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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

Ross Douthat:天と地と

Ross Douthatはアメリカの若手保守派論客です。ギングリッチ、ペイリン、ラッシュ・リンボーなど、アメリカの有名な保守派の人達にはアメリカのリベラルから恥知らずの嘘つきとみなされいる人たちが多いですが、Douthatはマシュー・イグレジアスといった若手のリベラル論客からもまともな考慮の対象とみなされている人です。
で、そのDouthatがニューヨークタイムズのコラムでジェームズ・キャメロンの「アバター」を枕にして、アメリカでの汎神論の受容に触れていました。さすがはハリー・ポッターを反キリスト教的と禁書の対象にしようとする人たちがいる国だけの事がある面白い文章ですし、大新聞の連載コラムにこういう文章が載るという事がやはりいまだに存在する日本とアメリカの違いを反映しているとも思いますので、訳してみました*1
(それから原文タイトルは"Heaven and Nature"で、普通なら「天国と自然」と訳すところですが、誘惑に勝てませんでした...)


天と地と Ross Douthat 2009年12月20日
ジェームズ・キャメロンの「アバター」がクリスマス時期に劇場へやってくるのは当然のことではある。ホリデーシーズンそれ自体と同じように、サイエンス・フィクション大作は、深いように感じられる宗教的メッセージによって包まれた資本主義的過剰の俗っぽい実体化なのだから。それはすべてのブロックバスターを終わらせるブロックバスターであると同時に、ジェームズによるゴスペルでもあるのだ。
しかし、キリスト教のゴスペルではない。代わりに、「アバター」は汎神論−−自然と神を同一視し、人間の自然界との宗教的な交わりを即す信仰−−の、キャメロンによる長い弁護であるのだ。
キャメロンのサイ-ファイ宇宙では、この交わりは、青い肌の、うらやましくスレンダーなナ・ヴィ(Na'Vi)、強欲な人類の侵略者によって危機にさらされている惑星衛星パンドラの牧歌的な異星種族によって体現されている。このナ・ヴィは映画のヒーローである裏切り者の海兵隊員によって救われるわけだが、彼らのエイワァ(Eywa)への信仰によっても救われる。この「すべての母(All mother)」はあいまいに、エナジーと生きとし生けるものの全てをあわせたもののネットワークとして描かれている。
この説明がどこか聞き覚えのあるものに思えるなら、それは汎神論こそがこの一世代にわたりハリウッドがその宗教として選んできたものだったからだ。狼とダンスした時、ケビン・コスナーが発見した真理はそれであった。「ライオン・キング」や「ポカホンタス」といったディズニーのカトゥーンのなかに形而上学的に織り込まれていたのも、それであった。そして、ジョージ・ルーカスのジェダイのドグマもまたそれなのだ。ジェダイたちの神秘主義的なフォースは、「我々を包み、貫き、そして銀河を一つに結び付けている」。
ハリウッドはこういったテーマに立ち戻り続けてきた。それは、何百万のアメリカ人がそういったものに肯定的に反応するからだ。Deepak ChopraからEchhart Tolleにまで、近所の書店の「宗教と霊感」のセクションは汎神論的メッセージを謳うタイトルで満ちている。アメリカ人が神学をどのように混合し適応させているかについての最近のPew Forumの報告は、クリスチャンを自称する多くがインディゴ色のナ・ヴィにこそぴったりくるような、木と山の「霊的エナジー」について信じていることを発見している。
いつものように、アレクシス・ド・トクヴィルはこのことを見抜いていた。全ての人類の本質的な調和へのアメリカ人の信仰は、と1830年代にトクヴィルは書いている、創造の全ての段階での区別をなくさせてしまうだろう、と。「創造と創造主以外この世界には何もないという発見では満足できず」、と彼は述べている、民主的な人間は「神とこの宇宙を一つにまとめる事で、その世界認識(conception)を拡張し単純化しようとする」、と。
今日では、汎神論のアメリカでのアピールを強める要因が他にもある。我々は自分達が捨て去ってきたものに焦がれるものだし、自然界を神格化するのは、我々のハイパー・テクノロジカルな社会に対する不安を表明するわかりやすい方法だ。そしてまた、地球温暖化の脅威は自然へのカルトに、すべての成功する宗教に必要なものを与えている−−救済を行おうとする熱意(a crusding spirit)、厳格な「汝するなかれ」の項目、そしてアツアツの破局*2
そして同時に、汎神論は、一神教の想像力のない味気なさ(the literal-mindedness)、に不満な人たちに神秘的な経験への道を開いてくれる−−奇跡をおこす神々と、魔法の書物、処女懐妊と、そして死からの蘇りによって*3。ポーランドの哲学者、レチェク・コラコフスキー(Leszek Kolakowski)が述べたように、神性を自然界に付与することは「神を人の領域に近づけ」、そして「彼(神)からその人格を奪い取ろう」とすることなのだと。超越を欲しながらも、人間の物事に介入する全能者を求める思想からはあとづさってしまう者には、それは理想的な組み合わせである。
実のところ、それは無神論者すら支持できる宗教のかたちなのだ。リチャード・ドーキンスは汎神論を「色っぽくした無神論」と呼んでいる。(彼はこれをほめ言葉として用いている。*4)サム・ハリスは彼の論争的な"The End of Faith"を、「世界の湧き上がる神秘(the roiling systery of the world)」の中に浸ることから可能になる神秘的な経験について熱狂的に語ることで結んでいる。アルバート・アインシュタインによる宇宙の「美と荘厳さ」への宗教的畏れの表明を引用して、ドーキンスもこう認めている。「この意味において、私もまた宗教的である。」
疑問は、自然は本当に宗教的な対応に値するのかどうか、である。伝統的な神学は悪の問題と格闘せざるを得ない:もし神が善ならば、なぜ彼は苦しみと死の存在を許すのか?しかし自然は苦しみと死である。その調和は暴力を要求する。その「生命の輪」は実は死の輪である。そして自然の秩序をもっとも遵守する人類社会は、ジェームズ・キャメロンの好む想像の輝けるエデンなどではない。それは、生きる事が汚く、残酷で、そして短いものとなりがちな場所である。宗教が存在するのは、部分的には、まさに人間はそういった残酷なリズムの中では安らげないからなのだ。我々は自然界の中に半分つかり、半分はみ出している。我々は自意識をもった獣であり、倫理を持った捕食者で、不死を願う死にゆく定めの被造物*5なのだ。
これは悩ましいポジションである。そしてもし上への逃避が無理ならば−−あるいはクリスマスの物語が述べるような、肉を身にまとい我らの元へやってくる神が存在しないならば−−深く悲劇的なポジションでもある。
汎神論は異なる解決をもたらしてくれる:下への出口を、我々の悲劇的な自意識の放棄を、我らの祖先が何千年も前に半分逃避した自然界との再融合を。
しかし塵と灰としてでなければ、自然は我らを取り戻すことはできないのだ。

*1:まっでもこれは連載コラムなので、Douthat、今回は他にいいネタがなかったが故の選択じゃないか、とも思いますが。

*2:アメリカの保守派は、地球環境問題のカルト的な側面に注目したがるが、それは自分達がカルトの一員だから、相手もそうなんだ、と思うということだろうか?

*3:訳に今一自信がないが、キリスト教にも一杯神秘的要素があるだろう、という事をいいたいのだろう。

*4:保守派にはキリスト教徒が多いことを考慮しての注意。

*5:原文"creatures"。これは「生き物」とも訳せるが、ここでは「被造物」を取った。この訳はこの文章に宗教的な意味合いを持たせるが、それがドーサットの意図なのだろうと思うので。