P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

「トリフィド時代」、ゾンビ物として 

ふつう彼らはほかのグループと合流したがらず、かならずやって来るアメリカ人の到来を待つあいだ、手に入れられるものを手に入れ、避難所をできるだけ快適にしようとする傾向があった。

カーゴ・カルトか!人類社会の終わりを迎えた英国田園地帯にまだ生き延びている英国人達がこのように描写される時代(1951年)に出版された、まさに古典。
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非常に有名な作品なのである程度ネタバレしますが、全人類のほとんどが失明した朝から物語が始まり、タイトルにある歩く食肉植物トリフィドが環境を支配していく中での人類の物語です。これまで全訳を読んだ事はないはずですが、ジュブナイル版を読んだのか、映画の方を観たのか*1、こういう筋であることは知ってました。ですが今回読んでみたら、面白かったです。今のエンタメとは違って文章がエンディングへ向かって一直線に進んでいく感じではなくて、あっちに行っては少し散策、こっちに行ってはまたちょっと考察、という感じでなにかジグザグに進んでいく感じですが、それもまた面白い。という事でおすすめです。以下、読んでて思った事を適当に書いていきます。

1951年の物語なわけですが、現在(2018年)において読んでいると、後の作品、特にゾンビものを思い出します。解説で触れられている「28日後」は英国が舞台なので名前が出てくるのも当然なのですが*2、私としてはそちらよりもロメロのゾンビシリーズの2作目である「ゾンビ」を思い出しました。オールディス言うところの「心地よい破滅」、物を残して者がいなくなった世界の物語。ロメロの「ゾンビ」のショッピングモールはそのカリカチュアとして印象が強いですから。

第二次世界大戦後の「世界の終わり」のより現実的なパターンである核戦争物では人と共に物がなくなってしまい、生き残った者たちは欠乏に追い込まれることで人間性の極限を見せる事になるわけですが、物を残して人間が消えるタイプの世界の終わりの物語では生き残った者達には(少なくとも)当面の生存に問題がなく、というか以前よりも物についてはより恵まれたりするわけで、物語の中で生物としての人間のサバイバルの面が薄くなり、それよりも人間的な感情の問題であったり、人間社会のサバイバルの問題の方が濃くなります。その中でエンタメ作品としての緊張感を担保するのがゾンビであったりトリフィドであったり、そして人間同士の争いであったり。実際的にはそういった怪物のアウトブレイク後、それらが当然の存在になってしまうと主人公たちにとってゾンビもトリフィドも環境になってしまい、闘いのメインは対人間にどうしてもなっていってしまうわけですが。

そういう事も含めて、「トリフィド時代」は後のゾンビアポカリプスの雛形がそこにはっきりと現れていて面白いです。ゾンビアポカリプスの原型としてはマシスンの「地球最後の男」(最新の版でのタイトルは原題にそった「アイ・アム・レジェンド」)

アイ・アム・レジェンド (ハヤカワ文庫NV)

アイ・アム・レジェンド (ハヤカワ文庫NV)

が有名ですが、じつのところ「地球最後の男」には現代ゾンビアポカリプス物の重要な要素である人間同士の対立がありません。しかし「地球最後の男」以前の作品である「トリフィド時代」にはしっかりそれが入っているわけです。ただ、一般のゾンビアポカリプス物では人間、ゾンビという2層構造なのに、「トリフィド時代」では3層構造になっており、「アイ・アム・レジェンド」でもそうなっているのは面白いところ*3

最後にこの作品、人類全体の失明にトリフィドと、SF的嘘が2つも使われるのはSFリアリティ的にキツイなと読む前に思っていたのですが、実はあまり注目は浴びないものの更に謎の疫病というものまであって、それが人類滅亡の後押しをしていたのですね。しかしマイナーなものまで含めて3つの大きな嘘を(当時の)現代社会に導入するというのは更に厳しいなとなるところですが、その3つの根本に冷戦が置かれているのは、ある種の集約を図り、リアリティを担保しようという計算だったのでしょうか。あんまりうまく行っているとは思えませんが。

