It was all a lie、全ては嘘だった。
今年、2020年はアメリカ大統領選挙の年ですが、アメリカでは選挙は一つの産業として成立しています。2016年の大統領選挙では、連邦レベル(大統領、連邦上院議員、連邦下院議員)の選挙での総支出は65億ドルを超えました。この内、大統領選挙での支出がおおよそ24億ドル、上院・下院議員選挙での支出は41億ドルでしたが、2018年の上院下院議員についてだけの中間選挙では57億ドルを超えてしまいました。つまり、アメリカでは2年毎の選挙年には6000億円強のお金が選挙に使われるわけです。当然ですがこのだけの金額が動くとなると、専業の業界人たちが存在するようになります。彼らは日本におけるような議員秘書などではなく、選挙のプロです。日本でも選挙のコンサルタントとかいらっしゃいますが、アメリカではConsultant, Strategist、あるいはOperativeなどと呼ばれたりする人たちが政治系の記事を読んでいるとほんとうによく出てきます。スチュアート・スティーブンスは70年代後半から共和党の選挙ストラテジストとして働きだし、2000年には第41代大統領のブッシュ、2012年には共和党大統領候補であるラムニーの選挙ストラテジストとして働いた人物です。そのスティーブンスがトランプだけではなく、これまで自分が選挙勝利の為に奮迅してきた共和党自体を批判しているのがこの本です。
It Was All a Lie: How the Republican Party Became Donald Trump
- 作者:Stevens, Stuart
- 発売日: 2020/08/04
- メディア: ペーパーバック
人格というのものの大切さ、個人の責任、ロシアに対する強腰、政府負債は重要な問題である、移民がアメリカを偉大にした、全てを受け入れる懐の深い党…(7ページ)
といったものが実は、
こういった不変の真実はただのマーケティングスローガンでしかなかった。なんの意味もなかったのだ…(7ページ)
のであり、ニクソンによる60年代末の「南部戦略」以来、19世紀には黒人解放の党であったはずの共和党が人種差別を煽り白人至上主義傾向の白人票を取り込んできた事実をはっきりと認め、
一番うまく実行できた時、共和党の大きな勝利の多くの基礎には人種に基づいた戦略がにあった。ニクソンからトランプにいたるまで。(27ページ)
と共和党が選挙に人種差別を利用してきた事、それどころかついには白人政党となっており、その結果としてアメリカの民主的な市民社会に害を及ぼす脅威となっているという事です。
それは共和党に固有の産業化されたかのような欺瞞だ。過去数十年に渡って、共和党はどれだけ真実の制御棒を市民社会の真実の反応炉からメルトダウンを起こさずに抜くことができるかという実験を行ってきた。これはトランプによって始まったわけではないが、トランプがそのメルトダウンとなった。(83ページ)
19世紀のアメリカ南北戦争は政党については、反奴隷制と黒人解放の共和党と人種差別・奴隷制維持の民主党の対立という、人種問題において今とは真逆の立場の2党の対立でした。このため南北戦争での南部連合の敗北後、黒人は共和党支持、南部の白人は民主党支持という構造にあり、結果アメリカ南部では民主党が強く、共和党が票を取れないという構造にありました*1。この南北戦争以来のアメリカの人種と政党の関係が変化しだしたのがルーズベルト民主党政権によるニューディール政策の1930年代、そしてケネディ~ジョンソン民主党政権による公民権運動への支持とその公民権運動への南部白人層の反発を利用したニクソン共和党政権による南部戦略の1960年代であり、いまでは全く真逆になってしまったわけです。
