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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

クルーグマン:カーター政権の思い出 :

クルーグマン 経済学

えーと、お久しぶりです。それからもしかしてアシモフの翻訳を期待してられる人がいらっしゃるのでしたら、すいません。そのうちにまた再開させていただきます。
で、今回なんですが、久々のクルーグマンのブログの翻訳です。いまクルーグマンは休暇中でブログポストもペースが落ちているんですが、19日のポストで70年代末のマクロ経済学の変化について思い出話を書いてまして、その中のロバート・バローのエピソードに個人的な理由から笑ってしまったので、これを訳す事にしました。ま、前置きはこれくらいで、訳文は続きを読むの下です。
(コメントにありますように、himaginaryさんのご指摘にあわせて訳を変更しました。)


カーター政権の思い出 ポール・クルーグマン 2009年9月19日
ジョン・アップダイクの小説のひとつに、フォード政権の思い出*1と題されたものがある。言うまでもなく、ジェラルド・フォード*2についてのものではない--ほとんど、セックスについてのものだ。アップダイクはカーター時代*3を婚外性交渉の黄金時代として記憶しているからだ。同様に、このポストもジミー・カーターについてではない--マクロ経済学の理論について、だ。(すまない。)
それは、1970年代後半にマクロ経済学が大きな断絶を経験したからだ。その時代は、当時、自分の進む道を見出そうとしていた若い経済学者だった私のようなものの記憶のなかには鮮やかに刻みこまれている。しかし、当時起こったことについての詳細な説明をみたことがない。よって、そのスケッチを描いておこう。いつの日か、優秀な学史家がギャップを埋めてくれれば、と思う。
私が覚えている限り、その全てはフェルプスの貢献から始まった:Microecnomoic Foundations of Employment and Inflation Theory(雇用とインフレーションの理論のミクロ経済学的基礎)。その論文が解決しようとした問題は、ここに的確に要約されているケインズは(そして、この点については、ミルトン・フリードマンも)、たとえば貨幣供給の減少などによる、総需要の減少は雇用と生産の減少につながると主張した。しかし主流のミクロ経済学理論は、生産は相対価格の変化にだけ反応するのだとする。価格の全般的レベルの変化に対してではなく。そしてこのことはさらに、貨幣は「中立的」であることを意味する:貨幣供給の20パーセントの減少は、全般的な物価レベルの20パーセントの低下につながるが、しかし生産や雇用には変化がないはずなのだ。
フェルプスとその他の経済学者達は、なぜ経済全体はとてもケインズ的にみえるのかを不完全情報から説明しようとした:労働者と企業が物価レベルの変化に、それがあたかも相対価格の変化であるかのように反応するのは、最初の時点ではその違いを見分けられないからなのだ、と。しかしながら時間が経つにつれて、彼らも自分達の過ちを認識するようになる--よって、たとえば、インフレ率の上昇は、まずは失業率を減少させるが、しかしそれは長く続くことはない。最終的にはインフレが期待の中に織り込まれてしまうからだ。つまり、新しい理論はスタグフレーションの登場を予言していた。まごうかたなく確認された予言であった。
しかし、その期待とはどこからくるのだろうか?ロバート・ルーカスはフェルプス・タイプのモデルを合理的期待と婚姻させた。合理的期待とは、経済の中の人々は予測をする為に利用可能な全ての情報を利用する、という考えだ。そしてこれは、驚愕的な結論につながった:政策は予測されてしまうと雇用に何の効果も持たないのだ。なんらかの、たとえば貨幣供給についての予測されざる変化だけが効果をもつ--これはつまり、金融政策も財政政策も経済安定化の政策として利用可能ではない、ということだ。
このルーカスの考えは経済学会をとりこにした--それを支持するなにか確実な証拠があったから、というのではなく、それがあまりに賢い考えで、それがきれいな数式につながり、そしてそれがマクロ経済学者達にその内なる新古典派へと屈しさせてくれたからだ。
