P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

アマルティア・セン:危機をこえた資本主義

ニューヨークタイムズ・ブックレビュー2009年3月26日号に載ったセンのエッセイの翻訳です。特に驚きな内容でもないので、まあこんなもんかなとか思いながら訳していたら、ピグーが出てきたのでびっくり。本文中にもあるように、今はケインズ・リバイバルの時期ですもんね。でも、経済心理といえば、アニマルスピリッツのケインズと思ってましたけど、ピグーか。あとそれから、終盤の中国の話はほんとなのですかね?中国の経済成長を考えると、ちょっと意外でしたが。
それから訳文はちょっと自信のないところが色々とありますので、誤訳があればご連絡ください。誤字脱字等も、よろしくお願いします。
危機をこえた資本主義 アマルティア・セン 2009年3月26日号1.
2008年は危機の年であった。最初に、食料危機があった。これは貧しい消費者達、特にアフリカの消費者達には非常な脅威となるものであった。そしてそれに続いて、石油価格が記録的な上昇をしめした。これは石油を輸入するすべての国を脅かした。最後に、秋には少しばかり唐突に世界的な景気後退が発生し、それはいまだに恐ろしい速さで進行している。2009年はこの後退の急速な悪化の年となりそうだ。多くのエコノミスト達が*1全般的な不況、そしておそらくはそれが1930年代並みのものになるのではないかという予想をしている。相当の資産が大幅な損失をこうむっているが、もっともひどい影響を受けていたのは、そもそもから恵まれていない人達だった。
今、もっとも力強く問われている質問は、資本主義の本質についてとそしてそれが変えられるべきなのかどうかについてのものだ。変化に抵抗する、抑制されざる資本主義の弁護者の中には次のように確信している者達もいる;資本主義は短期の経済問題に関して非難されすぎている--大きな政府(たとえばブッシュ政権のような)や、何人かの個人による悪行(あるいはジョン・マケインがその大統領選挙の中で述べていたような「ウォール街の強欲」)などへと彼らが帰す問題に関して。しかし、その他の者は、現状の経済のあり方に相当に深刻な欠陥を見出し、それらを改革しようとしている。「新しい資本主義」と次第に呼ばれつつある代替的なアプローチを求めているのだ。
新旧の資本主義というこのアイデアが、1月、パリにおいてフランス大統領のニコラ・サルコジと英国の前首相トニー・ブレアによって主催された"New World, New Capitalism"というシンポジュウムを活気づけたアイデアである。その両者は、変化の必要性について雄弁な演説を行った。そしてドイツの首相、アンゲラ・メルケルもまた雄弁であった。彼女は古いドイツのアイデアである"social market"--これはコンセンサス形成の政治によって抑制された市場といったものだ--が新しい資本主義の青写真になるのではないかと語った(もっともドイツはこの危機において、他の市場経済と比べて特にうまくやっているわけではないが)。
今現在の危機に対処する為の戦略とはまったく別の、長期的に社会の構成を変えるアイデアが明らかに必要とされている。私は問われえる多くの質問の中から特に三つのものを取り上げたいと思う。まず最初は、我々は本当に何らかの「新しい資本主義」を必要としているのかどうか、についてだ。一様ではない、実際的な必要から選びだされてきた多様な制度による、そして倫理的に庇護しえる社会的価値に基づいた経済システムではなく?我々は新しい資本主義を、あるいは--パリの集まりにおいて用いられた別の言葉を使うと--異なる形態をとる「新しい世界」を求めるべきなのだろうか?
第2の疑問は、今日、とくにこの現下の経済危機の中において、必要とされる経済学とはいかなるものかについてだ。経済学者によって教えられそして守護されているものを、経済政策のガイドとして我々はどう評価するだろうか?これは危機が悪化する中で起こった昨今のケインジアン思想のリバイバルについても含んでいる。さらにとくに、この現在の経済危機は求めるべき制度と優先事項について何をおしえてくれるだろう?第3に、長期的などんな変化が必要であるかのより良い評価を進めるのに加えて、この現在の危機からできる限り少ないダメージをもって抜け出すにはどうしたらよいのかについて考えなければならない--それも急いで考えなければないならのだ。

