P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

テッド・チャン・インタビュー 前編

ブログ「族長の初夏」さんがBoingBoingに載ったテッド・チャンのインタビューの一部を訳されてました。お、これはよい!と思い、残りの部分を訳することにしたんですが、そうするとまぁ...インタビュアーの方は全然知らないのですが、ニューエイジ(?)でも入っている人なんでしょうか?インタビュアーの説明には「園芸家」とありますが、果たしてどんなの植えてンだろうという感じです。ただそのおかげで、たんにSF関係者によるインタビューだったらちょっとないような、SF者って科学に関しては保守的なんですよ、という線引きに頑張るテッド・チャンのインタビューになってます。
なお、これは「族長の初夏」さんの訳の直前の段落までの翻訳です。続きは「族長の初夏」さんのブログにてお読みください。その後の未訳部分は後編として近日中に訳します。

テッド・チャン 執筆について  アヴィ・ソロモン 2010年7月22日

アヴィはフィラデルフィアに、その妻、若い息子、そして幼児の娘と共に住むテクニカルライター兼園芸家である。
アヴィ:自己紹介をしてくださいますか?
テッド:僕の名前はテッド・チャンです。サイエンスフィクションの短篇作家です。

サイエンスフィクション作家になるにいたった何かのきっかけのような経験はありますか?
多分、一番きっかけとなった経験は、12歳の時に読んだファウンデーション3部作でしょう。それが最初に読んだサイエンスフィクションだったわけではないんですが、でも僕に大きなインパクトを与えたものとして、記憶の中で飛びぬけています。アシモフを、そしてクラークを十二歳の時に読んだことによって、僕はサイエンスフィクション作家となる道へと決定的に進むことになりました。

プロになる事を実際に決めたのはいつですか?
それはプロになるの意味によります。15歳くらいから雑誌に作品を送り始めましたが、売れるようになったのは何年も後です。今もサイエンスフィクションで生計を立てているわけじゃないですから、その意味では僕はいまだにプロではありません。雑誌に載るって事がずっと僕のゴールでしたが、サイエンスフィクションで生活を立てることはそうじゃありませんでした。子供の時には、大きくなったら物理学者になって、そして副業でサイエンスフィクションを書くつもりでした。物理学者は実現しませんでしたけど、副業でサイエンスフィクションを書く方はしましたね。

テクニカルライターである事は、あなたの創作にどう影響していますか?
フィクション作家の昼間の仕事としては、テクニカルライターは薦められません。昼間中、文章を書いた後、家に帰ってからフィクションを書くのは大変なんですよ。最近では、僕はフリーランスライターとして働いています。だから僕は、一年のうちの一部は契約をした技術的な文章を書き、そして一年の残りを休みとしてフィクションを書いています。フィクションとテクニカルライティングを一緒に書くのは僕には難しすぎました。どっちも僕の脳みその同じ部分を占めるんですね。だから僕はそういう意味で、それがいい昼の仕事だとはいえませんが、しかしお金を稼ぐ手段ではあります。

あなたの執筆のプロセスの段階を説明してくれませんか?
大体において、なにか興味をもったアイデアがあると、僕はいつもそれについて長い間考えてみて、それがどう物語になるのかの推測なり、ただのアイデアなりを書き付けます。でも、それがどう終わるのかがはっきりするまでは物語そのものは書き出しません。物語で僕が最初に書き出すのは、大抵、その終わりの部分です。物語の最後の段落や、終わり近くの段落です。物語の進む方向を掴んでしまえば、物語の残りをそれに沿って、あるいはそこに行き着くように組み立てられます。大抵、僕が二番目に書くのは物語のはじめのところで、それから残りを殆どランダムに書いていきます。始まりと終わりがつながるまで、僕はシーンをただ書き続けていきます。鍵となるシーン、重要だと思うシーンを最初に書いて、そしてあちこちを埋めていくんです。

あなたの創作をどう分類しますか?私には哲学的フィクションの様に思えます。人に考えさせ、目を開かせ、そして様々なことについて思いをめぐらさせますから。
それはサイエンスフィクションがとりわけ優れていることの一つですね。僕がサイエンスフィクションを好きな理由の一つです。サイエンスフィクションは哲学的な疑問を訊ねるのとても向いているんです。現実というものの性質なり、人間であるとはどういうことかとか、我々が知っていると思っていることをどうやって知るのかとかいった疑問を。哲学者が何かの疑問を分析する手段として思考実験を行う時、その思考実験は時々、まるでサイエンスフィクションのようだったりします。この二つはとても相性がいいんだと思います。

