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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

主流派マクロ経済学の信仰喪失

経済学 景気対策

Worthwhile Canadian InitiativeのNick Roweがマクロ経済学の現状について述べていました。とくに驚くようなものはありませんが、あまり長くないので訳してみます。それから、現在のブログデザインだとリンクの有り無しが見分けにくいので、はっきりlinkと書いた部分につけることにしました。
(追記:一部間違っていました。後で修正しますが、今は下のhimaginaryさんのコメントを参照してください。himaginaryさん、ありがとうございます)
(追記2:himaginaryさんのコメントを受けた2箇所を修正しました。二つ目のものはともかく、一つ目のModern Monetary Theoristsについては全然知りませんでした。)


主流派の信仰喪失 Nick Rowe 2010年5月17日 (link)

マクロ経済学の認識において、第2次世界大戦以来の最大の静かなるシフトを我々は目撃しているのだと、私は思っている。この70年に渡り、我々は持続的な需要不足に苦しむ必要はもう二度とないのだと教えてきたし、またそう信じてきた。1930年代は遠い過去のものになったのだと、自分達自身に約束してきたのだ。需要をどうやって増加させるのかは分かっているし、そして必要ならばそうできるのだと。
主流派はこの約束にたいする信仰を失ってしまった。いまは非主流の者達だけがまだそれを信じている。そして非主流の者達は、その信仰以外にはなにも共通なものを持たないのだ。
主流派は希望を失ってはいない。彼らは金融と財政政策がこの不況から我々を助け出してくれるのに十分であると、そして金融と財政政策の限界にまでは今回も達する事はないだろうという希望を持っている。そして、彼らはおそらく正しいだろう。しかし彼らは、単独、あるいは財政政策を伴った金融政策はつねに十分なものであり、そしてその限界に達する事などはないのだという信仰を失ってしまった。
そして、ユーロゾーンもまた日本となるならば、彼らはその希望すら失いかねない。
二つのタイプのマクロ経済学者がいるようだ。
最初のタイプは、「総需要を増やせないってどういう意味?(訳者:紙幣をする)紙がなくなったのか?インク切れ?インフレが、怖いの?」と言う。
第二のタイプは、「しかし金融政策は金利0の下限では働かないんだ。それに、財政政策にも限界がある。国の債務を増やしすぎるわけにはいかないし」と言う。
Scott Sumner(link)と現代のマネタリストの理論家達 モダン(link)・マネタリー・セオリスト達link)(原文:Modern Monetary Theorists。下のコメント欄のhimaginaryさんのコメント参照してください)はマクロ経済学者の最初のタイプの例である。彼らはなにも共通のものを持たないのに、この点についてだけは共通している。しかしこの点こそが、彼らの間のどんな違いよりも重要である。そして、かれらは非主流派だ。
かつての主流派内の争い合う派閥であった伝統的ケインジアンマネタリスト達は、この最初のタイプの経済学者に属していた。彼らの違いはその戦術面にあったのだ。彼らは信仰を維持していたが、すでに消え去ってしまった。いまではイってしまっているマネタリスト達だけがそのかつての賛美歌を歌うだけだ。
新しい主流派をになっているのは、経済学者の第二のタイプだ。司教が、たとえどれだけリベラルであろうと神の非在を認めないように、信仰を失った事をはっきりみとめる主流派の経済学者はほとんどいない。しかし、もし金融政策が利子率0の下限では無力だと考えるなら、そして大規模な財政赤字の継続にも限界があると考えるのなら、つまりは同じ事だ。いつでも、そしてどこでも、必要なだけ長い間何らかの手段をとることにより、需要を増やす事ができるという信仰を、失ってしまっているのだ。
金融と財政政策への信仰を失って、主流派は金融セクターへの政策に目を向けた。「もし金融市場と制度についてより良い規制、そしてまたよりよい監督があったなら、そもそもこんな悲惨なことにはならなかったんだ」。これはおそらく正しい。しかし、これもまた信仰の喪失から目をそむけているだけだ。金融市場と制度は内在的に不安定なものなのだ。それは短期で借り入れ、長期で貸し出す。安全な資産だとして借り入れ、危険な投資へと貸し出す。流動性を借り入れ、非流動的なものに貸し出す。単純なものを借り入れ、複雑なものに貸し出す。金融はマジックなのだ(http://worthwhile.typepad.com/worthwhile_canadian_initi/2010/01/finance-as-magic.html:link)。だから、無理な話なんだよ。規制と監督は金融の不安定性を完全に消し去ることなど出来はしない。もしその信仰が金融危機の起きない事にかかっているのなら、それは信仰を失ったという事だ。
よい金融規制と監督は、それ自体として重要だ。よい金融システムは貸し手と借り手の利益によりよく沿うだろう。それはサプライサイドに恩恵をもたらす。そして金融危機はほぼ間違いなく、需要を低下させる。しかし、何かが需要を低下させるということが、金融と財政政策が働かないという事を意味するわけではないのだ。ケインジアン政策の要点は、なにかが需要を低下させた時には(もし...ならば、ではなく)、金融あるいは財政政策はそれを再びもとの水準へと増やす事ができるし、そうすべきである、という事なのだ。
金融システムが完全に崩壊したとしてみようか。それがなぜ金融・財政政策が需要を増加させることを阻まなければならないのか?主流派のマクロ経済モデルの最大の欠陥は、金融セクターを持たない事だ。だから、もし金融システムが消えたなら、それによってモデルはより良いものになることになる。
これこそが、経済と金融危機についてのカールトンでのコンファレンス(link)で、語られないままこの場を覆っていると私が感じたものだ。より詳細なトピックについてまた別のポストを書くかもしれない。

(以下は、主流派のマクロのモデルも金融セクターをもっているじゃないか、というコメントでの批判をうけてのNick Roweのコメント。)
その通り。これを書いたとき、わたしも奥歯にものが挟まったような感じではあったんだは少しばかり皮肉っていたんだ(himaginaryさんのコメントを受けて修正)。マクロのモデルが持っていないのは、「明示的な」金融セクターだ。暗黙の金融セクターは持っているという事はできる。それは完璧に働くので見えはしないというわけだ。さらにお金も存在していない。すくなくとも交換の為の手段として明示的には(モデルの仮定の中に暗黙裡には入っているが)。これもまた、お金は交換の為の手段として完璧に働くので、見えないのだという事ができようか。