2.
古いものであれ新しいものであれ、あるシステムを確実に資本主義のシステムとする特徴とはなんだろうか?もし現在の資本主義経済システムが改革されるべきならば、何がその改革の産物を何か別のものではなく、新しい資本主義とするのだろうか?経済的取引の為の市場の利用が資本主義と識別される為の必要条件であることは一般的に認められているようだ。同様に、利益誘引と私的所有からの個々人の利害に基づくことも資本主義の原型とみなされているようだ。しかし、もしこれらが必要条件であるとすると、我々が、たとえばヨーロッパやアメリカにおいて現在保持している経済システムは本物の資本主義であろうか?
世界のすべての裕福な国々、ヨーロッパのものだけでなく、アメリカ、カナダ、日本、シンガポール、韓国、オーストラリア、そしてその他は、もうすでにかなりに渡ってその取引と金銭授受の一部について、市場からは相当異なったものに依存している。これらは、失業保険、公的年金、その他の社会保険、そして公教育の供給、公的医療、そしてその他様々な、市場を通さずに分配されるサービスなどだ。そういったサービスに関連した経済的権利は、私的所有や財産権に基づいたものではない。
そしてまた、市場経済はその機能を、利益最大化だけでなく、安全の確保や公的サービスの供給といった多くのその他の活動に依存している。こういったもののうちのいくつかは、利益にもとずいた経済においてはありえないものだ。資本主義システムと呼ばれるものの確実なパフォーマンスは、物事がうまく行っている時には、多くの制度--公教育、公的医療、そして大規模な輸送機関への資金供給は多くの例の一部にすぎない--に頼っている。これらは利益最大化の市場経済と私的所有に限定された私的な権利への依存から可能なものを越えたものなのだ。
この点にはさらに根本的な疑問がある:資本主義は今日において意味のある言葉なのだろうか?資本主義のアイデアは歴史的には重要な役割を持っていた。しかし今では、その有意義さはすでに消耗しつくされているのかもしれない。
たとえば、18世紀のアダム・スミスの先駆的貢献は市場経済の有効性とダイナミズムを、そしてなぜ--および特にどのように--そのダイナミズムが働くのかを明らかにした。スミスの研究は市場の働きについての啓発的な分析を提供したのだ。そのダイナミズムが力づよく開花した、丁度その時に。1776年に出版された諸国民の富が資本主義と呼ばれる事になったものの理解についてなした貢献はとてつもないものである。スミスは、取引を自由にすることが非常に多くの場合、生産の特化、分業、そして大規模生産の経済性の利用によって、経済的繁栄を生み出すのに非常に大きな助けとなることを示したのだ。
この教えは、今日においてすら非常に重要である(ポール・クルーグマンが受け取った最新のノーベル経済学賞の、国際経済学についてのすばらしくそして非常に巧みな分析が、スミスの230年以上昔の非常な先見的な考えに深く結びついていることは、とても興味ぶかいことだ)。市場と18世紀における資本の利用についての初期の解説に続いた経済分析が、主流派経済学の文献の中に市場経済を組み立てることに成功したのだ(The economic analyses that followed those early expositions of markets and the use of capital in the eighteenth century have succeeded in solidly establishing the market system in the corpus of mainstream economics.)。
しかしながら、市場プロセスを通した資本主義の正の貢献について明らかにされ解説されてゆくと共に、その負の側面も明らかにされていった--しばしば同じ分析者達によって。社会主義者である多くの批判者達、とくにカール・マルクスによって、資本主義の批判と最終的にそれを破棄すべきという影響力をもった議論がなされたが、市場経済と利益誘引に完全に頼る事からの大きな制約はアダム・スミスにすら明らかであった。実のところ、スミス自身を含めた市場利用の初期の提唱者達は、純粋な市場メカニズムが自律的に優れた成果を上げるとは考えなかったし、利益誘引だけが必要なのだともしなかったのだ(Indeed, early advocates, including Smith, did not take the pure market mechanism to be a freestanding performer of excellence, nor did they take the profit motive to be all that is needed)。
人々が取引を行うのは自己利益のためだが(スミスの有名な言葉の通り、パン屋、酒屋、肉屋、そして消費者が取引を望むのを説明するのに、自己利益以上のものは必要はない)、しかしながら経済はその参加者の間での信頼を基礎として初めて効率的に働く事ができるのだ。銀行やその他の金融機関を含めたビジネスの活動が、彼らがその約束するところのものを行う事ができかつ行うのだという信頼を形成するに足りる時に、貸し手と借り手の間の関係が両者の得になる形でうまく成立する。アダム・スミスはこう述べている:

どんな国の人も、銀行家の資産、誠実性、そして慎重さに対してそういった信頼を寄せている時に、その銀行家はいつでも約束手形について支払いができるのだと信じるようになる。手形をいつでも換金できるという信頼から、そういった手形は金貨や銀貨同様の通貨となるのだ*2
(正直、訳文に自信がないので原文も載せときます。"When the people of any particular country have such confidence in the fortune, probity, and prudence of a particular banker, as to believe that he is always ready to pay upon demand such of his promissory notes as are likely to be at any time presented to him; those notes come to have the same currency as gold and silver money, from the confidence that such money can at any time be had for them.")

スミスはなぜ時折、これが実現しないのかについて説明している。そして、私が想像するところ、貸出市場を凍りつかせて信用の調整された創出を阻んでいる恐怖や不信の拡大のせいでビジネスや銀行が今日直面している困難について、彼は特別当惑するようなことを見出しはしないだろう。
さらにこの文脈において、スミスが多くの文章の中で、貧者と不遇な者の境遇について寄せた重要な関心--そして心配--は非常に顕著なものであった事を述べておくべきだろう。とくに「福祉国家」は彼の時代からはるかに経ってから発生したのであるから。市場メカニズムのもっとも明白な失敗は、市場が行わない事の中にあるのだ。スミスの経済分析は、すべてを市場メカニズムの見えざる手に任せる、などというものではまったくない。教育や、そして貧困救済(彼の時代の救貧法から救済を受けていた貧者の為のずっと大きな自由を要求する事と共に)といった公共サービスの提供についての国家の役割を弁護したに止まらず、彼はまた不平等や貧困が、その他の点では成功している市場経済においても存続しうることについても深く懸念していた。
市場の必要条件と十分条件の間の明瞭な区別が存在しないことが、スミスの市場メカニズムの評価についての彼の弟子を自称する多くの者達の誤解の一部の理由だろう。たとえば、スミスの食糧市場の弁護と食用穀物の民間取引への国家規制に対する彼の批判は、しばしば国家によるどんな介入も必然的に飢えと窮乏を悪化させると主張していると解釈されてきた。
しかし、スミスによる私的取引の弁護は、食料の取引をやめさせれば飢餓の程度が減少するという考えに異議を挟むものでしかなかった。それは職と所得を創出する事(たとえばワークプログラムなどを通して)で市場の活動を補う為の国家による活動の必要をいかなる点においても否定するものではないのだ。もし失業が悪化する経済状況によってか、あるいは誤った公的政策によって急増したならば、市場はそれ自身ではその職を失った者たちの所得を保障してはくれない。新しい失業者達は、スミスが述べるところによると、「飢えることになるか、あるいは物乞いによってか、それとも無法の行為を犯すことによって糧を得る事を余儀なくされることになるだろう、」そして「困窮、飢餓、そして死がすぐさま勝利することになろう...」*3。スミスは市場を排除する介入には反対した--しかし市場が置き去りにするやもしれない重要なものを対象とした、市場を内包する介入には反対しなかった。
スミスは「資本主義」という言葉を使ったことはなかった(少なくとも私の知る限りでは)が、しかし彼の著作から市場の力だけで十分である事を主張する理論を、あるいは資本の支配を受け入れるべき必要を刻みだすのもまた難しい事だ。彼は諸国民の富においても利益を越えたより大きな価値の重要性について語っている。しかし、彼が利益追求を超えた価値に基づいた行動の強い必要性について徹底的に探求したのは、丁度250年前の1759年に出版された感情道徳論においてであった。「慎重さ(Prudence)」は「多くの美徳の中でも個人にとってもっとも価値あるものである」と彼は書いているが、さらに進んでアダム・スミスは「慈悲、正義、寛大さ、そして公共心、が他者にとってもっとも価値ある特質である」と主張している*4
スミスは市場と資本がその領域の中においてよき事を行うとみなしていた。しかしまず第一に、それらはその他の制度--学校のような公共サービスを含む--からのサポートと純粋な利益追求以外の価値を必要としたし、第2に、不安定性や、不平等、そして不正義を防ぐ為にさらに他の制度による抑制と矯正--たとえば、よく整備された金融市場の規制や貧者への国家からの救済--を必要としていた。もし我々が多様な公共サービスのプラグマティックな選択とよくできた規制を含む経済活動の組織化の新しいアプローチを求めるのならば、我々はスミスが資本主義の弁護と批判の双方を行いながら概説した改革のアジェンダから離れるのではなく、それを追わなければならないだろう。
3.
歴史的には、法と経済の慣習の新しいシステムが財産権を守り、所有に基づいた経済が活動可能になるまで、資本主義は発生しなかった。商業的交換は、ビジネス道徳が契約履行の行動を維持可能で高くはつかないものとするまで--たとえば、債務不履行者を常時訴えることが必要ではなくなるまで--実際的なものにはなれなかった。生産的ビジネスへの投資は、腐敗*5からの高い報酬が抑えられるまでは、盛んになる事はなかった。利益追求の資本主義はいつでもその他の制度的な価値からのサポートに頼ってきたのだ。
取引に関連した道徳的そして法的義務と責任は、近年、デリヴァティブやその他の金融手法に関した流通市場の急速な発展によって、その所在を突き止めるのが難しくなった。借り手が愚かなリスクをとるようにミスリードしたサブプライムの貸し手は、今ではその金融資産を第三者に引き渡してしまう事ができる--その取引の起こったところからははるかに離れたところのだれかに。説明責任はひどく損なわれてしまい、そして監督と規制の必要は大きく増した。
しかしながら、特に合衆国において、政府の監督としての役割はこの同じ期間に大きく抑制されてしまった。市場経済の自己規制の本質についての増大した信念によってである。国家による監視の必要が増したその時に、必要な監督が後退したのだ。その結果、悲劇が起こるのを待つだけとなり、最終的に去年、その悲劇は起こってしまった。そして、これが確実に、今日の世界を脅かしているこの金融危機に大きく貢献したのだ。金融活動の不十分な規制は非合法な活動を生んだだけでなく、過剰な投機への傾向を生みだしてしまった。これは、アダム・スミスが主張したように、多くの人間を間断なき利益の追求へと向けさせるものである。
スミスは利益追求のために過剰なリスクをとるものを「浪費者と(幽霊会社の)発起人(prodigals and projectors)」と呼んだが、これは過去数年におけるサブプライムモーゲージ証券の発行者達をとてもうまく表している。たとえば、高利貸しを規制する法についての議論の中で、スミスはまともではない貸し出しを促進しようとする"prodigals and projectors"から市民を守る為の国家による規制を求めている:

一国の資本の多くの部分が、このようにして、利益を生む優れた利用をもっとも行いそうな者の手に届かず、浪費と消耗をもっとも行いそうな者へと渡されるのだ。*6

自身を修正することに関しての市場経済の能力への暗黙の信仰、これが合衆国において確立されていた規制の撤去の大きな理由であるが、それがアダム・スミスを驚かすようなあり方でprodigals and projectorsの活動を見過ごさせたのだ。
現在の経済危機は、市場プロセスの知恵への大きな過大評価によって部分的に生みだされたものである。そしてその危機はいま、金融市場とビジネス全般への信頼の欠如と不安によって悪化しつつある。これは、オバマ新政権によって2月に成立した7870億ドルの計画を含む一連の景気刺激策への市場のリアクションからも明らかな反応である。実際のところ、こういった問題はスミスによって18世紀にはすでに明らかにされていた。近年、権威・権力を持っていた人々、とくにアメリカにおいてそうであった人々、そして抑制されざる市場を支持する為にアダム・スミスを持ち出すのに忙しかった人々からは無視されていたが。
4.
アダム・スミスは近年、あまり読まれてはいなかったとしても、非常によく持ち出されてはいたわけだが、さらに最近になってジョン・メイナード・ケインズの非常に大きなリバイバルが起こっている。今現在我々が目にしているこの怒涛の景気悪化、我々を恐慌へと送り込みつつあるこれには、間違いなくケインジアン的な特徴がある;一つのグループの人達の所得減少が、彼らによる購入の減少となり、それが次に別のグループのさらなる所得減少を引き起こしている。
しかし、ケインズは非常に限定的にしか我々の救い主になる事はできないだろう。現下の危機を理解するには彼を越える必要があるのだ。現状への重要性があまり認識されていない経済学者の一人が、ケインズのライバルであったアーサー・セシル・ピグーだ。彼はケインズと同じ時に、ケインズ同様、ケンブリッジ、それもおなじキングズ・カレッジにいた。ピグーは経済心理とそれがいかに景気循環に影響し、不況を悪化させたり深刻化させて、恐慌に向かわせる(まさに今、我々が目撃している通り)かについて、ケインズよりも大きな関心を持っていた。ピグーは、景気の変動を部分的に