*1:観たことがあるはずなのですが、はっきりとした記憶がありません。

*2:ロンドンの病院から始まり田舎へ逃げていくという主人公の動きも一致していますし。

*3:もちろんゾンビ物でも「ウォーム・ボディーズ」のように3層構造のものはありますが。

「スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか」

スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか

スター・ウォーズはいかにして宇宙を征服したのか

ナバホ族のファンの熱意で初めてナバホ語に吹き替えられたスターウォーズEP.4を、これまでスターウォーズを観たことがなかったナバホの老人が観るエピソードから始まる1000ページ弱の、スター・ウォーズ誕生前からEP7公開前までのスターウォーズを巡る物語。スターウォーズは既に現代社会の一般教養だが、この本はどうやってこの古いスペオペのお話がそこまで来たのかについての物語です。それがジョージ・ルーカスの個人史や、スターウォーズ制作のエピソード、ファンのリアクションなどを交互に交える事で語られていく。個人的にスターウォーズには全くハマっていないので、SWヲタにとってこの本の中のエピソードが周知のものなのか、目新しいものなのか全く分かりませんが、ルーカスについてのエピソードは私にはとても新鮮で驚きでした。いや、私が無知すぎたというだけなんだろうけど…ルーカスって実はできる奴だったんだ!知らんかった!

まあ、流石にルーカスの「アメリカン・グラフィティ」や「THX 1138」*1南カリフォルニア大学云々の事は知っていたのだから、ルーカスの凄さを予想する事は出来たはずではないかと今となると思うのだが、この本を読むまでそんな事には全く思い至りませんでした。なぜなら子供の頃から、スターウォーズはカッコ悪いなと思っていたから。例えばEP.4~6などは何度か観ていて美術は素晴らしいと思うのだけれど、アクションについては、何このテンポの悪さ、カッコ悪さ?、といつも疑問だった。この旧三部作制作・公開期間中にはガンダムの劇場版三部作も公開されているわけで、クラシカルなSF美術の面以外では断然ガンダムの方が良いし、面白い。そしてEP.1~3が更にそれに輪をかけました。金はかかってて美術は素晴らしいのに、なにこの鈍重なアクションは?、と。

という事で私の中ではルーカスは、子供の頃の思い出に(当時の)最新のSFXを組み込むことで一山当てた人、くらいの認識だったわけです。既に書いたが冷静に考えれば流石にそれは違うだろうとなりそうなものではあったのだけど、ルーカスの監督したスターウォーズ作がつまらなかったのだもの。じゃあなぜそんなツマラナイ作品を一応全作観ているのかというと、それは私がSFファンで、映画好きで、そして何よりもうすでにスターウォーズが一般教養であったから、特にEP.1~3についてはお勉強として観ておかなければという事があったわけです*2。これまでそういう思い込みにより過小評価をしておりましたこと、ジョージ・ルーカスさんに謝罪し、お詫びに今度、ハン・ロソを観てきましょうか。

*1:どっちも未鑑賞。

*2:ここまですっとスターウォーズを貶してきてますが、実はEP.7、8、そしてスピンオフのローグ・ワンは面白かったです。

「英語教師 夏目漱石」

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坊っちゃん」「吾輩は猫である」等々、無教養なでもタイトルは一般常識として知っているレベルの作品*1を生み出した夏目漱石。その夏目漱石が英語教師をしていた事、イギリスへ留学していた(そしてどうやら英語が嫌いでイギリスが嫌いだったらしい)事等々はぼんやりと知っていましたが、俺なんかだとその程度しか知らなかった漱石の教師としての側面に注目した本。漱石が英語については厳格だけど、生徒の面倒見のよい教師であったことが知れて面白かった。ただ、明治、それも10年代とかの日本の学校システムは今とは全然違っているわけで、流石にもうちょっと当時の学校システムについての説明があっても良かったのではないだろうか。