あなたの作品では宗教がとても重要な役割をになっているようにも思います。
宗教はとても興味深い現象であると思ってます。それが多くの人にとても深く影響を与えている事は明白です。科学と宗教は共にこの宇宙を理解しようという試みである点で似ていますし、過去には科学と宗教は両立しないものとはみなされていませんでした。科学者でありかつ信心深い人間である事が完全に両立していた時があったんです。近年では、両者は両立しないという態度が一般的になっています。これは20世紀的な現象だと思います。

魔法と科学の間の違いについてとても独特の観点を持っておられますね。それについて説明していただけませんか?
ええ。サイエンスフィクションとファンタジーはとても近いジャンルですし、多くの人たちがたいした違いはないんだから二つの間には実際には意味ある区別は出来ないと言っています。しかし僕は魔法と科学の間には意味ある違いが存在していると思っています。たとえば、なにかの現象が一般的に行なわれえる事なのかどうかという点からみてみましょう。物語のなかで何か不可能な事、たとえば鉛を金に変える事を行うことにした時、その物語の世界の中でどれだけの人達がそれを行なう事ができるのかを問う事は意味あることだと思います。ほんの一部の人達だけができるのか、それともだれでも普通にできることなのか?もしほんの一部の特別な人達だけが鉛を金に変えられるのなら、それは巨大工場が鉛から金を生み出していて、釣りの錘や放射能のシールドとして使えるくらい金が安いといった物語におけるそれとは違う意味を持つでしょう。どちらのケースでも同じ基本となる現象があるわけですが、しかしこの二つの状況は宇宙についての違った見方を示しています。小数のキャラクター達だけが鉛を金に変えられる物語では、彼らには何か特別なものがあるのだということになります。その宇宙の法則は、特別の人達だけが持つなにかの特性を考慮に入れるわけです。それに対して、鉛を金に変えるのが工業プロセスである物語では、その何かが大量に、そして安く行なえるわけですから、宇宙の法則は誰しもに平等であるということを意味します。無人の工場の機械にすら同じように働くわけです。これらのうちの一つを私は魔法と呼び、そしてもう一つを科学と呼ぶわけです。そういった二つの状況を区別する別の見方は、その物語の宇宙が個人の存在を認識しているかどうかを問うてみることです。魔法とは、宇宙がある特定の人々を個人として、特別の性質をもった個人として認識しているということを表すものであり、そして鉛を金に換えるのが工業プロセスである物語は完全に非人格的な宇宙をあらわしているのだと思っています。そういった非人格的な宇宙は、科学による宇宙の見方でもあり、我々の宇宙がどのように働くのかについての今の我々の理解でもあります。魔法と科学の間の違いとは、あるレベルでは、あなたに対して特別な反応をしめす宇宙と、完全に非人格的な宇宙との間の違いです。

言葉というものを魔法と科学を結びつけるリンクとみなせるんじゃないかと思っています。ですから潜在的に、科学者は、言葉を使っているが故に魔法の世界に引き戻されてしまいえるのじゃないかと。もし科学者が言葉を使いすぎたり、その言葉の利用を「加速」してしまったなら、それによって何かの魔法的な経験を得るのではないかと。
科学者が魔法的な経験を得ると言ってられますが、それは外部の世界になにか影響をもつものの事ですか?

いいえ。自分の体へのなにか影響、身体的影響はあるかもしれませんが、外部の世界へはありません。
そうですか、なるほど。多分、主観的な魔法と客観的な魔法、あるいは精神的な魔法と実用的な魔法の間の区別をつけるたほうがいいんでしょうね。

それとも、白魔術と黒魔術の間の。
ですね。実用的な魔法では、目的は外部世界に影響を与える事です。僕が鉛を金に買えることを話していた時に意味していたのはそういう魔法です。精神的な魔法では、唯一の目的はその実践者の内部に影響を与える事です。あなたは実用的な魔法ではなくて、精神的な魔法について話しているようですね。

