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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

朝井リョウ 「武道館」

武道館

武道館

今年の頭あたり*1にドルヲタ界隈でちょっと話題になり、春に買ってしばらく放置してた本です。ようやく読んでみたらどうにも違和感を感じたので、既に感想を書く旬は過ぎてしまっているとは思うのですが、前のエントリーが60年前の中編の感想だったりもするしまあいいだろうと、その違和感について書いてみます。

 
これは、恋愛禁止とアイドルの関係を主軸とした作品です。「恋愛禁止」を敵役にして悲劇を描いた上でのハッピーエンドの作品。つまり「禁断の愛」という、フィクションにおける昔ながらの定番ではあるが今更リアリティを持って描くのは難しい舞台装置を疑似的に発生させる仕掛けが「アイドルの恋愛禁止」となっているわけです*2

話の流れは、主人公の女の子とその幼馴染の男の子がいて、女の子があるアイドルグループに入り、アイドルあるあるを色々経験しつつ*3頑張っていくというもの。主人公の女の子が『アイドルは「恋愛禁止」である』に対して疑問を持つことがないまま、いかにもな感じで幼馴染との恋愛へと進んでいく。作品中、盛り上がり(対立)は一カ所だけで、そこを乗り越えてハッピーエンドに至るります。ですがこのハッピーエンドが軽いので、著者自身あまりリアリティを感じていないのではないでしょうか。

この作品はつまり、「歌って踊るのが好きな女の子」が、歌や踊りのパフォーマンスが評価されない上に抑圧的なファンからの迫害を受けるアイドルの世界に入ってしまい、恋愛感情という人間としての自然な感情を否定されて悲劇を迎えるが最後に正義は勝つ!という誰かの為の願望充足小説なわけですが、AKBヲタとして読んでみてると「恋愛禁止」をアイドルにとっての強固な制約であるとみなして真面目に批判している事に違和感を感じます、というかバカっぽくすら感じられますし、アイドルを一方的に被害者・犠牲者としてだけ見ているのが気持ちが悪く思えてきます。ファンを(色々な意味で)「喰って」成り上がっていく存在としてアイドルを主体とみなす視点が全くないわけです。アイドルはまるでファンという暴風に懸命に耐える野に咲く一輪の花のように捉えられていて、終盤ではファン達を前にしながらあるアイドルが、いつか時代が変わるからと他のアイドル達へ励ましの演説をしてくれる始末です。

この小説の何が気になるのか、あるいは何が気に入らないのかというと、著者が「ファン」をみていない、という事です。であるが故にファンに真剣に向かい合うタイプのアイドルの事も全く見えていない。はっきりと言葉にされるわけではないですが、パフォーマンスが!云々のパフォーマンス厨的な「理想」から、現在の接触系アイドルを否定する事によって、歌・ダンス等の「パフォーマンス」によってではなく、よりダイレクトな関係を構築する事でファンを獲得してのし上がっていくアイドルを考慮していないわけです。

私が買ったのは紙版であってKindle版のような検索が出来ないので断言はしづらいですが、作中、著者は「アンチ」という言葉、あるいはそれに類する言葉を使っていなかったと思います。つまり、ファンは「ファン」としてだけ存在している。

「アイドル」を応援してくれる人って、多分、どっちもあるんだろうね」
応援しているアイドルの人気が上がればファンは喜ぶ。けれど、そのアイドルがブログにアップした写真に写り込んでいるサンダルがとても高いものだとわかると、てのひらを返して批判をする――【応援はしているけれど、自分たちよりもいい生活をすることは許さない】という視線。 (166ページ)

こういう「ファン」の二面性のようなものを指摘する文章がこの本にはいくつもあります。「不幸を見たいっていう視線が増える気はする(167ページ)」とまで書かれている。しかしドルヲタなら、あるいはネットの世界に浸っている人間なら、相反する意見・欲望は単に異なる人達の意見・欲望が匿名のまま連なられているだけだと知っているはず。あるアイドルを応援しているファンとそのアイドルを何らかの理由で批判したがっているアンチは共存している別人です。

こちらから見りゃサイテーな人 だがあんなんでも誰かの大切な人  
                   (POP LIFE by Rhymester)