産業をコントロールしている人達の心のありようを変化させ、彼らのビジネスの将来予想における根拠なき楽観主義や根拠なき悲観主義の過ちへとつながる*7

「心理的な原因」に帰していた。
今日、相互強化的な悪化のケインジアン効果に加えて、我々が大きな「根拠なき悲観主義への過ち」に見舞われていることを無視するのは難しい。ピグーは、経済が過剰な悲観主義に覆われている時に、凍りついた貸出市場を溶解させることの必要性に特に注目していた:

ゆえに、その他の事柄が同じならば、銀行からの借り入れが、需要の危機のなかで、より容易であるかそうでない[かに]応じて、事業の倒産の実際の発生が少なくなったり多くなったりすることになる*8

主に政府からの、アメリカとヨーロッパ経済への大規模な流動性の注入にも関わらず、銀行と金融機関はこれまでのところ貸し出し市場の溶解に乗り気ではない。そしてその他のビジネスは倒産していっている。すでに減少した需要の為に(ケインジアン「乗数効果」のプロセス)、そしてまた一般的な陰鬱な雰囲気のなかでの将来のさらなら需要の減少の恐れの為に(感染する悲観主義のピグー・プロセス)。
オバマ政権が対応しなければならない問題のうちの一つは、金融のミスマネージメントとその他の逸脱行為から発生したこの実物経済の危機(real crisis)が、心理的な崩壊によって何倍にも拡大されたことである。貸出市場を再生させる為にワシントンおよびその他で今現在議論されている方法には、救済--救済を受けた金融機関が実際に貸し出しをおこなうという確実な保障とともに--政府による不良債権の買取、債務不履行への保険、そして銀行の国有化などが含まれている。(この最後の提案は多くの保守派を恐れさせている。丁度、銀行へ与えられた公的資金が民間人によってコントロールされることに人々が説明責任についての心配をするように。)これまでのところの政権の対策に対する市場からの乏しい反応からも明らかだが、これらの政策は部分的には、ビジネスと消費者の心理へのインパクトによって評価されなければならないだろう。とくにアメリカにおいては。
5.
ピグーケインズとの間の対比は、そのほかの理由によっても重要である。ケインズは総所得をどのようにして増やすかという疑問に深く関わっていたが、彼は富の不平等な分配と社会的厚生問題の分析には比較的関わる事はなかった。対照的に、ピグー厚生経済学の古典となる研究を行っただけでなく、経済不平等の指標を経済の評価と政策の為の主要なインディケーターとする先駆者となったのだ*9 各国の経済において--そして世界全体でも--もっとも貧しい人達の苦しみこそがもっとも緊急の注目を必要とするのだから、ビジネスと政府の間でのサポーティブな協力の役割は経済の相互の協調による拡大だけに止まることはできない。現在の危機への対応を計画する中で、社会の中の恵まれない者へ特別の注意を払い、経済の全体としての拡大の為の手段以上のことを行う決定的な必要があるのだ。失業、医療処置の欠落、そして経済的および社会的な貧窮などによって脅かされている家族が特にひどい害を受ける。彼らの問題への対処に対するケインズ経済学の限界はより認識されるべきである。
ケインズが補われるべき三つ目の点は、彼の社会サービスへの相対的な軽視についてである。市場経済が公共財(教育や医療のような)の供給には特にダメなものであることは、我々の時代の、ポール・サミュエルソンやケネス・アローを含む何人かの主導的経済学者によって議論されてきた。(ピグーもまたこの主題には、市場取引の「外部効果」への強調によって貢献をなした。「外部効果」とは、取引の利益と損失を受けるのが直接の買い手と売り手だけに限られない状況である。)勿論、これは長期的な主題であるが、医療がすべてのものに保証されていない場合、景気後退の牙はいっそう鋭くなる事は述べておくべきだろう。
たとえば、全国民への健康サービスの提供がない場合、すべての失業は、所得の減少の為か、あるいは雇用ベースの民間医療保険を失ってしまう為に、基本的な医療からの大きな排除を生み出す。合衆国の失業率は今のところ7.6%であるが*10、これは大きな貧窮を引き起こし始めている。数十年に渡ってより高いレベルでの失業を抱えているフランス、イタリア、そしてスペインなどを含むヨーロッパ諸国がどのようにしてクオリティー・オフ・ライフの全般的な崩壊を避けてこれたのを問うのは意味がある。その答えは、部分的にはアメリカのそれよりもずっと手厚い失業保険などのヨーロッパの福祉国家のありようであるが、より重要なのは国家によって全国民に基本的な医療サービスが提供されている事である。
全国民への医療ケアの提供についての市場メカニズムの失敗はひどいものである。これは特に合衆国において顕著だが、中国においても、1979年の国民皆保険の廃止によってその健康と寿命の改善に急激な停止がおこった。その年の経済改革以前には、すべての中国市民は国家か、もしくは協同組合によって、かなり基本的なものではあっても、ヘルスケアが保障されていた。中国がその集団農業とコミューン、そして官僚によって運営される産業組織(agricultural collectives and communes and industrial units managed by bureaucracies)の非生産的なシステムを捨て去って以来、その国内総生産の成長率は世界のどんな地域のそれよりも高まった。しかし同時に、市場経済への新たな信仰に導かれて、中国はまた国民皆保険の制度も廃止した;1979年の改革の後、健康保険は各個人によって購入されなければならなくなったのだ(国家や、いくつかの大企業がその被雇用者と扶養家族に提供する比較的まれなケースを除いて)。この変化によって、中国の寿命の急速だった改善が急激なスローダウンをこうむった。
