P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

ゲルマン:カプラン「選挙の経済学」の書評

NYUの政治学者・統計学者のアンドリュー・ゲルマンがカプランの選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのかの書評をPolitical Psychology用に書いたそうで、それを自分のブログに載せていました。この本は日本のブログ界でもちょと話題になった印象がありましたので、その書評を訳してみました。ただし俺は、この本を読んでいませんので、訳しつつも、実はよくわからなかったところがいくつかありました。この点は最初に断っておきます。

カプラン「選挙の経済学」の書評 アンドリュー・ゲルマン 2009年12月27日
ブライアン・カプランの選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのかThe Myth of the Rational Voterは元々、"The logic of collective belief: the political economy of voter irrationality (集団的確信のロジック:投票者非合理性の政治経済学)"と題されており、その基本的な主張は以下のようなものだ。
(1)国全体にとって最適であると思える事に基づいた選好にしたがい投票するのは人々にとって合理的である。しかし各人の利益に基づいて投票する、というのは必ずしもそうではない*1
(2)投票、政策、経済的結果の間のフィードバックはとても弱いものなので、投票者が経済について「正しい」見解(これは経済学的にという意味である)を持つ誘引があるとみなす理由はない。
(3)その結果、民主主義は最適ではない結果を生み出す−−投票者の愚かな選好から愚かな政策がうまれるのだ。
(4)それに対して、人々は(消費者として、生産者として、雇用者として、その他として)経済的選択を行う際には、合理的になる誘引をずっと持っている。よって、民主主義の役割を減らし、経済的政策決定には市場の役割を増やすのがよい。

カプランは多くの有意義なことを述べており、それらを興味深くまとめている。情報を持たない投票者は民主主義において大きな問題であり、カプランはこれが容易に解決できる問題ではないという主張を説得力をもっておこなっている−−それはシステム自体の問題なのだと。彼の主張は1970年代に、政治への参加者が多すぎるために民主主義は失敗していると主張していたサミュエル・ハッチントンやその他のそれとは異なっている。私が覚えているところでは、1970年代の「民主主義過多」の理論家達はそれを期待についての問題とみていた。簡単にいうと、「市役所」は全ての人の面倒を見切れるわけはないということなので、彼らはエリートからなるより統制のとれた集団だけに限ることを求めていた。カプランは(政府の行動へのより繊細な要求などではなく)投票それ自体が問題なのだと考えている。

主張の限界(Bounding the arguments)*2
この本については色々と述べたい事があるが、まずはその主張の限界について述べておきたいとおもう。
まず第一に、カプランは経済学に焦点を当てている。とくに、経済学者が同意する経済問題についてである。しかし、経済学者の意見がまとまらない程度に応じて、話はあいまいになる。たとえば、一部の経済学者は非常に累進的な所得税を望むが、別の経済学者達は単一税制を好む。カプランは税率は一般に低くあるべきと主張している(経済領域での民主的政府の役割を減らせるから)、と私は思うが、しかしそれでも税率の程度を決めるのは議会の役割である*3。これはカプランの議論の弱点ではない。私はただその適用の限界を指摘しているだけである。別の例では、カプランは「最低賃金のような非効率的な政策がなぜ人気なのか」と問うている。これは価値についての質問だろうか?私の印象では、一部の経済学者はより高い最低賃金を指示し、別の経済学者は反対している*4
より一般的にみて、専門家による一般的な合意が存在していない類の、非経済学的問題が経済的領域にも広く存在している。国防、人種差別、そして医療に関しての政策を考えてみよう。ここでも、私はカプランが経済問題についての分析で間違っているといっているわけではない。ただ民主的政府は他の多くのことも行っている、と言っているだけだ。(一箇所で、かれは投票者が誰に投票するかの決定を典型的に経済的な考慮に基づいて行うという証拠を示している。たとえば、Hibbs (08) *5を参照されたい。しかし、経済が限界において決定的であるとしても*6、それは他の要因が重要でないということを意味はしない。
他の例としては、カプランの毒物についての議論がある。これはたまたま私が研究を行った事がある分野なのだ。これについての問題の一つは、人々がある種のリスクを過小評価し、他のリスクを過大評価することだ。よって「懸念すべき」や「懸念におよばない」といった単純なアドバイスはあまり助けとならない。これは毒物に接した時点と健康問題が発生する時点の間には通常、ラグがあるため、とりわけそうなのだ。その議論において、カプランはある種の政治的要因を無視している。一方では、産業界はリスクを軽視する誘引を多く持ち、彼らは議会におけるロビー工作を盛大におこなっている。他方では、EPA(環境保護庁)といった機関はリスクを過大視する誘引をもつ。よってそういった見解は何もない真空中で起こるわけではないのだ*7
最後に、カプランは大体において、まるで民主主義を、直接民主主義であるかのように考えている。しかし代議制民主主義は直接民主主義とは非常に異なったものであると私は思う。カプランはこの点に触れている。政治家は、その意思決定においてある種の「ため(slack)」をもっていると。しかし私は彼が、意思決定プロセスにおける政治家の役割の重要性を過小評価していると思う*8