そうです。例を一つ出させてください。たとえば、フレッド・ホイルはここにいる我々の中にいかに星の中でで生み出された重い元素がたどり着いたかについてのメカニクスを考えつきました。そして、アポロ14の宇宙飛行士であるエドガー・ミッチェルの事があります。そのインタビューの一つで、彼は月から地球へ戻る途中で得たエクスタティックな経験について語っています。彼は、自分の体の中の物質が年老いた段階の星で作られたのだというその事実、その事についての非常に強い身体的な経験をしています。それは啓示的な経験といったもので、そして科学的知識の一端に基づいたものだったんです。
なるほど。僕は、彼の経験は宗教関係の人達が何千年も得てきたエクスタティックな経験と根本的に異なるものだとは思いませんね。彼らがそれを祈りによってか、瞑想にか、それとも何か他のタイプの鍛錬によって得るのであれ、彼らは神の顕現なり、あるいは何らかの啓示を得るわけです。どうもあなたは、科学者が経験しうる同じような経験について語っているようですね。

そうです。地球に戻ってきてから、彼は自分の得た経験について調査をし、そしてそれはヨガのサンスクリット文書でsavikalpa samadhiと呼ばれる何かと似ていたのです。しかし彼はそれに関して、その以前には知っていませんでした。そして彼の経験は物理の事実に基づいています。ですから私の疑問は、科学の知識が新しい経験につながりうるのか、それともそれは単に宗教的経験の異なる形態なのかということなんです。
僕は、ある人物がそういった経験をしたからといって、その人物が考えていた事が実際に真実である事が保障されるとは思いませんよ*1。我々が星の中心で生まれた元素から出来ているという事実、これは真実でしたし、その宇宙飛行士の経験に関係しているわけですが、しかし真実でない事を考えながら全く同じ体験をする事だって出来たわけです。たとえば、我々はみな、神の子供達だとかなんとか、どんな宗教的な主張でも考えてみてください。そういった主張の正しさは、エクスタティックな経験の為に必要な事だとは僕は思いませんよ。

つまり、そういった経験の真実性には何のインパクトも持たないと?
持つものだとは思えません。たとえば、私は最近、民族植物学者(ethnobotanist)のデニス・マッケナ(Dennis McKenna)がラジオで、彼が強力な幻覚剤を使った時の経験について話しているのを聞きました。光合成が実際に起こっているところを見る事ができたそうです。植物細胞の葉緑体で水の分子が実際に処理されていくのが見えたそうです。彼はさらに、人間もまたこの惑星の組織の一部だという、全体についての信じられないほどの感覚を感じたそうです。僕はこれが彼にとって非常に重大な経験であったのは確実だろうと思います。でも僕はそれを光合成が真実である証拠とすることはできません。彼自身、光合成がどう起こるのか既に知っていた事を認めていましたし、彼がそれを既に知っていたという事実がその幻覚に影響を与えたんだろうと思います。光合成について知らない人達は違った幻覚の経験をもつでしょうし、そういった経験の大半は科学的な真実を反映してはいないでしょう。人は両立し得ない経験をしていくでしょうし、その全てが真実ではありえないでしょう。だから僕は、そういった強力でエクスタティックな、あるいは幻覚の経験が真実を告げるものだとは考えません。それが世界についてのなんらかの正確な洞察を与えてくれるかもしれません。でもそうあるはず、ということはないだろうと思います。それが星々の中での重い元素の元素合成について考えている誰かに起こることもあるでしょうが、しかしそれは主を喜ばせる為に自身の皮をはぐことを考えている人に起こることもまたありえます。

あなたの「理解」という作品はこの事に関連していますね。それが書かれたのはペルーへ行ってアヤワスカ*2を飲むのが流行りだす前だと思いますが、でもそれは同じような経験についてのものですね。全部を結びつけて、物事をよりずっと鋭く見通すという。
ええ、だろうと思います。僕の友達の何人かが「理解」を読んで、僕が幻覚剤を飲んだ事があるに違いないと思った事を思い出します。でも、飲んだ事はないんですよね。僕は誰かが幻覚を見ているところを描写しようとしたんじゃなくて、啓示を得る経験を描写しようとしたんです。この宇宙の性質についての信じられないほど深遠な啓示を。そんな事が起こった人の大半は幻覚剤を使っている時にそうなったからなんだろうと思いますが、とにかく幻覚剤というのは僕が考えていた事ではないんですよ。