つまり共和党の白人政党としての性格・政策はトランプ以前から始まっていたものなので、この本はトランプが共和党を駄目にしたと批判するのではなく、トランプは共和党がこれまで数十年に渡って行ってきた事の結果でしかないと認めています。その期間の大部分においてこの著者も共和党の勝利の為に働いて来たわけですが、著者はその間、自分がそして他の人達も現実に目をつむってきていたことを認めています。共和党が事実上の白人政党、あるいは白人至上主義政党となる道を進んできた60年代以降の期間は同時にアメリカのリベラル化の期間でもあるので、明白な人種差別言動は流石にできませんでした。なので一応、様々な建前(州の権利、個人の責任、言論の自由、等々)のもと、一見すると人種問題にたいして中立的な言葉を用いて人種差別主義者に、自分は人種差別を行っているのではなく何らかの原則に基づいた選択を行っているのだという幻想を与えてきました。
1954年には(選挙を)「ニガー、ニガー、ニガー」と言いながら始める事もできたが、1968年には「ニガー」とは言えなくなった。言えばダメージをこうむる。反発が起こる。なので強制バス通学や、州の権利その他の事を語るわけだ。
これは10ページに引用されている、共和党の伝説的選挙コンサルタントのリー・アトワイアーの1981年の有名な、というか悪名高い発言です。強制バス通学というのは人種差別撤廃の為の生徒の融合の為のバス通学の事、州の権利も公民権の為の連邦政府の介入への抵抗の根拠としての州の権利です。これらは人種差別とは一見関係のない反対のロジックを建てるのに利用できたので、それらの発言の白人層へのアピールの根拠である人種差別感情から目をそらすカバーとして使えたわけです。全部が嘘であり、だからついにトランプが登場してこれまでの建前を放り出した時にも、党はそれをすんなりと受け入れたわけです。
人格、個人の責任、外交政策、そして国家負債についての高く掲げた信念をほんの数ヶ月の間にどうやって捨ててしまえたのか?捨ててなどいないからだ。明白な答えは、そんな信念は持っていなかったという事だ。結局のところ、共和党がトランプの下に結集したのは、それが権力を取り戻す為に必要な取引なのなら、なんの問題が?という事だったからだ。常に求めていたのは権力だったから、だ。
本はアメリカ保守運動と陰謀論の歴史、保守のキリスト教白人層、利益団体、特にNRA、FOXニュースを代表とする保守派のエコーチェンバー、共和党の反科学という立場(「科学は民主党的なものだ」という発言(65ページ))、家族の価値等々、様々の分野における問題なり欺瞞なりを解説していきます。ですがまあ正直言いまして、書かれていることはアメリカのリベラルなら知っている事がほとんどだと思います。保守の立場だった人間の共和党批判としてもトランプ以後はもちろん、トランプ以前からでもちょこちょこあります。この本の売りは共和党のバリバリの選挙ストラテジストとしての内部情報の暴露であるべきだと思うのですが、正直そこが弱い。共和党候補は保守的であればあるほどなぜかゲイの可能性が高くなるとか、共和党下院議長だったニュート・ギングリッチによる政府閉鎖故にビル・クリントンとモニカ・ルインスキーが知り合ったとか、赤狩りのマッカーシーとトランプが同じ弁護士を使ってたとか(ほんとか?)とか、面白い豆知識も色々書かれてますが、まあ全体としてはリベラル側の立場でアメリカ政治を見ている人なら特に驚きはないかなと。共和党によるアメリカ政治、更にはアメリカ市民社会への害についての心配に共感はするが、正直物足りない感は否めない。ただ、アメリカ政治に詳しくなくて、政党なんてどれも同じだろと思っている人達には有益だと思います。
「村西とおる 狂熱の日々」
Netflixの「全裸監督」の影響で、西村とおる監督の名を最近、目にするようになりました。西村監督といえば80年代からのバブルの時代の寵児となったAV監督。個人的にその作品を観たことはないのですが、それでも流石に知っています。その監督のドキュメンタリー映画が上映されていたので観てきました。
村西とおる 登壇!『M/村西とおる狂熱の日々 完全版』名古屋舞台挨拶REPORT
予告編がツベにみつからないので、代わりに監督の舞台挨拶を。
