P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

ハインライン:1941年第3回世界SF大会スピーチ (2)

ふう、なんとかギリギリ約束したとおり、日曜日にアップする事が出来ました、と書いているうちに、12時を過ぎてしまった...もう月曜だよ。
できれば最後まで訳したかったんですが、後4ページ半ほど残ってしまいました。
なんとか近日中に仕上げます。
なお、一応書いておきますが、このスピーチは1941年、すでにヨーロッパでは第二次大戦が始まっており、アメリカも参戦近しの時期に行われたものです。スピーチ中の世界が狂気に...というのはそういう世界情勢を背景にしたものです。


ハインライン:1941年第3回世界SF大会スピーチ(2)未来の発見
サイエンス・フィクションにおいて、我々はそういった変化がどういうものになるかを想像しようとします。その推測は大抵はずれてしまいます。まず間違いなく、はずれてしまうようなものなのです。しかし、人よりもデータをより良く把握できる一部の人たちは、非常にうまくやってのけたりもします。H.G.ウェルズ、彼はおそらく、ほとんどのサイエンス・フィクション作家よりもずっと(10倍か、あるいはそれ以上)物事を知っているのでしょうが*1、彼はその予言のいくつかで非常な成功を収めています。我々の大半はそんなに幸運ではないでしょう。
私は私のいわゆる未来史が実現するなどとは思っていません。その中の趨勢のいくつかは実現するのではないかと考えていますが、しかし私のより具体的な物事についての予測が、たとえかなり大まかにみてすら、実現するとは思っていません*2
あなたがこういった事を一般の人たちに話したとしましょう。つまり、物事は変化するのだと言ったと。その人は同意するでしょう。しかし彼はその事を、実はまったく信じてはいないのです。それを上っ面だけ理解しているだけなのです。「進歩」について信じているのでしょう。色々なものが少しだけ大きくなり、より騒がしくなり、より鮮やかになり、いくつかのネオンサインがつけられるのだと、考えているのでしょう。しかしその人は、自身が生きている文化の基本的な性質が、あるいは技術が本当に変化するとは信じていないのです。
飛行機は、と彼は考えます、当然だろう、と。しかしあの気違いじみたロケットなんて!ロケットが飛ぶことなんて出来はしない。押すものが何もないじゃないか*3。彼はこんな風に考えるわけです。
ロケットなんていつまで経ってもできはしない。そんなものは安っぽい新聞のバック・ロジャーズ*4用のものだ。彼はロケットができるなんて信じてはいないし、まして最も想像力のあるサイエンス・フィクション作家ですら思いついたり考えたりできない、ロケットですら原始的なおもちゃに見えてしまうような何かが現れるだろうとは考えもしないのです。ロケットは私が受け入れる限界であります*5が、それは、他の可能な移動手段や機械で、十分なデータや、無理のない推測ができるものがないからです。
しかし同じ人間が1910年には、飛行機すら信じてはいなかったのです!
私はもっぱら技術的な変化について話しています。これはそういったものが、社会的な、あるいは文化的な変化や、われわれの慣習の変化のような明瞭でないものよりも示しやすく、指摘しやすいからです。そういった変化にも、指摘する事が可能なものはあります。いま、一つを指摘してみましょう。"syphilis(梅毒)"という言葉は公共の場ではたった15年前でも使う事はできませんでした。
しかし今、私が使ったとき、この場でショックを受けた人はいなかったようです。だれも気にしなかったわけです。レディーズ・ホーム・ジャーナルですらそれについての記事を載せています。この点について我々は20年前と比べて少しばかり文明的になってきているわけです。我々の祖父たちはその言葉を下品だとみなしました。上品なもの、下品なものは絶対の基準によって判断されると祖父たちは信じていました。それが自然の法であると信じていたのです。我々の周囲にいる人々の大半はいま、品位についての彼らの判断基準が絶対のものだと信じています。それは変わる事がなく、正しいものがあり、間違ったものがあるのだと信じています。彼らは未来についての予測を立てられるほど、過去の歴史を知らないのです。
これに関連して、いくつかの卑猥な言葉を言ってみる、ということもできます。今はまだ卑猥な言葉を、です。いまより20年後、この同じ演壇に立ってその言葉を使ってみても、この会場でなんのショックも起こらない、といったことはとてもありそうだと思います。