しかし70年代の終わりまでには、合理的期待マクロはうまくいかないということが既に明らかになっていた。なぜか?なぜなら人々はあまりに多くの情報を得てしまうからだ。
上に述べた失業の話について考えてみよう。それは、貨幣供給の収縮は不況を発生させるという物語だ--しかしそれは、人々が今は不況だという事を知るまでの話なのだ!つまり、もし人々が今は不況だという事を知ったならば、彼らが直面している低価格は全般的な需要の低さを反映しているのであって、彼らの作る財についての低い需要のためではない、という事を知ってしまう。
ルーカス・タイプのモデルでは、人々は自分達が直面する価格について考慮して、「ノイズ」と「シグナル」を最適に分離する。しかしながらそのモデルは、たとえば利子率を確認するとか新聞を読むなどして、人々が価格以外の情報に接するならば崩壊してしまう。そして当然ながら現実においては、不況というものは誰も彼もが今は不況だという事を知るのに十分なほど居座ってしまうので、ルーカス・タイプのモデルが必要とする混乱*4はなくなってしまうのだ。
たしか1980年だったと思うが、あるセミナーにおいてロバート・バローが彼の合理的期待ビジネスサイクルモデルについて報告していた事を覚えている。誰かが彼に、彼のモデルと、彼が報告している間にも起こっていた深刻な不況との整合性をどう取るのか、という質問をした。するとバローは、「理論との、この直近の残差については私は興味がありません*5」と返した。
しかし1980年か1981年までには、ルーカスの計画--経済の明らかにケインズ的な変動を不完全情報だけで説明しようというもくろみ--が失敗したことは誰の目にも明らかだった。それで、マクロ経済学の理論家達はどうしただろうか?
答えは、彼らは分裂したのだ。一派は、事実上こう言った。「OK。目の前で起こっていることを最大化の観点からでは説明できない。よって、最大化についての何らかの制約を仮定せざる得ないだろう--価格改定のコスト、限定合理性、その他なんであれだ」。この一派はニュー・ケインジアン、塩水経済学派*6となった。
別の一派は、事実上こう言った。「OK。目の前で起こっていることを最大化の観点からでは説明できない。よって、我々はデータの解釈を間違えているのだ--貨幣供給の変化などの事が不況を引き起こせるはずがない。理論がそう言っているんだから」。この一派はリアルビジネスサイクル学派、淡水経済学派*7となった。
しかし、ここで一つ問題がある:現時点において、淡水経済学派はこういったことをもう何も覚えていないのだ--彼らはその講義からケインズ学派はおろかマネタリストの要素すら粛清してしまった。彼らが知っているのはただ、ケインズ主義は「間違っている事が証明され」、そしてそれの何についても--合理的期待を組み込んだニューケインジアンのモデル(グレッグ・マンキューが述べるように、「景気循環を穏やかにする金融あるいは財政政策などの経済への政府介入への根拠を提供する」アプローチ)ですら--聞くに値しない、という事だけなのだ。
そしてこうして我々は、今、我々がいる場所へとやってくる事になったわけだ。

*1:Memories of Ford Administration、未訳

*2:第38代アメリカ大統領。

*3:原文にはっきり、"Ford years"ではなく、"The Carter years"とある。読んだことがないのだけれど、タイトルはともかく、内容はカーター時代がメインなのだろうか?

*4:物価水準の変化と相対価格の変化の間の混乱。

*5:"I'm not interested in the latest residual."これ読んで笑ってしまったのが、これを訳すことにした理由。実証が嫌いで避けていた僕は留学中、"I don't want to get corrupted by this thing called reality!"とか言って笑っていた。それは冗談だったんだけど、バローあたりはセミナーでマジでこういう事をいうんだねぇ。かっこいい!笑

*6:ハーバード、MIT、バークレーなどの東海岸・西海岸の大学系。

*7:シカゴやミネソタなどの周辺に湖がある地域の大学系。