これは中国の総所得がすさまじい速さで成長している時ですら問題であった。その中国経済が急速に減速すれば、それはより大きな問題となるだろう。そして今、減速しているのだ。中国政府は皆保険の再導入をゆっくりと進める努力を行っている。そしてオバマの下でのアメリカ政府もまた全国民が保険でカバーすることを目指している。中国と合衆国双方共に、その改正の為の道のりは遠い。それが経済危機への対処における、そして双方の社会の長期的な変革を実現するなかでの中心要因であるべきなのだ。
6.
ケインズのリバイバルは経済分析と政策の双方へ多大な貢献をなしえるものだが、その網はより広くひろげられるべきである。ケインズはしばしば当時の経済学における「反逆者」のようなものであったと見られるが、事実としては、ケインズは新しい資本主義のグルのようなものに近かったのだ。彼は、市場経済の変動の安定化を目指していた(景気変動の心理的原因について比較的、注意も向けないまま)。スミスとピグーはどちらかというと保守的な経済学者という評判を持っているが、非市場的制度と利益以外の価値の重要性についての深い洞察の多くは、ケインズとその追随者からではなく、彼らからもたらさてきたのだ。
危機は直面すべき目前の挑戦というだけではない。それは人々がこれまでの行動について再考する気持ちを持つようになり、長期的な問題に対処する機会も与えてくれるのだ。これこそが、現在の危機が、環境の保全や国民健康保険などこれまで軽視されてきた長期的な問題に取り組むことを重要としている理由なのだ。また長期的問題には公共交通機関も含まれる。これは過去数十年においてまったくもって軽視されてきたが、今私がこれを書いている時点でもまた、脇に置かれているようだ。オバマ政権の初期に公表された政策に入っていたのにも関わらず。経済的な実現可能性は、当然ながら重要だが、インドのKerala州の例が示すとおり、国家による皆保険は比較的小さなコストで可能であったりもするのだ。1979年に中国が国民皆保険をやめて以来、Keralaは--こちらは皆保険を維持した--平均寿命と乳児死亡率などの指標において中国を大きく抜き去ってしまった。ずっと低い平均所得にもかかわらずである。つまり、貧しい国にも機会はあるのだ。
しかし、最大の挑戦は合衆国が直面するものである。合衆国は、世界の国々のなかで一人当たりの健康への支出がすでに最高になっていながら、これまで健康に関して相対的に低い成果しか挙げておらず、さらに4000万人以上の人達が医療ケアの保障を持っていない。この地におけるその問題の一部は、公衆の傾向と理解の問題である。国民保険サービスがどのように働くものなのかについての非常に歪められた認識は公共の議論の中で正されなければならない*11たとえば、ヨーロッパの医療サービスでは医師を選ぶ事ができないのだと一般に考えられているが、これはまったくの間違いである。
しかしながら、既存のオプションについてのより良い理解の必要もまたある。合衆国における健康保険改革の議論のなかでは、カナダのシステムへと関心が集中しすぎている。それは民間の医療ケアの存在を非常に難しくしている公的健康ケアのシステムである。しかしながら、西ヨーロッパにおいては、国家による健康サービスが全国民に提供されているが、国家による保障に加えて、お金があってそれを使うことを望むものへの民間による医療行為と民間の健康保険もまた許容しているのだ。ヨットやその他の贅沢品に金を自由に使うことのできる金持ちが、その代わりにMRIやCTスキャンへ金を使ってはいけない明らかな理由はない。もし我々がアダム・スミスによる制度の多様性と、多様な動機の調整のための議論の例に倣うならば、導入すれば我々の住む世界に大きな違いをもたらすような、実行可能な方法があるということだ(If we take our cue from Adam Smith's arguments for a diversity of institutions, and for accommodating a variety of motivations, there are practical measures we can take that would make a huge difference to the world in which we live.)。
現在の経済危機は「新しい資本主義」の必要を意味しない。私はそう考える。だが、それは、たとえばスミスのものや、より我々の時代に近いピグーのものといった昔のアイデアの新しい理解を要求するのだ。その多くは悲しいかな、顧みられてこなかったのだから。また同様に必要なのは、異なる制度が実際のところどのように働くのか、そして多様な組織--市場から国家の制度までの--が短期の解決を超えてより良い経済世界を作り出す為にどういった貢献ができるのかについての冷静な認識である。