物事は変わるからです。我々が今日、下品すぎると考える言葉が、今より20年後には、ただのタグに、つまりなんの感情的な含意も持たない用語になっている事は大いにありそうです。
とても多くの物事に急かつ劇的な変化が起こっている時期に、我々は生きています。そういった変化に備える事は非常に重要であると私は思いますし、その理由からサイエンス・フィクション・ファンは周りの一般の人たちよりも、未来に直面する準備ができていると私は考えます。なぜなら変化というものを信じているからです。
この点について、私はサイエンス・フィクションは、たとえもっともつまらないものでも、もっともばかげたものですら、どれほどひどく書かれていようとも、治療的な価値があると思うのです。なぜなら、のサイエンス・フィクションは、そのもっとも重要な前提として、世界は変わるとしているからです。この考えの重要性を私は強調してしすぎるという事はできません。
それを信じていないならば、もしそれに備えていないならば、私は皆さんがしていると知っていますが、このごろでは正気を保つこともできなくなっています。もし人が予測を立てては、何度も何度も間違い続けるのならば、気が狂ってしまうでしょう。機能的に狂ってしまいます。この事は、実験で何度も証明されています。人間に関しても証明されてきていますが、私は動物に関しての事例を紹介しましょう。
ねずみについてのよく知られた実験では、ねずみはその予測がはずれて何度も失望を味わう事になり、狂ってしまいます。人間でも同じようになるのです。動物でそうだったからといって人間でも必ず同じようにならなければならないわけではないのですが、この場合はそうなると証明するデータがあります。変化を信じる事ができないならば、あなたの予測は絶対的に間違いなくあなたを失望させます。それはこのグループ*6には当てはまりませんが、とても多くの人たちには当てはまります。
この理由により、私は我々が、人類種の相当の部分が、狂気ではないとしても正気でもない状態にある時期を生きていると考えています。今日の世界の多くで、そうなっているのがみられます。もう何年にも渡って、それがやって来るのを我々は見てきたと思います。1929年には、起こる事があまりにも明らかだった事、文化の顔の上に刻まれていたことを予見できなかったが故に、市場が崩壊し、人々が窓から飛び降りました*7
大恐慌がやってきて、精神病院はまた一杯になりました。そこまで能天気でない方々は、musical chairsでもってみんなを金持ちにする徹頭徹尾非科学的な仕組みを夢想し*8、すこしばかり正気を失いました。完全に狂っているわけではありません。彼らは周りを見回して、ちゃんと路面電車に乗り込み、目的地にたどり着くことができました。しかし、完全に正気でもなかったのです。もしそれがずっと続くなら、誰ものぞまない集団狂気の状態に陥ってしまいえます。
けれども、我々サイエンス・フィクションの愛好者は、私が思いますに、他の人たちよりもそういった事にずっとよく備えています。人種についての狂気、mass psychoses、ヒステリー、maniac depression、 パラノイアの時期の間も、変化というものを信じている人間ならば耐え、判断を保留し、慎重になり、事実をしらべ、そして害をあまり受けないでいる事も可能でしょう。それでも我々の周りの状況に流されてしまう事、それも非常に不快なことについてそうなってしまう事もあるでしょう。けれども、こういった事に関して我々を笑うとても多くの人たちには耐える事ができないのではないかと私がとても恐れている事についても、我々には望みがあります。
重要な事は、あなたの正気にしがみつくこと、世界にどれほど酷い事が起ころうとも、その間、なんとか正気を維持することです。個人として、我々にはそのことに対して何かをするのは難しいでしょう。我々みんなが、自身の善良な心に従い、それぞれのやり方でなんとかしようとはしていますが。しかし、いまのこの世界における一連の戦争は、次の5年、次の10年、20年、続くかもしれません。50年続くかもしれないのです。あなた方も私も、その終わりを見る事はないかもしれません。
私は個人的に、願望ではありますが、私の残りの人生が比較的平和で安楽なものとなるように、これができるだけ早く終わってくれることを願っています。しかし、私は楽観的ではありません。そういった期間の間、自分をキチンと律しておく事は本当に難しいことです。しかし私は、我々が他の人々よりもましな準備ができていると思います。