最近、リック・ストラウス(Rick Strassman)の"The Spirit Molecule"を読みました。サイケデリックドラッグのDMTとそれが人に及ぼす影響についてのものです。それで、私はそれが「理解」とつながっていると感じたんです。後から考えてみると、多くの事があなたの物語とつながっているように思います。
それは何かのアイデアについていっぱい考えた時に起こる事の一つだと思いますよ。そのアイデアに関係するものがどこからも見つかりだすんですよ、読んだものや、見たものから。

他の例を出したいと思います。私は「地獄とは神の不在なり」*3を自爆攻撃がもっとも盛んな頃のエルサレムに住んでいる時に読みました。ですから私が連想したのは、自爆テロリストとしての天使、でした。
それは興味深い連想ですね。そういう事はまったく考えた事がありませんでした。でも、類似点がある事はわかります*4

この物語が私にとって響いたのは、その頃、私達の多くが直面させられていた問題を取り上げていたからです。私達は、いつ死んでもおかしくない事をわかっていました。勿論それは常に真実ではあるわけですが、爆弾のせいでそれがさらに自明のものであったんです。
それはたしかに、いつどんな時にでも死んでしまうかもしれないという事実に気づかさせられますね。それによって多分、考えさせられる。心の平安には達しましたか?

そして、あなたがそれに達っする早さときたら!
それは宗教家の人達が述べることの一つですね。いつまで生きられるのかはわからない。すぐに死んでしまうのかも知れないのだから、いつでも心は平安にしておいたほうがいい、と。それは「地獄とは神の不在なり」の登場人物の何人かが述べる事です。それを、神が天使の訪問を命じた理由の一つだとして。人々に彼らには余り時間がない事を、あるいは残り時間がどれだけなのか知らない事を気づかせるためだ、と。

その物語のキャラクターの一人は、神がその人生をめちゃくちゃにしたのにも関わらず、心の平安を得ていますね。彼は、神の行動に基づかない道徳的な選択をします。
そうするのは難しいと思います。そうするキャラクターについて言われましたが、僕自身がそうできるとはとても言えません。世界で起こった全ての酷い事を受け容れて、その上で心の平安を保ち、そういったことの意味を見出そうとするのが、宗教の根本的な問題の一つだと思います。

あなたの作品「七十二文字」では、ユダヤのカバラ、コンピュータのプログラミング、そして生物情報科学(bio-informatics)との間の類似性が描かれています。それら全てがベースコードの操作に依存しているということから、それらの間にはなにかの類似性があるでしょうか?あなたの見解では、何が違っているのでしょうか?
まあ、サイエンスフィクションの作品の為に、それらの間での比喩的(metaphorical)なつながりを見出す事はできるでしょう。でも、実際にはそれらがそれぞれ、深い関わりを持っているとは思いません。コンピュータプログラミングは合理的な実践ですが、カバラは神秘的な実践です。そしてDNAはコンピュータコードとは違います。で、僕は誰にもそれらについて勘違いしてもらいたくはありません。比喩的なレベルでは、それらは全て、言葉と現実の間の関係についての考え方を与えてくれるものであり、これは僕にはとても面白いトピックだと思います。魔法の古くからのアイデアでこういうものがあります。言葉(symbol)がそれの表しているものと密接な関係にあるので、その言葉を操作する事で、現実自体を操作する事ができるような言語がある、というものです。先に話した区別に基づけば、これは実用的な魔法の一形態でしょう。そして、これは確かにコンピュータプログラミングと似ているところがあります。プログラミングではコードはコンピュータによって行動に変換されますから。そしてまた、それはDNAに似てもいます。DNAでは、コードは生体の肉体に変換されます。ですから、そういった三つそれぞれの間でのつながりを想像するのは楽しい事だと思います。フィクションについて話している間は、ですね。僕はこの事を誰にもほんとに文字通りになどとってもらいたくありません。

*1:原文: "I don't think that there's anything that requires that what the person was thinking about actually be true, for that person to have this experience."

*2:アマゾン川流域に自生する植物で、これに他の植物も加えて向精神性の飲料がつくられる。[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=32619069:title=wikipedia参照]。

*3:短篇集「あなたの人生の物語」収録。

*4:「地獄とは神の不在なり」の世界では天使は唐突に降臨するのだが、その為に無垢の人が害を蒙ったり、極悪人が天国へと連れて行かれたりなど、日常的な善悪の感覚では納得しがたい事が頻発する。