より細かい点についてのコメント
後半で、彼は「イデオロギーへの忠誠の価格は何だろうか?それは信じるものの為にあきらめた物質的富である」と述べている。私はそれは一部であって、全てではない、と考える。たとえば、私が政党Aの経済政策は国にとって望ましいという誤った考えを持っているとしよう。私が(そして私のような他の人達が)Aに投票して、政党Aが勝利し、その政策を実行して、悪い結果(政党Bが勝利していた場合と比べて)になるとしよう。国の経済についての問題故に、私は少々アンハッピーになる。私が他者の事を考慮する程度に応じて(そして、カプランも述べているように、それこそが私がそもそも投票する理由であり、そしてまたおそらく彼がこの本を書いた大きな理由でもあるだろう)、もし私が間違ったイデオロギーへの忠誠を持つならば、たとえ私が個人的には影響を受けなくとも、国への悪い結果から私につらい思いをすることになるだろう。
経済学者とその他の人達の見解に関して言うと、カプランが「経済学者が一般人に対してもつ全ての文句の中で、四つの考えについての事がもっとも飛びぬけている...反市場バイアス、反外国バイアス、市場の働きについてのバイアス、そして悲観的見方へのバイアス」と書いているのを
みて、私は驚いてしまった。私がこれに驚かされたのは、経済学者がもっとも重要だとみなしている(そして非経済学者に無視されている)二つのコンセプトは、(a)機会費用、と(b)外部性、だと思っていたからだ。この二つのコンセプトはカプランの例の多くにおいてもあらわれるので、これは単にラベルの問題なのかもしれないが、よく分からない。また、カプランが「悲観的見方へのバイアス」を取り上げているのも面白い。というのは彼の本それ自体がとても悲観的だからだ!
同様な点について、彼は「先進国での『豊富の否定』をあざ笑う」引用をしています*9。彼は一体、何の事をいっているのか!合衆国の人々は以前よりも多くの車を、テレビを、そしてその他を持っている。これは私には「豊富の否定」にはまったく見えない。もちろん、合衆国には貧しい人がいるけれど、平均して人々は多くの物質的な財を消費している。おそらく、経済学者のカプランは心理的な事について判断しており、(政治学者である)私が経済的な判断を下そうとしている事が、ここでの問題なんだろう。
彼のアイデアの政治的帰結についての議論の中で、カプランは、「非対称情報は小さい政府(less govenment)につながる」*10と書いている。彼の言っている事はわかるし、これは彼の議論の重要な部分なのだが、しかしそれが可能なのか私にはわからない。たとえば、犯罪のコントロールについて考えてみよう。人種的マイノリティの投票者達はしばしば警察を信用しない事がある。しかしより小さい警察は望ましい結果であるとはみなされていない。同様に、もし私が政府はテロリストから我々を十分に守っていないと考えたとしても、解決策はより積極的でない政府だとはおそらく私は言わないだろう。(テロリストに対する政府からのより少ない保護を望むことは、持つに足る見解ではあるが、ふつうの見解であるとは思われない。)
心理の問題に戻ると、カプランは選好は観察不可能だと言う事を正しく指摘している。私としてはさらに、みえざる選好*11(そして「効用関数」)などがそもそも存在していない、ということを言っておきたい。我々はその選好を特定の問題を解決する必要に応じて組み立てるのだ(Lichtenstein and Slovic, 2006、をみよ)。カプランは「Pablo Nerudaのような偉大な詩人の政治的影響力」に驚きを表明する−−なぜ人々は政治的問題についての詩人の見解を信用するのか?私は彼が重要な点を見逃していると思う。それは、詩人は人がすでに持っている見解を取り上げ、そしてそれを美しく表現するのだ、ということだ。より一般的に、有名人というものは多くのことのシンボルとなる。なぜ広告のなかのマイケル・ジョーダンがマクドナルドの顧客を増やすのか私はしらないが、とにかく彼らはジョーダンとのつながりのために大金を払うのだ。
この本についての興味深い点の一つは、政治的心理についての経済学者の理解をみることが出来ることだ。逆に、経済学についての政治学者やその他がもつ見解についての議論のなかで、カプランは「[市場根本主義(,market fundamentalism)に対する]例外を最初に見つけるのは大抵経済学者達自身である。」と書いている。おそらく、そういった考えのいくつかについては、経済学者達によってより真剣に取り上げられて、それで彼らがその例外を見つける事となった、という方がより正確だろう。他の分野の科学者達はそもそも「市場根本主義」というもので喜んだりはしないから、それをわざわざ論駁しようともしないのだ。たとえば、私が心理学教授の友人に合理的投票についての私の考えを語ったところ、心理学者は人々がどう非合理的であるかについてすでによく知っているから、彼は特に興味を持たなかった。彼らは合理性を期待できるものとはみなしていないのだ。私は、合理的選択の理論を、政治的行動について心理的説明と競合するものではなく、補完するものだとみなしている。他の研究者達は、その(合理的選択)モデルの有益性についていろいろと検証している。たとえば、カプランは、「労働者は仕事場での安全性向上と引き換えに、より低い給料で働く事をいつでも提示できたのだ」と書いている。しかしDorman(1996)はそんな事はないという事を説得的に主張している。