西村監督についてのドキュメンタリーなので、この映画自体の監督は別の人です。その監督さんが、西村監督が1996年に撮った作品のメーキングというものに出会い、それに2017年の西村監督へのインタビューを加えて出来上がったこのドキュメンタリーです。なので、西村監督の全盛期、映画のタイトルにある「狂熱」が正に当てはまりそうなバブル期が過ぎた後のドキュメンタリーです。全盛期が過ぎて50億の借金を背負った96年の西村監督がその返済の為に目論んだのが、30本以上のヘアビデオ*1とそして当時出たばかりのDVD用の4時間超のVシネの制作であり、その両方の撮影を北海道で同時におこなおうというものでした。その為の30人以上の女優さん達とVシネ用の俳優さん達を連れた北海道での撮影旅行の様子が描かれます。そして、それを含めて自分の人生を振り返る村西監督の2017年のインタビューも。
全体としての感想は、不快、なんだけれどそれを含めての人生の幅なり深みを感じる、と言うところ。ありがちな表現ですが、野原に半分埋もれた石をひっくり返して見つけた、その下に蠢く虫たちに魅入られてしまったというか。こう書くとドキュメンタリーの中の人達に対して上から目線であり、そういう態度はブーメラン的な批判を招きかねないものですが、でも正直、96年の撮影メーキングを観ていると、村西監督も含めて、何この人達?と思わないのは難しいです。まあ特にヘアビデオ撮影の方で。Vシネの方は主演女優さんの「失敗」とか、そりゃそういう事はあるんだろうな程度の事*2。ですがヘアビデオ撮影の方は、特に凄い事が起こるというわけではないのですが、村西監督のオモテウラであまりにはっきり裏返る発言なり、猫なで声から脅迫調の怒鳴り声へのスムースな移行なり、そして女優さんたちや他のスタッフの言動なり、なんというかそれぞれ低俗で観ててうんざりさせられます。その中で少しだけスッキリするのが、Vシネ側でのある配役の変更につながった怒り。あれは観ててちょっとスッキリしたんですが、でもそれはそれで哀れな事態につながる上に、その事態が起こった後にドキュメンタリーの撮影者達のイヤラシさが映し出されてこれまた気分が悪くなります。ヘアビデオの女優さん達もプロ意識があるように見えない上に、彼女たちを撮影するスタッフの側もそれ暴行じゃないのか?という様な事をした上にその事をべらべら話してるし。更に村西監督の、女優に年齢を聞いた後の見下したコミュニケーションをとるやりかたも、それに媚びる女優も。でも、映画を観ていくうちに、たとえば2017年の村西監督のインタビューなども通して、そういう不快なものたちもこの世の多様性を表しているように感じられたり…というのは綺麗事ですが、でもまあ面白い映画でした。
「少年の名はジルベール」自伝、ではなく 少女漫画史、でもなくBLいや少年愛漫画の始まりまでの苦闘の歴史
少女漫画家の竹宮惠子さんが書かれた
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を、この表紙の金髪の少年がジルベール少年なんだろうなというレベルの少女漫画知識しかない俺ですが読んでみました*1。竹宮さんはそんな知識のない俺ですら知っているレベルの漫画家さんですが、この本は彼女による一応の自伝というか自分史、あるいは少女漫画のある時代の闘いについての物語です。その時代というのが1970年代、40~50年前の物語であり、近すぎず遠すぎず良い感じの湯加減な時代。ちょい遠目の近過去に興味があるので読んでみることにしたわけです。
一応、竹宮さんは知っていると書きましたが、作品で知っているのは「地球へ・・・」とそして「風と木の詩」だけで、しかもそのどちらも読んだ事はないという惨状なのではありますが*2。この70年代を舞台とした本が描いているのは事実上、その「風と木の詩」が発表されるまでの物語です。その後の事も少しは書かれているし、その前の事については様々な事が書かれているわけですが、著者が意図しているのは明らかに、大義名分としては少女漫画界の革命、具体的にはBLあるいは少年愛漫画の登場までの苦闘の物語です。そこに出会いと別れ、友情と嫉妬、大泉サロンと呼ばれた共同生活の情景、そして創作についての考えがなどが付け加えられています。