2009年2月25日

*1:原文は勿論"economists"です。これを経済学者と訳すかエコノミストと訳すかで日本語では全然意味が変わってしまいます。景気予測を行うeconomistsの大半はacademic economistsではないだろうと思いますので、「エコノミスト」と訳しておきましたが、日本語のエコノミストって実のところ経済関係の評論家の意味に過ぎない気はしますから、これでもちょっと意味がずれてるかもしれません。

*2:原注1:Adam Smith, An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, edited by R.H. Campbell and A.S. Skinner (Clarendon Press, 1976), I, II.ii.28, p. 292.

*3:原注2:Smith, The Wealth of Nations, I, I.viii.26, p. 91.

*4:原注3:Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, edited by D.D. Raphael and A.L. Macfie (Clarendon Press, 1976), pp. 189–190.

*5:レント・シーキング行為。

*6:Smith, The Wealth of Nations, I, II.iv.15, p. 357.

*7:A.C. Pigou, Industrial Fluctuations (London: Macmillan, 1929), p. 73.

*8:Pigou, Industrial Fluctuations, p. 96.

*9:原注7:A.C.Pigou, The Economics of Welfare (London: Macmillan, 1920). 経済的不平等に関する現在の研究は、A.B.Atkinsonの主要な貢献も含めて、ピグーの先駆的な研究にかなりの程度、インスパイアーされたものである。Atkinsonをみよ、Social Justice and Public Policy (MIT Pressm 1983).

*10:3月発表の2月の失業率は8.1%。

*11:保守派と保険会社、それから医師会などによって、国民皆保険制度の国では人々は劣悪な医療サービスを受けているというデマが普通に流されている。それそもアメリカでは医療サービス自体を受けられない人達がいるというのに。