し、そして私をこの高みへと連れて行ってくれたのだ。
成功するのだと分かっていた。しかし、どのようにその成功が姿を現すのか、私にはまったく分かっていなかったのだった。

*1:「彼」の間違いです。いやー、「彼女」の方が少しは変化があって楽しいかな〜!と思わなくもないですが、なにもかわり映えせず、興味を持った女の子にはどこかに男がいるという、といういつもの話でした...ということで、誤字でございました、optical_frogさん。涙

*2:引きこもりですね。

*3:結婚は1942年7月26日なので、まだ少し先。

*4:1940年代初めごろの物価は、2000年代の10分の1以下。[http://oregonstate.edu/cla/polisci/faculty-research/sahr/sumprice.pdf:title=ソース(PDF)]。

*5:原文"it did not have ..., or even cross-ventilation"

*6:第19セクションの「フレデリック・ポール」にて紹介されたエピソード。