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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

44. Ph.Dと講演

SF アシモフ

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第44セクション「Ph.Dと講演」の翻訳です。

アシモフは誰かと勝負をするということ自体が嫌いだというセクション41、高所恐怖症で飛行機が嫌いだというセクション42、そして狭い閉ざされた部屋の中にいるのが好きだというセクション43までは飛ばします。いや、アシモフってほんと、文系ですね。

で、セクション44です。一言だけ。「おめでとう、ドクター・アシモフ!!」


44. Ph.Dと講演
Ph.D取得の為の研究を何年も中断してしまった人はもうその研究に戻る事はない、と思われてしまうものだ。私自身、そういう悲しい予想を持っていたことは認めておかなければならない。これもまたフィラデルフィアでの仕事を受けることへの反対理由のうちの一つだった。実のところ、私の研究仲間の一人は私が戻ることはないだろうと確信していた。その仕事の為に、というより予定していた結婚の為ではあったが。家族を持つことの責任により、私の人生はもっと日常的な方向へ変わらざるを得ないだろうと彼は考えていたのだ。
戦争とNAESでの仕事が終わり、そして陸軍での生活が終わる頃までには、4年と半年が既に過ぎていた。幸運にも私達夫婦は子供という複雑化の要因をまだ授かっていなかったし、私はPh.D取得の研究をあきらめるべきではないと決意していた。よって、1946年9月、私はコロンビア大学へと赴いた。研究を再開する準備と共に。ドーソン教授はまだ残っていて、私の事を良く覚えていてくれていて、会えた事を喜んでくれた。
しかしながら、故郷へ再び戻る事はできない事なのだ。もう同じではなかった。私は4歳年を重ねており、科学に4年分幻滅していて、科学研究に私は向いていないことを4年分さらに確信していたのだ。さらに悪い事に、私がいなかった間に、量子力学の利用による化学の分野での革命が起こっていた。大部分、偉大なるライナス・ポーリングの研究によってもたらされたものだった。
私はその変化にはついて行っていなかったので、化学が私にギリシャ語になってしまっていた事に私は恐怖した*1。幸運にも、フィラデルフィアへ離れる前に既に全てのコースワークは取っていたので、私には研究以外のことをする必要は無かった。これは非常に幸運な事だった。私が合格できる見込みのあるコースなどほとんどなくなっていたからだ。
それは、私の凋落の新たなる一歩であった。私はただの平凡な学生ですらなかったのだ。私は落第間違いなしの学生であった。
にもかかわらず、私の博士号研究の間によい事が起こった。将来起こることを予告するかのようなことだった。
博士号候補としての私の義務の一つとして、私は自分の行っている研究についてのセミナーを行う事になっていた。(私はとある酵素の速度(Kinetics)、つまり反応の速さ(the speed of working)について研究していた。)
そういったセミナーには何度か参加していたが、それらは完璧にひどいのが通例だった。セミナーを行う人物は(化学者としてはどれだけ優れていようが)大抵、その研究を話して説明する才能を持ち合わせていなかったのだ。さらに、そういった研究はほとんどの人たちが知らない事柄についてであって、当人以外のだれも、かなりの説明がなくては容易に理解できるような事柄ではなかったのだ。聴衆はすでにセミナー報告とはその最初の五語以降の事は理解できないものだということをとっくに知っていたから、彼らはせざるを得ないが故にセミナーに参加し、ただその苦しみにたえるだけだった。
しかしながら、私はその務めに熱意を持って挑んだ。一つには、それは私の手を使わずにできる事だったからだ。研究機器を壊したり、実験がミステリアスな失敗になったりする心配をする必要がなかったのだ。