多くの人が登場しますが、その中でも特に大きいのが萩尾望都さんと増山法恵さん。 萩尾望都さんはこれまた俺でも知っている漫画家ですが、これまで全く知らなかったのが増山法恵さん。この増山さん、漫画家さんではないのですが、しかしこの本によると少女漫画史的にはどうも重要な感じがします*3。この本によると増山さんが、少女漫画史における「トキワ荘」的場所であったらしい「大泉サロン」の誕生の舞台裏におり、少女漫画の革命を起こそうとする竹宮さんと萩尾さんの理論的参謀と応援団を務め、そして竹宮さんのプロデューサーというか、田舎から上京した竹宮さんに圧倒的な文化的資本の差を見せつつ竹宮さんの脚につけられた錘のごとく、彼女一人でよりもさらに深く沼の奥底へと引きずり込んでいったようです、少年愛漫画の沼へと。
そう、少年愛漫画。今ではBLはかなり広く知られた嗜好になった感じもありますが*4、この本で描かれる1970年代ではそういうわけではありません。実際、この本の中で取り上げられる少年愛がらみのコンテンツが昭和少年愛の定番である稲垣足穂「少年愛の美学」、そしてウィーン少年合唱団という時代*5です。とするとこの嗜好はいつごろから少女たちの間にあったのですかね?この本によると、70年代初めの頃からすでにそれを支持する少女たちが結構な数いたような印象を受けます。とはいえそれは雑誌へ反応を寄せる読者達から受ける印象なので、彼女達はノイジーマイノリティだったのかも知れないし、しかしその後を考えたらそうそうマイノリティだったのかも分からないし。描かれている男性編集者の反応からすれば当時においては少女について一般的とは言えない嗜好と認識されていたようですが。しかしそこへ竹宮さんが風穴を開けて、少女漫画の革命というか一大ジャンルを築いてしまうわけです。
そしてもう一つ、この本の重要な要素が、俺は全然知らなかったのですが、竹宮さんの萩尾望都さんへの嫉妬や対抗心です。それ故に竹宮さんの方から一方的に関係を断ってしまうという。ご本人も少女漫画史に名を残す人なのに、それでも嫉妬するほど萩尾望都は凄かったのでしょうね。まあ手塚治虫も嫉妬や対抗心が凄かったというしなぁ。
「ターミネーター ニューフェイト」
面白かったです。そして、リンダ・ハミルトンさん、すいません。この映画、観る前は劇中のリンダ・ハミルトンはキツイのではと思ってたんですよね。
映画『ターミネーター:ニュー・フェイト』本予告【新たな運命編】11月8日(金)公開
監督ティム・ミラーで、主演がアーノルド・シュワルツネッガー。ターミネーターシリーズ、2度目の仕切り直し作品です。
映画館でちょくちょく予告を観ることがあったのですが、そのたびに白髪小柄のリンダ・ハミルトンが爆発を背景に歩いてくるシーン(2分20秒くらいから)とかで、うーん、おばあさんに無理させているなぁとか思ってましたが...しかし、実際に映画を観てみたら、リンダ・ハミルトン、思ってたよりも渋くてカッコいい。老人虐待じゃないかと疑ってたの、すいません*1。結構、面白かったです。観て損はない!(まあ、観なきゃ損!とまでは言わないが。)
あと、この作品では主人公チームが女性3人とアーノルド・シュワルツェネッガー1人で行動でしてます。なので観ていて、
あと主人公側が女性ばかり(にシュワルツネッガー)で、ふと日本の今のアニメとある種似てると思ったが、でもフェミニズムがそうなる理由の一部にはあるんだろうし(勿論一部で全部なわけはないが)、そこらへんが観客(と作り手)の欲望に忠実になった結果だろう日本のアニメとの違いなんだろうな。
— okemos (@okemos_PES) November 9, 2019
とかチラッと思ってしまいました。まあ、フェミニズムに基づいたというより、今のアメリカの雰囲気なんでしょう。この映画中では舞台がメキシコからアメリカへ移動しますので今のアメリカの大きな問題である移民に触れるわけですが、それも政治的主張というわけではなく、今の雰囲気を作ろうとするとそうなる、というだけのものなんだろうなとは思います*2。
「PC」って、なに?ポリティカル・コ…?
