P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

45. ポスドク

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第45セクション「ポスドク」の翻訳です。

ようやく「大学院」を倒して、Ph.Dを手に入れたアシモフ。しかしその後には、さらなる強敵が待ち構えていた。そう、「職探し」が待っていたのだ!
というわけで、アシモフ自伝もついに職探し編(笑)にいよいよ突入です。俺も職探しに苦労したクチなので、泣けます。この職探し編の苦労もこの翻訳をする気になった理由の一つですね。
でも、がんばるんだ、アシモフ!君にはすばらしい未来が待っているぞ。それから、もしこれを読んでくれている人で職探し中の人がいたら、がんばれ!


45. ポスドク
私が仕事のことについて心配をし始めたのは1938年、私が大学3年で医学校へ願書を出した時の事だった。それ以来、私の人生は長い先送りであった。大学院があり、NAESがあり、陸軍があり、そしてまた大学院があった。10年が過ぎ、そして1948年、私はPh.Dを授かることとになったが、しかしまだ同じ昔からの問題が残っていた。仕事は?
ドーソン教授は、研究の指導者としてはどれだけすばらしくとも、その教え子を就職させる点についてはもっとも力のある教員の内の一人ではなかった事は認めておかなければならない。そしてまた、私の研究も注目を引くに足るほどのものでもなかったことも。その結果、私には仕事が見つからなかった。
私を救ってくれたのは、1年間のポストドクトレート学生としての仕事が提案されたことだ。これはつまり、私は研究を続けて、そしてその年は5000ドルを支払われるということだ。マラリアに対する薬の研究をして、キニーネ(抗マラリア薬)の現存するものよりも良い合成代替物を探すことになった。
私は特にこの問題に取り組みたかったというわけではないが、化学についてあきらめてしまっていたし、自分の研究者としての能力のなさも自覚していた。実のところ、私はその年に行った研究についてほとんど思い出せないのだ。いかに私が興味を持っていなかったか、ということだ。
しかし、1949年が過ぎていくと、本当の仕事が見つかる望みが薄れていった。無職!なにもない。あまりにもあせった私は、翌年以降も雇ってもらえるように抗マラリヤ薬の仕事に身を捧げていく決心をしようとするところであった。
その時がおそらく私の化学におけるキャリアの最低点であっただろう。好きではない仕事に金の為、身を投じようとしていたのだから。私は29歳で、世界を驚かすような類の成功者になるぞ、という長年の自慢と確信にもかかわずら、完全なまったくの失敗者であった。
そして私は戦後のアカデミックの世界でのあまり心地よくない事実の一つを学ぶ事になった。段々と、アカデミックの研究は政府の助成金で援助されるようになってきていたのだ。こういった助成金は1年間のものなので、毎年、もし助成を延長してもらいたいなら、その研究を行っている教授が継続を申請して、そしてその理由を述べなければならないのだ。
この結果は有害なものであった、と私はずっと思っている。まず第一に、政府の助成金を求める教授は政府の資金を使うのが正当と思われる研究対象を選ばなければならない。よって、科学者はお金になる対象を目指して、科学のあまりドラマチックではない分野を放置する。これはつまり、お金になると思われた分野には一杯お金がつぎ込まれ、ゆえにその多くが無駄になるということだ。一方、科学の無視された分野も、もし無視されていなかったなら何か重要な発見があったかもしれないのだ。
さらに、政府資金への厳しい競争は詐欺の可能性を高めもする。科学者も人間であり、お金を呼び込む実験の結果を都合の良いものにしたり、そもそもでっち上げたりもするのだ。
この助成金システムのさらに別の結果は、年々、その年の後半は研究ではなく助成金の更新の為の文書の作成に時間が使われるようになっていったことだ。
そして最後に、研究グループの最下層、その給料は大学の資金からではなく助成金から支払われる者達は、継続的な不安定の中にあることだ。更新されずに自分たちがお払い箱になるのかどうか、彼らにはわからないのだ。私はこの事を、年度の終わり、私への助成が更新されなかった時に思い知らされることになった。
ポスドクの期間にあった良い事はたった一つだけだった。我が家のご近所さんが興味をもって、私はどんな仕事をしているのかと訊いてきたのだ。私は彼に抗マラリア薬についてです、と答えると、彼は「なんですか、それ?」と訊いてきた。本当にしらないようだった。
なので、私は非常に丁寧に私が行っている事を説明した。化学式も含めて。そしてそれを終えた時、彼は本当に心から、「とても簡単で分かりやすかった。ありがとう」と言ってくれた。
この事から、はじめて、私は科学についてのノンフィクションの本が書けるのではないかという考えがめばえた。その時は何もそれから生まれなかったが、私の心の中には残り続け、そして最終的に非常に多くの実をなしたのだ。