P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

我はアシモフ:51.ようやく新しい仕事

もう一年半以上経ってますが、アシモフの自伝、というか回想録である"I.Asimov"からの翻訳です。今回は博士号を取得して大学院を卒業した後、職探しに苦労したけどようやく就職できたよ!という話です。アシモフせんせも若い内は結構苦労してます。
ちなみにこの回想録、アマゾンだと598円です(2011年8月15日)。もしこの本が商業翻訳されて出版されても値段が600円なんて絶対ないでしょう。以前は洋書はペーパーバックでも高いなぁという印象でしたが、いまだと日本の文庫本の方が高くなってしまってますね。
もしなにか誤訳やタイポがあれば、コメント欄にお願いします。
追記:ちなみに一応書いておきますが、この"I.Asimov"は80年代に出たアシモフ自伝I・IIとは別のもので、アシモフが亡くなる少し前に人生を回顧しつつ書かれたものです。自伝としてみるとアシモフ自伝ほど人生の中の物事を詳細に書かれているわけではないと思いますが*1、その代わり人生の各局面でアシモフがどう感じていたかについてはずっと詳しく書かれていると思います。
 
51.ようやく新しい仕事
どんな作家も、ほん数作しか書いたことのない者でも、読者からの手紙をときおり受け取ったことがあると思う。
サイエンスフィクション作家はそんな手紙の爆撃をとりわけ受けるのではないかと考えている。ひとつに、サイエンスフィクションの読者はほかの分野の読者より饒舌で、自分の意見というものを持っていると思うからだ。また他にも、サイエンスフィクション雑誌の読者欄がそういった手紙を書くことを励ましてもいたから。
私はファンレターを愛していたし、その全部に返信しようとした。そしてもう長い間、そうし続けた。が、手紙の数が増え、私の仕事の数も増えていくと、選択的にならざるを得ない時がやって来た。この事を私が残念に思わなくなったことはない。私にわざわざ手紙を書いてくれた人は誰でも返信をもらうに値すると感じるのだが、しかし時間と体力には限界があるのだ、残念ながら。
すべての手紙が熱狂的な若者からというわけではない。手紙の一部は立派な社会人からのものであった。そして、私の博士課程とポスドクの間に、私はボストン大学医学校(School of Medicine)の免疫化学の教授、ウィリアム・C・ボイドから何通もの手紙を受け取った。彼は私の「夜きたる」にとても感銘を受けて、それ以来私のファンとなっていた。
私は、彼にとても感銘を受けていた。私達の間のやり取りは盛んであって、ときおりニューヨークに来る際には、彼は私と会う機会を設けてくれていた。
当然ながら、この友情のやり取りの中で、私は彼に私の就職の問題を話し、彼はボストンの自分の大学のバイオ化学学部に空きポストがあるので、私をその職に推薦しようと書いてきてくれた。
私はニューヨークをまたも離れるのはどうにも嫌だったが、しかし私はそれ以上に仕事を必要としていた。街の外にまで仕事を探してはいたし、同じ求職中の同期の学生と共に、植物科学に関するポジションを求めてボルチモアまで行ったこともあった。私の同期がその仕事を得た(彼は植物学について少しは知っていた)が、私は(植物学については何も知らなかった)はだめだった。
私はこの新しい機会について調べてみなければと感じ、そして、心はふさぎこんでいたが、ボストンへ向かう列車に乗り込んで、バイオ科学学部の学部長であるバーンハム・S・ウォーカー*2のオフィスへと歩いていった。私はボストン大学医学校に感銘を受けたりはしなかった。小さくて、ボロそうだった。スラム街の中に位置してもいたのだ。
しかし、ウォーカーは愛想がよさそうで、オファーは教員のメンバーとなる講師職(instructorship)だった。サラリーは年に5500ドルだった。
しかしながら、私に懸念を抱かせたのは私が直接に報告するのは大学ではなかったことだ。私は、ヘンリー・M・レモンという、完全にユーモアというものを欠いた人物に報告することになっており、彼に紹介されて私は即座に落ち着かない気分になった。さらに、私はグラント*3から給料を支払われることになるので、これは契約が一年ごとということを意味していた。
私は悲嘆にくれながら家に帰っていった。陸軍への召集令状を受け取った時ぐらいに不幸だった。しかし、そんなものに何の意味がある?仕事が必要だったし、ほかにオファーされたものは何もなかったのだ。なので私はBUSM(ボストン大学医学校)でのポストを受けることにした。
そして、そのポジションを受けた後、ほんの数週間してから、私の最初の長編がダブルデイに売れた。とたんに、私はこれをニューヨークに残る言い訳として使いたいという欲求にさらされた。その長編が売れたことでいくらかの収入が期待でき、ニューヨークエリアでの仕事探しの期間を延ばすことができるようになったのだ。実のところ、その長編が多く売れれば、仕事自体が必要ではなかった。
それは誘惑だった。本を売ることができたので、あるいは時には雑誌に短編を売っただけで、仕事を止めて執筆専業になる若い作家達のことをよく耳にしてきた。そして通常、その話は彼らが次の作品を売ることができずに、元の仕事に戻るかそれとも別の何かを探さなければならなくなったと続くのだ。
もちろん、私は他の作品を売ることができることを確信していたが、しかし私と妻の生活を支えられるほどは稼げないことは分かっていた。この長編が私になにか特別なことをしてくれるとも思えなかった。それから私が得たものは、総額で750ドルのアドバンスだけで、もしそれが売れなければ一セントたりともさらに貰うことはないのだ。(もしそれをASFに売っていたなら、1400ドルを得ていたのだったが。)
その上さらに、私はボストンでの仕事をすでに受けていたのだ。もしいまさら行かないことを決意したら、それはある意味、約束を破ることになる。そんなことをするのは、私には恐ろしいことであった。なので、私の望みに反して、わたしは五月の終わりにボストンへと向かった。悲嘆にくれながら。そして同様に不幸せなガートルードを連れながら。我々は結婚しておよそ7年になっていたが、彼女が身に着けるダイアモンドはいまだ影も形も見えなかった。
さてここで、楽しいが無意味なゲーム「もし…だったら?」をすることができるだろう。
もし私がボストンでの仕事をオファーされていなかったら?もし、何週か前に、私がボストンへ行くと決めるに私があの本を売ることができていたら?どっちのケースでも、私はニューヨークに残って、750ドルと本一冊の威光が実家に近い仕事を見つけさせてくれることに賭けていただろう。
それで何が起こったかを断言できる者がいるだろうか?しかし、私としては、物事を建設的にそして楽観的に見ておきたいと思う。結局のところ、わたしはBUSMで9年間、ちゃんと仕事を果たした。その9年の間、私は講義をし、レクチャーをして、行かなければやらなかったような事ごとに文字通り手を出した。そしてさらに私は、サイエンスライターとしての私を信頼付けてくれる職業上の証も手に入れたのだ。
引越しは辛いものであったが、それでも、そのことは私の地平線を広げてくれたし、行かなかった場合よりも、より良くそしてずっと成功した作家に私をしてくれたと確信している。だから、ボストンに行ったことは重要なことであったのだ。
そしてその上、その事は、私が自分の約束を守った事を意味していた。

*1:そもそも、アシモフ自伝の凶器に使えそうな分厚さと比べると、こっちはペーパーバック一冊分ですし。

*2:アシモフは後に、このウォーカーと、そしてそもそもこの職を紹介してくれたボイドと共に生化学についての[http://www.sciencemag.org/content/116/3022/604.1.extract:title=本]を書くことになる。

*3:研究のための政府や企業からの資金。