*1:あくまで「タイトルを知っている」なだけなのが無教養なところ。

『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』

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開戦直前の日本において開戦後の予測がいくつか行われていた事はよく知られている。そしてそれらの結論が、短期的にはともかく中長期的には日本がアメリカに対抗できる事はない、長期戦となれば日本に勝ち目はないという事であったのもよく知られている。

「秋丸機関」は開戦直前に経済調査・謀略機関として作られた陸軍系の組織であり、数年間の活動中、謀略についてはともかく、経済学者を中心とした諸国の「経済抗戦力」の調査と予測を実際に行った機関であった。その調査結果も当然ながら、簡潔にまとめれば日本はアメリカに勝てないというものであったが、その報告の文献が戦後長く発見されなかった事、そして「報告が陸軍の気にいらないものだったので、報告書が回収・焼却された」という関係者の証言によって、秋丸機関の報告が日本の敗北を予測するという陸軍にとって都合の悪いものであったため握りつぶされたのだという物語が生まれた。ところがその陸軍によって焼却されたと思われていた報告書がこの本の著者を含む人たちによって発見され、この物語の過ちが判明する事になる。上述したように確かに秋丸機関は開戦となった場合、日本はアメリカに長期戦となれば勝てないと予想していた。しかし実のところこの予想は当時において、すくなくともエリート層においてはある程度常識的なものであったのであり、陸軍においてもその認識は共有されていた。つまり殊更に秋丸機関の報告を問題視する必要はなかったという事をこの本は明かしていく。開戦前の出版物や秋丸機関以外の組織による開戦後の予測でも同様のことが予想されていたからだ。日本とアメリカ、その生産力の格差により長期戦となれば日本がアメリカに勝つことは単純に不可能、とまで断言するわけではないとしても長期戦となれば厳しいというのは常識的な判断であった。そもそも、開戦しなくてもアメリカの禁輸によってこのままではジリ貧になるというのが対米開戦派の早期開戦の主張の根拠でもあったわけで、開戦がその長期的ジリ貧状態への確実な解決になるとは開戦派も思ってはいなかったはず。

では、なぜ、少なくとも当時の日本の開戦派を含めたエリート層の中でアメリカには勝てないという認識が少なからずあったのにも関わらず、開戦となったのか?この本は秋丸機関の伝説が間違いであった事から、ではなぜそれでも開戦へと日本は向かったのかの謎へと向かっていく。当然ながら、「ハル・ノート」によって日本は開戦に追い込まれたのだという虚構はその答えではない。全体として経済学的ではない本書において、この謎の答えの部分は少しばかり経済学によった答えが与えられる。といっても、その答えがこの本の独創的なものというわけではなく、秋丸機関の報告が戦前においてある程度そうであったように、現在時点である程度は知られている答えを経済学的な視点で語ったものと言える。

しかしその答えも開戦前の時点でなぜ開戦の決定をしたのかという疑問についてのものである。だが、そもそもその開戦前の時点にまでなぜ至ったのかという疑問もまたある。戦前日本の軍・政治関係についての本を読むと、とにかく対(英)米戦を、言葉は悪いが求めているかのような人たちがいろいろと出てくる*1アメリカと戦わなければならないのなら、あの開戦にもそれなりに合理性はあったのかもしれない。しかしアメリカと戦うための資源と生産力を得るために外へと向い、それによって当然アメリカと対立して結果アメリカと戦争、ボロボロになるというのは一体どういう悪い冗談なのだろうか。

*1:その最たるものが「世界最終戦論」の石原莞爾だろうか。

「怪奇礼賛」

19世紀から20世紀半ばまでのイギリスの怪奇小説アンソロジー
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古い怪奇小説となると読みづらい文章をつい想像してしまいますが、これはそんな事はなくてちょっと古風な感じが味になる程度です(読みやすいとは言いませんが)。全体通して特に怖いという事もなく、また全体として特に面白いということも無いですが、個々では結構面白かったので、印象に残ったものがあったので、以下にそれらを紹介。
 