勿論、アイドル絡みでのアンチは恐らくどこかのアイドルのファンであり、そういう意味で「ファン」なのは間違いないでしょう。しかしそれはどこのアイドルのファンでしょう?高いサンダルの写真を撮ったアイドルのファンではないでしょう。アイドルは多く、ファンもまた多い。違うグループは勿論、同じグループ内のアイドルですら、ファンが被るとは限りません。あるグループのとあるアイドルのファンが同じグループの別のアイドルのアンチであるかもしれないわけです。ファンはアイドルの不幸を見たがっているとまで書かれているのに、アンチという言葉、あるいはそれを意味するファンとは違う言葉は出てきません*4。この事は結構、大きな意味を持っていると思います。この作品中では3人のファンがファンの例として出てきますが、そのうちの2人は物語の進行を助ける(あるいは著者の代弁者となる)解説役を務めますし、もう一人は作中アイドルグループの接触イベントにくる気持ち悪いファンの例として使われているだけです。つまり大きく「ファン」とされる集団内部の多様性やらダイナミズムが作品内で表される事はありません。ちなみにAKB48秋元康はこのアンチをテーマにそのものずばり「アンチ」という歌詞を作詞しています。

アンチのおかげで(今は)
自分を知った(感謝)
見えない背中を(そっと)
手鏡で見るように...
アンチのおかげで(今は)
驕ることなく(気づく)
耳傾けて(ちゃんと)
明日のために生かしたい
Ah- 私にとって怖く優しい
(アンチ by AKB48)

この歌詞はアンチを取り込もうとしてかあまりにも建て前を並べて過ぎていて私自身は好きではありませんが、重要なのは「アイドルファン」という大きな集団の中の「アンチ」というアイドルを傷つける存在が認知されている事です*5。勿論、商売上ファンを理解する必要があるアイドル運営と、アイドルファンではなくアイドルの苦悩を作品テーマにしている著者は違うわけで、別に作中にファン集団の構造について著者が説明する必要はないわけです。しかし著者がアンチを知らないわけはなく、長編である作中でアンチについて紙面的に触れる余裕がないという事もあり得ないでしょう。ならば意図的にそうしているはずですが、それによって作中の「アイドルの苦悩」が私にはなんだかなぁと思えたりするわけです。

作中、「不幸を見たがる」ファンとは対照的な存在と主人公に見なされるのが、主人公の幼馴染の出る剣道大会の観客たちです*6。その場にいる人達全員が、競技者の幸せを願っていると主人公の女の子がのたまうわけです。勿論、対戦である以上、誰かの幸せ(勝利)は別の誰かの不幸(敗北)である事を主人公は理解していますが、人々はまずは勝利を先に考えている、誰かの敗北を第一とはしていないと考えます。後に主人公は誰かの不幸を願っていた人間が実はその場にいた事を思い知るのですがその事は置いておいて、一般論としてこれは事実だろうとは思います。ではなぜ誰かの不幸を願っているアンチがドルヲタの世界にはいるのか?それは非常に単純で、アイドルが人気商売であり、何らかのパフォーマンスのクオリティによって客観的に勝ち負けがつく世界ではないからですよ。あるファンはその存在によってあるアイドルの「勝ち点」であり、勝ち点の多いアイドルが勝者とみなされるわけですが、この「勝ち点」自身がそのアイドルの為に自覚的に行動をとるし、それが他のファンへの影響力を持ちます。剣道の大会の観客たちは勝敗の結果について基本影響を持たないわけですが*7、アイドルの世界ではファンが積極的に自分の推しを持ち上げたり(ファン活動)、推しではないアイドルの評価を下げたり(アンチ活動)してアイドルの勝ち点に影響を及ぼせるわけです。あるいはちょっと考えてもらいたいのですが、剣道の試合においてもし自分が応援している選手の対戦相手の不幸を願う事によってその相手のパフォーマンスに直接的な影響を与えられるなら、観客は自分の応援している選手への愛のために対戦相手の不幸を願わないでしょうか?願うでしょう、不幸を。愛のために。実際スポーツにおいても、バスケの試合でファンによる相手チームのフリースローを妨害する為のファンによるアンチ活動とかがあります。不幸を願うものがいないほど素晴らしい世界に我々は生きちゃいません。


北斗の拳 本家声優版 ケンシロウVSサウザー Ⅱ - YouTube


誰もが勝てるわけではない世界におけるファンは皆が誰かの潜在的なアンチとなりえます。ドルヲタアンチはそれがはっきりと現れた例に過ぎません。作中、主人公は二人の人間から個人的な悪意にさらされます。そのどちらもが主人公の行動が招いた敵意であり、それらに主人公は同時に晒されます。この二人からの敵意が明かされるシーンが、この小説唯一の盛り上がるシーンでした。このシーンで思い出したのが、AKBドキュメンタリー3作目でのAKBメンバーへのインタビューです。


特報#6/DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER ...