小ネタです。
アメリカでは本の新刊が出る時に、宣伝の為にその一部が事前にメディアに公表されることがよくあります。特に政治系のノンフィクション、政権の暴露本、XXの真実本とかだと。保守系メディアのFoxニュースがトランプ政権の「真実」についての本
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の一部を紹介しています。メディアがFoxであること、そしてリンク先のトランプの写真からするとトランプ側に立った本のようで、なかでトランプとオバマ政権のCIA対応を比較して、オバマはマイクロマネージメントを行っていたがトランプは決定権を現場に移譲して自由を与えたというトランプ側に好意的な評価を紹介しています。とにかく本の著者によると、ホワイトハウスの情報源からCIAのトップのスタッフがそう言っていると聞いたと。ほんとなのかどうか知りませんが、もし本当だとしても、トランプにはマネージメントをするほどの意思も能力もなかっただけなのではとか疑ってしまいますが…
それはともかく、その本の中ではまたホワイトハウススタッフからの話として、CIAのスタッフがオバマ政権では
"a lot of time in the White House doing nonstop PC [political correctness] meetings"
「ホワイトハウスの中ではノンストップのPC[ポリティカルコレクトネス]ミーティングに多大な時間が」
費やされていたと書かれているそうです。ここで重要なのが、" "に囲まれた部分が[political correctness]の部分も含めて本からの抜粋部分であること。このポリティカル・コレクトネスは[ ]で囲まれている事から明らかなように、本の著者がスタッフから聞いた”PC"という言葉への著者による説明です。Foxの側としても本の著者がそう言ってるんだし、なによりオバマだしという事なのでしょう、この言葉をチェックせずに出してしまいました。(勿論、内部の事は知らないで適当に書いてますけど!)
ところがこのFoxの記事が公開されてから、PC meetingというのはPrincipals Committee meeting、国家安全保障会議によって招集される各組織トップによる会議の事だというツッコミが各所からされたそうで。結果、Fox側も記事に訂正を追加することになりました。ホワイトハウスの事についてちゃん知っている人がいたら避けれた失敗だったでしょうに。というか、こういうミスを公開されたらこの本、売れるんですかね?まあ売れない方が世の為になるような本だろうとは思いますが。
「日本SF誕生 空想と科学の作家たち」
豊田有恒著、勉誠出版
bensei.jp
日本SF作家第一世代というと、小松左京、筒井康隆、星新一、平井和正、眉村卓、半村良、光瀬龍などなどの名前が上がりますが、さすがにその登場の時期から5~60年も経つために残念ながら亡くなられてしまった方々がほとんど。その中でまだなだご健在な方の一人が、第一世代SF作家の最年少であった豊田有恒さん。実は、豊田さんは俺が好きになった最初のSF作家でした。ただまあ、ご本人がこの本で福島正実からの評価として「アイデアが良いときは読めるのだが、少しでもアイデアの質が落ちると、小説的な技巧が伴わないので、読めたものではない」と書いている通りであったため、いや、実際のところ小説の文章というより説明文を読んでいるような印象を持つことすらあったため、俺は正直、離れていってしまったわけですが...とはいえいわばSF初恋の相手であり、そしてまたこの本は豊田さんによる日本SF勃興期の50,60年代を中心にしたSF第一世代の思い出語りの本という日本のSFファンなら楽しまずにはいられない本であるために買ってみた次第。