結論
政治システムの中で何らかのプレイヤーが完全に合理的であることを予想するのは行き過ぎである−−Anasolabehere and Snyder (2003)は、ロビイスト達ですらその選挙の献金についてとくに合理的なわけではないと主張している。時折言われることにも関わらず、投票は他の社会的、政治的活動と比べて特に非合理的というわけではない。投票は低いコストと、一票が結果を決める可能性の非常な低さをもつ。しかしそういった非常にありそうもない状況*12においては、全国的、そして世界的に大規模な影響を及ぼす。よって、投票からの期待利得は、そのコストと同程度にはあると主張する事ができるのだ*13(Parfit, 1984, やEdlin, Gelman, and Kaplan, 2007、などをみよ)。
投票の合理性についての研究の多くは、投票するか、誰に投票するかについての決定に焦点を当てている。カプランは有益な事に、焦点を政策に振り向け、そして人々がよい投票者になる経済的誘引を持たないという事実の帰結についてすぐれた探求を行っている。もし彼らが合理的に投票したとしても(それぞれに見解に基づいて)、彼らの選考を改定するフィードバックメカニズムは著しく弱々しいものだろう。
私は、ビジネスによる支配だとか、教育のあるエリートによる支配だとかの代替作をすすめるカプランの議論にはあまり納得していない。私は彼の中心となる主張(民主主義の理論的、実効的な問題)は、彼のより議論を呼ぶ立ち位置のいくつかとは区別する事ができるだろうと思う。

参照文献
Ansolabehere, S., and Snyder, J. (2003). Why is there so little money in U.S. politics? Journal of Economic Perspectives 17, 105-130.

Dorman, P. (1996). Markets and Mortality: Economics, Dangerous Work, and the Value of Human Life. Cambridge University Press.