色々なメンバーがインタビューを受け、様々な事を語っているわけですが、その中で「恋愛禁止」の苦しさについてたかみな・峯岸と、篠田・珠理奈の間での対立があります。このインタビューは指原が博多へと移籍した後のもの*8ですが、その中でたかみなと峯岸は恋愛禁止の苦しさについて語ります。篠田と珠理奈は恋愛禁止は当然という立場で話をするのですが、しかし実のところ篠田は「恋愛禁止」と自身に思い込ませる必要を説いている内容で、言外に恋愛禁止の苦しさを認めているわけです。篠田もたかみな・峯岸と同じ方向へ引き寄せられているわけです。ですが珠理奈だけが若さゆえにか、「恋愛禁止」をなんの疑問もなく受け入れているコメントをします。小説の中の唯一盛り上がる対立のシーンは、現実のAKBにおけるこのメンバー間の差異を拡大したものになっています。そして物語は唐突なハッピーエンドへと向かうわけですが、現実のAKBもまた「恋愛禁止」を否定する方向に向かって行っています。2013年のライムスター・宇多丸さんとの対談で秋元康本人がAKBの恋愛禁止を否定していますし、その後もAKBでは「読モのセフレ」スキャンダルや、「ヤリチンジャニとのお泊り旅行」スキャンダルが出ていますが、それで何かのペナルティがそれらのスキャンダルを起こしたメンバーに課せられたという事は、少なくとも表立ってはありません。ヲタからの反応としてはある程度の人気低下が一次的には読モのセフレだったメンバーに対してあったようではありますが、ファンに手を出して博多に流された*9メンバーが移籍の翌年には総選挙一位になっているわけで、メンバーの人気にとってスキャンダルが致命的なものに必ずなるわけではない事が示されています。だって、禁じられれば燃え上がるのが自然な感情じゃないですか。

「このサークル内では恋愛禁止」なんて
上段みたいなルールで余計に燃え上がってしまう
...
どこかで誰か恋してる
いけないとわかっても
もしあきらめられるなら
本当の恋じゃない
恋愛禁止条例は
ロマンスの導火線
隠さなきゃいけないから
情熱が溜まるだけ
火気厳禁
(恋愛禁止条例 by AKB48)

結局、「恋愛禁止」とは、アイドルの魅力の一部が疑似的な恋愛感情であり、ファンのその感情を傷つけてしまう事によりアイドルの商品価値が損なわれて商売にならなくなる事を防ぐ為のアイドル運営による防衛的なものなわけですから、AKBは既にそういう防衛策が必要な時期を超えた、あるいは越えつつある*10のならば、当然スキャンダルメンバーにペナルティなど出さないでしょう。必要がないんだから。そしてこれは、著者が作中において積極的に見ようとしなかったヲタとの関係を構築していくメンバー達の努力によって*11なされていっているわけです。現状、まだまだ女性アイドルの恋愛は「スキャンダル」とみなされている状況*12ですが、この本のラストのような状況にもしなる事があるとするならば、それは皮肉にもハロヲタである著者が作中で間接的にディスっているAKBメンバーのこれからにかかっているのではないか、私はそう思っています。

*1:だったと思う。

*2:そしてそこからハッピーエンドへと持っていくために、何とこの小説のラストはSFになっているのです。勿論、たまたまSFになっただけなので、SF的にどうこうという作品ではないですが、予想外だったからちょっと驚かされました。

*3:一番メインのメンバーが女優になる為に抜ける、スキャンダル、ドルヲタからの非難、グループ人数 6人→5人 ももクロ

*4:あるいは頻発はしない。

*5:アンチにもドルヲタと非ドルヲタがいるはずで、実際、作中でもアニヲタが非ドルヲタアンチとして出てきますから、正確にはアンチがアイドルファンの中の存在とは言い切れませんが。

*6:ちなみにこの剣道の大会が行われる場所は最後のハッピーエンドの場所とある関係を持ちます。まあアイドルファンが到達すべき先を暗示する意図があるのかもしれません。

*7:積極的な応援による選手へのポジティブな影響はあるかもしれませんが。

*8:インタビューがいつ撮られたのかについての情報はありませんが、映画は指原移籍後を扱っていますから、インタビューも移籍後と考えるのが妥当でしょう。

*9:という態になってますが、これにより指原は指原王国となる領地を与えられたわけで、HKTへ教育・指導のメンバーを送り込む必要があった時期とタイミングが合っていたのでスキャンダルがネタとして利用されたという面があったのかもしれません。

*10:のかも知れない。

*11:2015年のAKB総選挙前の握手会では指原莉乃はやってきた自分のヲタ達に「無理をしてください」と伝えていたそうです。

*12:この文春砲とか呼ばれている週刊文春記者の文章を読んで驚きましたが、この記者はアイドルの恋愛を「悪い事である」かのように捉えているらしいのです。俺は今まで、スキャンダルを追う人達は善悪の判断をしているのではなく、商売になるかどうかの判断をしているのだと思っていましたから、ビックリしました。