で、この本も正直、ちゃんと構成されていないような…基本的には思いついた事をそのまま書いていっているだけのようなところがあるんですが、しかしいろいろと面白いエピソードが載っていて楽しいです。たとえば、宇宙塵主催の柴野拓美さんのお宅へ初めて豊田さんが伺う際、柴野さんが電話での道案内で「角に油屋がある」とガソリンスタンドを油屋と呼んだとか、
豊田有恒「日本SF誕生」読書中。SFマガジンのコンテストに佳作第3席となった「時間砲」を手塚治虫に漫画にしてくれとお願いしにいったら(駄目だったが)、その半月後に手塚本人が豊田さんを連れて出版社周りをしてくれたと。SFファン同士とはいえ、流石は昭和30年代だなぁ。 #sfjpn
— okemos (@okemos_PES) October 26, 2019
だとか、そしてもちろん、第一世代SF作家とのエピソード。また第一世代には含まれないものの日本SF史の中では必ずその名は目にするのに人間としては全く触れられない山田好夫さんに微かながらも触れていることとか。
あと第一回空想科学小説コンテスト佳作第一席の「地球エゴイズム」を書いた山田好夫の事に豊田さんが触れてる。といっても、二作で筆を折ったようで何も知らないと書いてるだけだが。日本SF史の中でこの山田さん、名前と作品名は出るのにそれ以外の情報は何もないからちょっと気になるんだよな。
— okemos (@okemos_PES) October 26, 2019
とにかく、第一世代SF作家のエピソードが好きな人なら読んでみて損はないのじゃないでしょうか。
「日本エロ本全史」
タイトルにエロ本とありますが、実際には戦後すぐの1946年「りべらる」から2018年の「FANZA」までのエロ雑誌100誌*1について、その創刊号と簡単な歴史の紹介が書かれた本です。「戦後エロ雑誌全史」という方がより正確でしょうか。著者の方は長年エロ雑誌でライターをされてた人だそうなので、雑誌を「本」と言うのはエロ雑誌業界内でそうなってるんですかね。フレドリック・ブラウンの「発狂した宇宙」
honto.jp
でも、アメリカのSFファンがSF雑誌を「本」と呼ぶと書いてましたが*2。
さてこの本、勿論、タイトルに喚起された下世話な興味によって購入したわけですが、正直感想を述べると、物足りない…エロとしての実用性が低いんだよ!とか言ってるわけでは当然無くて、この本はエロ雑誌業界総括の為、歴史を語る手法として過去から現在までの雑誌のある種のカタログとなっているわけですが、殆どの雑誌について割かれるページ数が2ページで写真も多めとなると、1誌あたりの紹介が物足りないものになりがち。さらに100誌の解説となれば正直、思い入れのない情報の羅列のように感じられる事もあり…とにかく、歴史として戦後のまだまだ抑圧的だった時代からエロ雑誌の浸透と拡散の時代へ、そして80・90年代前半までの爛熟の時代から90年代後半以降の衰退、そしてネットの死神の鎌から逃れる為にエロ雑誌が人妻熟女雑誌となっていく*3エロ雑誌の終焉の時代。そういう時代の変遷はわかります。とくに、エロ雑誌の終わりの時代については、コンビニに出かけるだけでその目撃者となれるわけですし。そういう歴史に興味を覚えますし、またこの本を読むとそんな雑誌があったのかとしばしば驚かされる雑誌の事もしれます。個々の雑誌やエロ雑誌業界の歴史に興味を惹かれるのですが、そこで終わってしまうわけです。エロ的にいえば、チラ見せされて興奮したのに触れる事は出来ずに生殺し状態というか。神だけじゃなく面白さも細部に宿っている事がよく分かる本でした。