「塔」マーガニタ・ラスキ
  20世紀半ばというこのアンソロジーの中では新し目の作品。その為か文章が読みやすくかつ終わりの切れ味が良い。
 
「よそ者」 ヒュー・マクダーミッド
  酒場で語られるよそ者についての話。1930年代の作品らしいが、ニューウェーブにつながっていく50年代SFのような感じの作品。
 
「メアリー・アンセル」 マーティン・アームストロング
  哀しみに心を囚われた女性の話だが、優しいオチが綺麗につく。
 
「谷間の幽霊」 ロード・ダンセイニ

「今日と明日のはざまで」 A・M・バレイジ
ジプシーの呪いによるタイプトリップが出てくる1922年の作品だが、恐竜の出てくるシーンがちょっと怖い。
 
「髪」 A・J・アラン
1920年代のホラーコメディ。普通に楽しいが、オチがイマイチ分かるような分からないような。多分、当時の有名商品を皮肉ったジョークか何かを元にしているんだろうが。
 
「溺れた婦人」 エイドリアン・アリントン
1954年の作品だけど、出てくる幽霊が何かJホラーぽくて、これからハッピーエンドのJホラーが出来そうな話。原題はLady for Drowningなんだけど、それを「溺れた婦人」と訳したのは「溺れた巨人」とかけたかったからとかあるのかな?まあ、読みは婦人と書いて何故か「ひと」と読ませているのだけど。
 
「死は素敵な別れ」 S・ベアリング=グールド
1904年のこれもコメディ。著者は牧師さんだそうだけど、宗教に入れ込んでる人はウザいというところから始まる話。ぶっちゃけオチも予想がつくが、やっぱり楽しいし、100年以上前の宗教家も同じうような事を感じていたというのも嬉しい。
 
「オリヴァー・カーマイクル氏」 エイミアス・ノースコート
つけられている解説を読んでもいつ発表の作品かわからないのだが、1920年代か10年代なんだろうか?だけどその解説にも書かれているように、なんか現代感(というか第二次大戦後感)がある作品。
 
「ある幽霊の回想録」 G・W・ストーニア
1952年の作品だが、SF読者の感覚だとこれもニューウェーブっぽいよく出来た作品。

ソヴィエト・ファンタスチカの歴史

「ソヴィエト・ファンタスティカの歴史」というタイトルを見て、何を想像するか?
 
頭の片隅にロシア語でファンタスティカはSFを含む幻想文学の意味という記憶がありましたので*1、私はソビエト時代のSF史なんだと理解しました。

ソヴィエト・ファンタスチカの歴史 (世界浪曼派)

ソヴィエト・ファンタスチカの歴史 (世界浪曼派)

  • 作者: ルスタム・スヴャトスラーヴォヴィチカーツ,ロマンアルビトマン,Roman Arbitman,梅村博昭
  • 出版社/メーカー: 共和国
  • 発売日: 2017/06/09
  • メディア: 単行本
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この本によると、ソビエトでは革命初期から、「月の支配」にとりつかれた独裁者スターリンによって文学界でのファンタスティカ(つまりSF)の優位が確立、そして月への妄執が後の指導層においても継続された為、ソビエト文學界でのファンタスティカの優位がソビエト崩壊まで続いていきました。もちろん、時代の変化の中での権力争い、そしてその権力への対抗、正に革命を伴いつつ。その歴史の中で、20年代にSF専門といえる雑誌、とまでは言えなくてもアンソロジーと呼べるような書籍を出したり、
スターリン粛清に巻き込まれた者の机の上に粛清を暗示する小説があったり、
という事で、ソビエト史にまさかこれほどSFが関わっていたのかと、
この本を読んで俺は1人興奮してしまっていましたが、To good to be true! その紡がれた歴史は実はフィクションでありました。
 