しかしそれ以上の理由があった。私は話せることが楽しみだったのだ。なぜかは本当に知らない。公衆の面前でのスピーチなど何の経験もなかったし、そういうものは自己への確信についての最終試験のように思われるほどのものだ。もっとも勇敢なものすら滅ぼしてしまうものとして。この世には、平和に眠りに落ちそうになっている聴衆を前にするくらいなら、突進してくるサイのほうを選ぶ人たちもいる。聴衆を前にするのがそれほどまでに恐ろしいらしい。笑いものになる可能性もあるわけだから。なのになぜ私がそういった非常に一般的な感覚を共有していないのか、まったく謎である。
私はセミナーが始まるずっと前に部屋へ行くと、大きな黒板を数式と化学の式で埋め尽くした。数式を書く為に、私の落ち着いたテノールによるトークを中断しなくてもいいようにだ。(何故、そうするのが正しいと考えたのだろうか?なにか本能的なことだったのだろうと考えるだけだ。丁度私が文章を書く事の重要な部分をほとんど生まれながらに掴んでいて、11の時には書き始める事が出来たのと同じように、聴衆の前でどう話せばいいかについての重要な部分を私はほとんど生まれながらに掴んでいたのだ。)
勿論、聴衆がやって来て数式を目にした時のショックは感じ取れるほどだったし、不安げなささやきがあった。話が理解できると思っていた人などいなかっただろう事は確信している。しかし私は腕を上げると、絶対の確信と共に、「私の話をただ聞いていてください。そうすれば山の湧き水のごとくに全てが清らかに理解できます」と言ったのだ。
どうして分かったのか?確かにこれは、自分の能力への苦い幻滅を感じていた大学以降の年月よりも、小学生時代の私の時のような傲慢な自信であった。
実は、そんな事をそれまでにやった事はなかった。スピーチに幻滅する機会がそれまでなかったのだ。そして私は真剣に試してみたくて、うずうずしていた。
そして、成功した!恐れもなく、私の胃が痛くなる事もなかった。落ち着いてスムースに話す事ができた。最初の最初からだ(これができるセミナーの報告者はなかなかいない。最初から神経質に専門の内容に突入してゆくのだ--おそらくその学識を示す為だろうか)。私は数式を順番に、それぞれをできる限り分かりやすく解説していった。
終了後、聴衆はとても喜んだようで、ドーソン教授は彼がそれまで聞いた中でもっとも分かりやすいプレゼンテーションであったと誰かに語っていた(その誰かがすぐに私に教えてくれた)。
これは私が聴衆に1時間もの正式な講演を行った最初の時だった。その後数年、プレゼンテーションを行う機会は無かったし、私にもまた行うという計画も考えも何もなかった。ではあるが、その時以来ずっと、私は人前で問題なく話ができるのだという事を確信するようになった。
これは、とある興味深い点を示している。私には明らかに、長いこと表に現れずに眠っていた講演の才能があったのだ。それが使われる機会がなかっただけなのだ。27の歳にして初めてその機会が訪れた時、ちゃんとやってのけられるだけの巧みさと共に話す事ができた。
その機会がもっと早く訪れていたらどうだっただろうか?何歳から、問題なく良いトークをする事ができていただろうか?当たり前だが、私には分からない。あるいはその機会がずっと後になるまで訪れなかったとしたら--あるいはまったく訪れなかったら。私が優れた講演者であることを知る事もないまま歳をとり死んでいた事もありえたのだろうか?
恐らくそうだ。
なので思うのだ。私には他にも才能があるのだろうか?その行使は私にとって楽しく有益であるのに、これまでそうする機会が訪れる事の無かった才能が?分からない。
そしてこの事については、同じ事を誰に対しても言う事が出来る。人類の膨大な人口の中にどんな才能が発揮される事も無いまま眠っているか、そして発揮される事がない故に我々がどれだけの損失をこうむっているか、誰にわかるだろうか?
もう一つの予期せざる展開は、次のようにして私の博士課程の研究の中で起こった:
デスクに向かい、その日の実験の為の材料を準備しながら、私は迫ってきている書かなければならない博士論文について考えていた。博士論文とは非常に形式の決まった文章であって、固い、日常的なものとは全然違う(バカバカしくすらある)形式の鉄の執筆ルールがあった。私は固い、非日常的な、そしてバカバカしい形式で書きたくはなかった。
そのゆえ、ひらめいたのだ。いたずら好きの妖精パックに触れられたように。私の心を楽にして博士論文により真剣に取り組めるようにするために、博士論文のパロディーを書けばいいのだと。
その頃、私はカテコールと呼ばれる合成物の小さな羽のような結晶(tiny feathery crystals)を取り扱っていた。それは水に非常によく溶けるものであった。それを少しばかり水につけると、水の表面に触れたとたんに解けていくのだ。私はつぶやいた。「もし表面に触れる直前に解けるのだとしたら?もしそうだったら?」
その結果、私はできうる限りの格式ばった文章で、水を加える1.12秒前に溶け出してしまう合成物についての偽の博士論文を書いて、「再昇華チオチモリンの吸時性」*2と名づけた。
私はそれをキャンベルに送ったところ、彼はそれを気に入った。たまに偽の論文を掲載する事について、彼には何の問題もなかった。私はそれが私の運命を決める博士論文口頭試問が行われる頃に雑誌に掲載される事に気がついたので、慎重をきしてキャンベルにはペンネームで掲載してくれと頼んでおいた。
それはASFの1948年3月号に掲載されたが、キャンベルはペンネームの事を忘れてしまっていた。アイザック・アシモフの名前がでかでかと書かれていて、そして、コロンビア大学の化学の教員全体がその噂を聞き、雑誌を手渡ししていっていた。
私は非常に気分が悪くなった。何が起こるか確信していたのだ。博士論文の口頭試問で私が何を言おうと、彼らは個人的な資質の問題により私を落としてしまうだろう。長い、長〜い間をかけて、そして結局私は、偉い人たちに敬意を払わないという昔からの、むか〜しからの罪によって私は失敗するのだ。
しかしそうなる事はなかった。教授達が私を博士号口頭試問の地獄に落とした後、ラルフ・ハルフォード教授が最後の質問をしてきた:「ミスター・アシモフ、再昇華チオチモリンの熱力学的特性について何か述べてくださいますか?」
私はヒステリックに大笑いしてしまった。もし彼らが私を不合格とするつもりならそんな事を訊いてはこないだろうと分かっていたからだ。そして彼らはしなかった。私は合格し、彼らは諮問室から現れると*3、私と握手をしては、こう言った。「おめでとう、ドクター・アシモフ」。
それは1948年5月20日のことだった。私は28歳で、私は第二次世界大戦による4年の中断を嘆いた。24歳で博士号を取得して、私の神童性をすこしだけ生き延びさせることも出来ていたはずだったのだ--しかしそんな事は非常に愚かな考えだった。その戦争の間に、何百万人もの数えられないほどの人たちが4年以上のものを失っていたのだから。
卒業式は6月2日に行われた。しかし私は公式にそれに参加するのを拒否した。私はその式の中の中世的な要素(the medieval claptrap)を否定したかったからだ。しかし、私は聴衆の中に父と共に座っていた。父は私が大学のローブに包まれて壇上にいない事により、非常に不機嫌であった。しかし少なくとも、父は私が何とか博士(ドクター)となるのを見届けることができたのだ。望みのドクター(医者)とは違っていたとしても。

*1:「ギリシャ語」は、「わけ分からん」という英語でのよくある表現です。最後の「恐怖した」は、すいません、最近ガンダムの映画を観てるもので、つい。

*2:これはクルーグマンが新人助教授だった時に宇宙経済学についての[http://d.hatena.ne.jp/okemos/20090108/1231379254:title=論文]を書いたのと同じ事ですね。

*3:試験者は試験終了後に部屋を出されて、残った教授たちが合格かどうかを討議する。