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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

一人の食事について

MarkBitten.comという料理のブログに掲載されていたエントリーの翻訳です。写真と、そして最初の段落で訳す事にしました。俺は死ぬまで、この段落みたいな文章は書けないだろうなぁ。ヴァージニ・ウルフ、読んだことないし、とか思うと悲しいです。

スザンヌ・レズナー氏がどういう人なのかは全く知りませんが、ニューヨーク・タイムズの料理ブログに書いていることからすると、ニューヨークタイムズ関係の料理評論家なのかもしれません。


(Photo by Evan Sung)

1人の食事について 05/6/10 スザンヌ・レズナー

1989年にロンドンのイタリアンレストランでヴァージニア・ウルフと共にとった食事のことを、私ははっきりと覚えている。大学を卒業したばかりで、どこかの厨房で働けることを望みながらロンドンへ渡ったのだった(たいていの場合、私はウェイトレスとして働くこととなった)。思い返してみると、なんの仕事の見込みも現地にいる家族も友達もないままに、カリフォルニアを離れたのはとても向こうみずなことだったように思える。しかし、私は外国でひとりっきりになる事について不安ではなかったのだ。私が不安だったのは、食事をとることだった−−たった一人で。
自宅で1人、食事をとることはなんでもない。料理をして、テーブルにすわり、食べる。何か読むか、テレビでも観ながらかもしれない。しかし、21歳の時、レストランにて1人で食事をとるのは私には初めてのことだった。それまで私はいつでも家族と一緒に外食をしていたし、大学では友達と一緒にだった。ちゃんとしたレストランへ行って1人っきりで食事をとるのは、それまで私がまったくした事のないことだった。
しかし、時間以外はなにもないままに新しい都市の中にいて、急に私は外食がしたくなったのだった。だが、ダッフルバッグ一つと二冊の本だけで私を飛行機に乗り込ませた勇気は、素敵なレストランに入りテーブルを頼んで、そして1人っきりで夕食をとる段になると私を見捨ててしまった。けれど空腹の力強さが、最後には勝利した。
私はそれまでの散策で通り過ぎていたレストランを選んだ。その偵察がすこしは知っているという安全の感覚を与えてくれていたからだ。そして、(今から思い返すと恥ずかしくなるほど象徴的だったが)ウルフの「船出」を抱えて、私は店に入った。この部分は驚くほど簡単だった。そして、「1人です」と言うのも難しくはなかった。しかし席につき店内を見回して、私は無様に感じるようになった。若く、女性で、アメリカ人であることを、おそろしくなるほど強く意識した。だかなによりも、誰もがだれかと一緒のなかで、私がたった一人であることを意識していた。明かりはほの暗く、ウェイターは親切だったが、しかしそれでもそこで私は1人で夕食をとるのだ。
マッシュルーム・ラヴィオリの皿と赤ワインのグラスを選んだ。メニューの一番安いものだった。そして、私は本を読んだ、いや、読もうとしたのだった。文章を読みそこない、同じ段落に何度も何度も戻っては読み返さなければならなかった。そこにたった一人で座っているということを、あまりにも強く感じていたのだ。リラックスすることも周りを気にしないこともできなくて、もし誰かが私を気に留めたら、そのことに気づかれてしまうだろうと考えていた。
この記憶を思い返したのは、後々、いくつもの楽しい一人っきりの食事の後だった。ある夜に、一人の女性を見たからだ。ニューヨークでは、角の中華屋(dumpling shop)からもっともエレガントなレストランまで、いたるところで人々の一人っきりの食事が見られる。そして、バーで着席すること(bar seating)の人気により、一人っきりで食事をする人たちをかつてよりも見かけるようになった。のんびりと新聞を読みながら、そしてもっとありそうなのが、携帯電話で話しをしながら(これは私の考えでは、一人の食事ではないが)。
しかし、この若い女性は私の関心を惹いた。彼女は、このファッショナブルなカジュアルレストランに入ってくると、一杯のワインを注文して飲んだ。プロシウットとチーズの皿を食べながら。彼女は急いで食べ、そして時々回りを見回した。すこし心配そうに。彼女は気もそぞろな様子だった。彼女を見て、私は多分これが彼女の最初の一人の食事なんだろうと思った。
食事とは、栄養をとることであることは言うまでもない。我々の最初の食事は母の体から直接やってくる。そしてほとんどの人にとって、食事の習慣を身につける年月とは、もっとも近しい人達との共同の経験である。大きくなると、我々は友達、あるいはパートナーと食事を一緒にとる。しかし、ほとんどの人でなくとも、多くの人にとって、一人での食事は自宅か、どこにでもあるような飲食店でのことになる。それは経験というよりは、栄養の維持である。とりわけ女性にとっては、そのようだ。自立と自律は置いておいて、私の友達何人かの経験についての調査も、女性はいまだにレストランで落ち着いて一人で食事ができない事を示している。これは恥ずべきことだ。一人っきりで、あるいは良い本だけを友に外食を楽しむ事を学ぶことは力づけられる経験であり、体と心の両方に栄養を与えてくれる機会を提供してくれるものなのだから。
たぶん、我々があまり一人で食事をとらないのは、そうしないように教えられたからなのだろう。あるいは、どうやってとるかを教えられなかったからか。最初の一日目から、我々は他の人たちのなかで食事をする事を学ぶ。そして、学校で一人で食べている子は、一緒に食べる相手が誰もいない子なのだということをすぐに理解してしまう。社会的に、一人での食事は強さのあかしではなく、社会的なつながりの欠落のあかしなのだ。
我々は食事とは共同の活動だと信じることを刷り込まれている。そして、今日のあまりにも活動的な世界では、さまざまなものが我々の気を逸らしてしまうことにあまりに慣れてしまっていて、集中して何かを行うこと、レストランのような居心地のよい環境のなかでただ我々自身を仲間に静かに座っていることに、我々はなにかむき出しにされているように感じるのだ。テーブルの向こうにいて相手をしてくれる誰かがいなくては、我々は同じ場所にいるほかの人たちにこの一人っきりの状態をどう思われるだろうと考えてしまうのだ。
もちろん、そんな状態は仮のものだ。今日、一人きりだということは、誰ともつながりがないこと意味するわけではない。電話やメールのような活動は、我々の精神が落ち着いて孤独を楽しむことを妨げるだけでなく、一人っきりでいる純粋さとありうる不安を経験することも妨げているのだ。
私がロンドンのあのレストランの敷居をまたぐのに苦闘していた時には、携帯電話などなかった。私はほんとうに一人っきりだった。しかし、他の誰かと話し合うことなしに何を食べるかを決められることの喜びを、私はまだ見出していなかった。他のものが何を頼むのか訊かず、シェアしたがっているのかどうかも考えずに料理を頼むことによる独立の感覚を、想像してもいなかった。そして、私の前の皿と私自身の思い以外にはなにも私の心にないならば、経験することのできる料理の味わいの深さを理解してもいなかった。このポルチーニはなんて素朴でそして味わい深いのだろう、そしてこのレモンタルトはなんて締まった味なのだろう!友達と会話をしながら食事をとりながら、一体何度、私は料理そのものを味わえないことを悲しく思ったことか。
真実は、一人の食事とは贅沢である、だ。椅子に、あるいはストールに座り、メニューを手にもった時、いまでは私は一人っきりでどんな食事と飲み物を楽しもうかと思い、そして何について考えるか、それともこれまで読めなかった何を読もうかと思いをめぐらし、そして思うのだ。どうしてもっと一人の食事をしないのか、と。