Edlin, A., Gelman, A., and Kaplan, N. (2007). Voting as a rational choice: why and how porple vote to improve the well-being of others. Rationality and Society 19, 293-314.

Hibbs, D. A. (2008). The implications of the "bread and peace" model for the 2008 US presidential election outcome. Public Choice 137, 1-10.

Huntington, S. P. (1975). The United States. In The Crisis of Democracy, ed. M. Crozier, S. Huntington, and J. Watanuki. New York University Press.

Lichtenstein, S., and Slovic, P., eds. (2006). The Construction of Preference. Cambridge University Press.

Parfit, D. (1984). Reasons and Persons. Oxford University Press.

*1:一般的にいって、大規模な選挙においては一票が選挙を決める確率はゼロに近い。たとえば[http://www.nber.org/papers/w15220.pdf:title=Gelman, Silver and Edlin (09)]によると、アメリカ人の一有権者が大統領を決定する確率は、州ごとにことなるものの、平均して6000万分の一、ニューヨーク、カリフォルニア、テキサスなどの人口の多い州だと、10億分の1になるという。こういう低い確率では、たとえ選挙結果からの利得がどれだけ大きくても、投票の期待利得、利得×確率、もほぼゼロになる。投票に行くコストは低くともゼロではないから、シンプルな合理的選択のモデルだとみんなが投票にいくなら投票に行かないのがお得ということになる。ところがもしだれも選挙に行かないなら、投票によって自分が結果を決める確率は1だから、投票にいくべき、となる。でも、みんなが行くなんら...というパラドックスが政治経済学にはある。

*2:これ、訳に自信なし。

*3:ここでゲルマンは、税率は投票によって直接決められる訳ではない、ということを言っているのだろう。

*4:保守派の人達は最低賃金についての議論を非常に単純に行いがち。それについては[http://d.hatena.ne.jp/okemos/20091218/1261101403:title=Rajiv Sethiのエントリー]を参照。

*5:Hibbsのこの「パンと平和」モデルについては、[http://d.hatena.ne.jp/okemos/20080205:title=これ]や[http://d.hatena.ne.jp/okemos/20081101/1225548617:title=これ]を参照。

*6:ここでの「限界(marginal)」は経済学的な意味のものです。

*7:誘引の研究を旨とする経済学者が、プレイヤーの背後にある誘引を無視しているといわれているわけだ。

*8:投票者が政策を直接、投票によって決める直接民主制とは違い、投票で選ばれた政治家が政策を議会での投票によって決める代議制、あるいは間接民主制は、議会内での行動のモデルを考えなければならず、モデルづくりが厄介。なので政治経済学を名乗りつつも政治に踏み込む事が主眼ではない簡単なモデルでは、直接民主制を仮定し、中位投票者定理で均衡を出すことが多い。現実には議会内での政治家のやり取りの末に政策が決まるので、そういった簡単なモデルが十分現実を表しえるのかどうか、というはちょっと厄介な問題。

*9:ここ、何しろ元の本を読んでいないので、訳が正確かどうか自信なし。

*10:対称性故に政府が十分な情報をもっていない分野について、政府は介入するべきではない、ということだろうか?

*11:ここでは心の中の不変の選好、という意味だろう。

*12:あなたの一票が選挙を決める。

*13:有権者数が増えると一票が選挙を決める確率はどんどん小さくなっていくが、選挙への棄権を含めて考えると、棄権からの不確実性のために、一票が選挙を決める確率は、総有権者数と比例して小さくなる事が証明できる、というかそういうシチュエーションをありうることがいえる。その場合、もし各有権者が自分の利得だけでなく、たとえほんのわずかでも他人の利得も考慮するなら、確率(総有権者数に比例して低下)と他者利得の合計(これは総有権者数に比例して上昇)がうまく打ち消しあう、と言う事が起こりうる。Edlin, Gelman and Kaplan (2007)はそれについての論文だが、[http://ideas.repec.org/p/cla/levarc/814577000000000309.html:title=Evren (09)]はさらに数学的に精緻化をすすめたうえ、実証データとの整合性という厄介な点をパスしている。