読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

マクロ経済学の狂気 ポール・クルーグマン

ひさ〜しぶりになってしまいましたが、クルーグマンの翻訳です(実際は最近もいくつか翻訳してるんですが、道草にだけ載せてましたので。)内容は、そのタイトルがはっきりと示しているように、ここ数年続いているクルーグマンマクロ経済学批判です。最初にでてくるローレンス・マイヤーさんはワシントン大学の学部長や連邦準備制度の理事を勤めていた経済学者です。
追記:ayakkaさんからのツイッターでのコメントを受けて、マイヤーの名前の不統一を正しました。ありがとうございました!


マクロ経済学の狂気 ポール・クルーグマン 2010年10月9日イグレジアス経由。ローレンス・マイヤーがインタビューにおいて次のように述べている。

だから私はモデリングについて二つの伝統があると考えている。一つ目はより古い(classic)伝統だ。私はMITで教育された。ノーベル賞受賞者で、連邦準備制度理事会が当時使っていた大規模モデルのプロジェクトの責任者であったフランコ・モジリアーニのリサーチアシスタントをしていた。これは現代のマクロ・エコノメトリックモデルビルディングの最初のものだった。私が使い、理事会の連中も使うタイプのモデルがこれだ。
別の伝統は70年代後半から80年代初めに出来上がっていった。リアルビジネスサイクル、あるいは新古典派モデルだ。大学院で教えられているのはこれだ。学術誌に掲載されるのもこの手の論文だけ。これは「モダンマクロ経済学」と呼ばれている。
問題は、これは何の役に立つのか?ということだ。確かに学術誌に論文を載せるのには役に立つ。非常に洗練されたコンピュータスキルを使うのにも良い。しかし問題はだ、そのモデルは現実とどんなかかわりがあるのか、だ。モデルはいつでもカリカチュアではある。しかしこれはカリカチュアとしてもあまりにバカバカしすぎて、政策決定者なら誰も近づかないようなものではないのか?
私の見解は、アカデミックコミュニティでは常軌を逸していると思われるようなものだろう。しかし私は強くそう思っている。そういったモデルは寄り道にすぎなかった。それは金融政策や財政政策の決定者にとって意味のあるどんな事をも理解する助けとはなってこなかった。よって古いマクロ・エコノメトリックモデルに回帰して、基礎としてそこから始めたほうがよい。革命を必要とはしていない。そういったモデルの中に組み込まれている最適化行動と消費者・ビジネスの基本となる物語は理解している。我々は生みの親達のもとへと立ち戻り、彼らがどれほど賢明だったかを理解して、そしてそこから組み立てていくべきなんだ。

これを読んでの私の最初の反応は、マイヤーは大げさに述べているというものだった。そして彼は確かにそうしている、少しばかり。ニューケインジアンのモデルを学術誌に載せることは可能だったし、そういったモデルは、私が思うには、いくらかの有益なガイダンスを与えている。よりアドホックなアプローチに対する整合性のチェックくらいだとしてもだ。
しかしより深いところでは、マイヤーは正しい。そしてこれは長い間にわたって続いてきた。1980年代初めまでに、私が付き合いのあった人々の間ではすでに、狂っていないマクロ経済学が掲載される唯一の方法は産出と雇用に関するまともな仮定を何か他のもの、合理的期待と異時点間なになにに包んで論文が立派に見えるようにすることだというのが共通知識になっていた。そして、その通り、この事ははっきりと意識されており(conscious knowledge)、我々がどんな論文を書くのかを規定していた。だから、価格と雇用についての現実的な仮定を持った為替レートのモデルを書くことはできたが、誰も実際には気がつかないように焦点は通貨市場での合理的期待に合わされていた。あるいは、かなりケインジアンフレームワークを基にした合理的投資の選択のモデルを書く事も出来たが、それは背後に隠されていた。そういう調子だったのだ。
私自身のケースだと、私の研究でマクロ経済学と関わるのはいつもその国際経済の面でだった。そして国際マクロは他の分野と比べて、マイヤーの「生みの親達」とより深く結び付けられていた。たとえば、我々は財政政策のモデリングと教育を止めた事はなかった。よって、暗黒時代に完全に落ち込む事もなかった。しかしその理由は、私が考えるに、為替レートと国際収支の問題のモデル化に必要な技術的なあれこれの為、モーリー・オブストフェルトやケン・ロゴフが彼らのケインジアンとしての基礎をあまり注意を引く事なく忍び込ませる事ができる余地があったからだろう。
よって、その通り:マクロにおいて何かがひどく間違ってしまった。そして、この危機が人々にさらにその立場に深く深く潜らせていると述べるのは、残念な事である。