これは言うならば文学史のオルタネートヒストリー物なわけです。それに気づかずに買って、おお、ソビエト政府はこんなにSFを重要視してたのか!と思って興奮していたので、ほんとお恥ずかしいというやつで... いや、架空歴史物の常で、実際の歴史を元にした架空文学史ではあるので完全にフィクションだけなわけでもないのですが、それがソビエトの歴史なので、何が事実で何がフィクションなのかの判断が全くつきませんでした。これが架空アメリカSF史なら流石に第一章の段階でも分かっていたと思うのですが、ソビエト史でやられると、なぁ。ことの真相を知ったのは、1934年のソビエトの文学大会にウェルズやエイブラハム・メリットやスタンリー・ワインボウム(!)*2などが参加して、更にウェルズが発言を行ったと書かれている第三章を読んでいる時に訳者解説をちらっと見てみて。架空のソビエトSF史を本物だと思って興奮して読んでいた私は、フィクションだという事を知って正直、気分が落ちました。

とはいえフィクションだと分かっても、実際のところ結構面白いです。ソビエトという、現代日本に住んでいる身からするとはっきり言ってパラレルワールドの様な異なる社会を舞台にした様々な闘争の物語ですから。また著者の名誉の為に書いておきますと、著者は最初のうちからこの本の怪しさを分かる人には分かるようにしています*3。たとえば序においてこの本の初版(これは改訂第四版)が1985年に出た時に、ダルコ・スーヴィンによるその書評がギャラクシー誌に載ったと書かれています。ギャラクシーは1980年に終刊になったので、これを読んで一瞬、え?と思いはしたのですが、ギャラクシーの終刊の年をちゃんと覚えていなかったので、フィクションとは全く疑っていなかった私はそのままスルー。全く情けないです。先の1934年にウェルズのエピソードも知っている人なら当然疑いを持つようになるエピソードですし、他にも例えばとあるソビエトSFが「冷たい方程式」をパクっているとなっているのですが、このソビエトSFが出版されたとされるのが1940年代末。「冷たい方程式」が出たのは1954年ですから、これでは「冷たい方程式」の方がパクったことになります。こういったSF史に詳しければ何かおかしいと気づくネタをちょこちょこと著者は噛ましています。一応、これらのネタが著者の無理解故の間違いでない事の例を非SFですが一つ上げておくと、「雨月物語」の上田秋成ソビエトチェコスロヴァキア信仰を非難したとしてソビエトから『好ましからざる人物』とみなされていた、とあります。勿論、「雨月物語」の上田秋成は1809年に亡くなっています。

ただSFファンとして言っておきたいのが、英語圏SFの作家名や作品名についてです。勿論、ロシア語に訳された英語圏SFの固有名詞を更に日本語に訳しているわけで、いろいろ難しい事があるんだろうなということは分かりますが。ワインボウムがウェインバウムとかの人名については、ぶっちゃけどっちが正しい発音に近いのか分からないくらいので置いとくとしても、たとえばメリットの作品の邦題は「ムーン・プール」だろうし、上のトム・ゴドウィンの「冷たい方程式」も「ゆずれぬバランス」となっています。勿論、これらは多分、ロシア語訳された際のタイトルの和訳なんでしょうから、ロシア語タイトルの直訳を選んだということかもしれませんが、そこはやはり日本で流通している作品名にするべきだったのではないかなぁとは思います。

*1:記憶があったのは事実ですが、この理解がほんとに正しいのかどうかは保証できません。まあ、この本からするともっと狭義でSFを意味するような感じですが。

*2:ワインボウムが亡くなる前年なのですよね。人選が渋い。

*3:訳者解説によるとそもそも著者名とされている名前自体が明らかに怪しい名前でもあるそうで。

「ゴールド 金塊の行方」(ちょいネタばれあり)


映画『ゴールド/金塊の行方』予告編
予告編のサムネイル画像(とは呼ばないのか?)でマシュー・マコノヒーが半ハゲづらを晒してますが、劇中では更に恥ずかしい、映画「J・エドガー」のディカプリオまであと少しなメタボブリーフ姿まで晒しています。

話は80年代はじめのアメリカに始まります。マシュー・マコノヒーが演じるのは、鉱物資源開発会社ワショーの社長、ではなくてその社長の息子ケニー。社内で彼女へ金の時計を贈って口説いているダメそうな息子です。80年代といえばレーガンアメリカの夜明けとか言っていた景気のいい時代ではありましたが、残念ながらワショー社が迎えていたのは夕暮れの方でした。社長が亡くなったワショー社はケニーが社長を継いだものの80年代末には知り合いの酒場で電話営業をしている始末。倒産を避けようと奮闘するケニーに訪れたのが、インドネシアで金鉱が見つかるという不思議な夢。これでかつてインドネシアで銅の鉱脈を発見して一時、鉱物資源開発業界の寵児になったのに、その後その業界から見捨てられた地質学者マイケル。そのマイケルを演じているのがぶっとい肉厚ハムのようなエドガー・ラミレスで、マシュー・マコノヒーが演じているケニーとは全然違ってマッチョなイケメンです。

まだ付き合っている彼女へかつて贈った時計を黙って売って作った金でインドネシアに飛んだ金のないケニーがヨレヨレのスーツを着て、落ち目になったとはいえいまだに良いスーツを着てカッコいいマイケルを何とか口説き落とそうと大物ぶって話すシーンは最高にみすぼらしくて哀しいですし、マイケルの方にそんな詐欺師に騙されたりしちゃダメ、マイケル、逃げて!と思ってしまいます。そして実際、ケニーの真相を見透かしたマイケルは見下した対応をとるわけです。なのにも関わらず結局、マイケルはケニーをインドネシアの密林の中、自分が金鉱があるのではないかと思っている場所へと案内する事にします。それはケニーの情熱に打たれたからとかいう事ではなく、ケニーがマイケルの弱い部分、失われた成功を取り戻したい、切り捨てた業界の連中を見返してやりたいという思いをケニーが理解し共有していたからでした。そして現地についた二人は、ケニーの言葉に結局マイケルがとりこまれる形でハンカチに書かれた契約書を交わします。

こうして始まった金鉱探し、現地の住人を雇ってマイケルが目ぼしをつけた場所を掘りだして金の含有量を調べていくものの、いい結果は全く出てきません。ケニーがマイケルを看板として利用して集めた採掘資金もどんどん乏しくなっていく中、現地住民が雇用条件に反発、職場放棄をした上にさらにケニーがマラリアにかかる始末。そもそもマイケルは不信感を持っていた上に、金はあるから大丈夫だと言っていたのに結局、約束していた額の数分の一しか採掘資金を集められなかったケニーに対してマイケルは採掘を諦める事を提案しますが、病床のケニーはそれを拒否。それどころか残ったクレジットカードをマイケルに渡して、使える全額を使って採掘を続けろとマイケルに頼んだ上で倒れてしまいます...そして残されたマイケルは今回はその熱意に打たれたのか住民の再説得に動いてそれに成功、採掘を再開します。そして数週間後、病から目を覚ましたケニーの目の前に採掘試料の検査結果が入った封筒を持った笑顔のマイケルが...

ここから彼らの復活と復讐が起こります。そして金(キンでありかつカネ)の匂いを嗅ぎつけた連中がうようよと彼らに寄ってきます。この映画はその中をサバイブしていく二人とその友情の物語です。ですが、その最中に繋がりの見えないシーンが差し込まれ、見えない何かが裏で動いている事を示唆してきます。

これは友情と裏切りと復讐の映画であり、面白い映画だったのですが、最後の最後でちょっと悩んでしまいました。映画の公式サイトでは「実話」とか書いてますが、その実話というのは90年代にカナダで起こったものであり(金鉱掘削はインドネシアですが)、80年代のアメリカの話ではありません。勿論そんな事はどうでも良いのですが、これが実話を基にしたものだとすると、この映画の最後を復讐の成就として素直に喜んでいいのかと。業界への復讐だけで済んではいないわけだし、その事のコラテラルダメージ、巻き添えにあう犠牲者達も映画がみせている事は製作者たちもそのあたりはちゃんと理解しているという事なんでしょうが、あのラストも事実に基づいているのかどうか。完全なフィクションならまああれもありかなと思わなくもないのですが、なまじ「実話」に基づいていると言われるとどうにも気になってしまいます。