私はこの場では、政治集会においてよりもずっと自由に話す事ができます。非常に限定的な集団ですから。多くのサイエンス・フィクション・ファンを知っていますし、彼らについて、統計的な観察も行ってきました。その多くは他の集団と比べて若く*9、また多くが非常に早熟です。とても聡明であるのです*10。私は典型的なファングループにIQテストをしてみたいと、とても思っています。
しかしIQテストがなくても、ここの大半の人々は、平均をずっと超えた知性を備えている事を知っています。そう判断できるだけのデータを持っています。おだてようなどとしている訳ではありません。そんな事には興味がありません。私は、あなた達がとても鋭い頭をもっているという事実にこそ興味があります。しかし、この事には、我々を、私自身も含めていますが、とても冷淡に、より無感動にしてしまう危険があります*11。予測をできるのでなければ、我々は周りの人たちよりもさらに機能不全*12に陥りやすくなります。
もちろん、私はいまお説教をしています。わかっていますよ。私はこのスピーチを、気の聞いたセリフと、物語やら思い出話で埋めることもできました。しかし私はこの事について非常に真剣に考えています。ですので、もしもう何分かお付き合い願えるなら、さらに話させていただきたいと思います。
今、起こっている事、そしてこれから起こる事から、我々を、そして残りの人類を守る脱出法が、なにかが存在しています。それは非常にシンプルで、そしてまさに我々に合ったもの、つまり科学的手法の利用です*13
研究所で用いられているような科学的手法の事を言っているわけではありません。我々の日常生活、一日24時間の間の様々な深刻な問題、自分の歯を折らないようにするとか*14、を避けるために使える科学的手法のことです。
その科学的手法によって、何を言わんしているのか述べるべきでしょう。それを言葉でもって定義しなければなりませんから、外延的定義(extensional definition)を使った場合ほどクリアにはできません。しかし私が科学的手法により意味しているのは、比較的単純なことではあります。それは、あなたの周りで起こっている事をみる事ができる能力です。耳にした事を聞き、観察し、事実を知り、判断を留保し、そして予測を立てることです。それが、本当に、科学的手法の全てです。事実と事実でないことを見分けられる、ということです。
私は「事実」という言葉を使いました。私はそれを技術的な意味で使っています。事実によって何を意味しているのか、述べておくべきでしょう。事実とは、この瞬間、1941年の7月4日以前に起こった全ての事です。この瞬間以後の事はすべて事実ではありません。ほとんどの人達はこれらを区別していません。彼らは、明日の朝も起きて朝食を食べる事を事実だと考えています。彼らは事実と事実でないものとを完全に混同してしまっており、そしてとくに最近では、人々は事実と理論、主義と科学、その他のいわゆる「自然の法」、それが何なのかはその年ごとに違いますが、そういった物事を混同してしまっています。
事実とフィクション、事実と事実でないものの違いは、我々にとって今、非常に重要なものです。それはサイエンス・フィクションの分野においても激しい論争のもととなりました。私は例を示したいだけなのでどの運動も、どの人物も名指しませんが、私としては、サイエンス・フィクション分野が「事実」という言葉を非常に頻繁に使う半政治的な運動*15によって最近騒がしくなっているという事実に目を向けてもらいたいと思います。彼らは、事実という言葉を、彼らが何であるか、彼らが未来においてこうなると予測する事に対して使っています。それらは事実ではありません。そして事実と事実でないものについて、はっきり歴然とした区別をつけないどんな運動、組織、理論も、どれほど甘く判断しても科学的な運動とは呼ぶ事はできません。科学的手法を使っていないのですから、単純に違うわけです。彼らの用語がどれほど難しげでも、あるいは彼らがどれほど科学っぽい言葉(argot)を使おうと。
さて、ここからちょっと話しを脱線させなければなりません。するつもりだった話から、少しばかり離れてしまいました。
サイエンス・フィクションと、人々からの嫌になるほど多くのたわごとをあなた方と私が耐えなければならないという事実に関して、私はもう一つコメントしておきたいと思います。それついての伝統的な見方の故です*16
なぜ歴史小説がもっとも賞賛され、もっとも尊いとされる文学形態なのか、私はちゃんと理解できた事がありません*17。現代小説がそれに次ぎます。しかし歴史小説は、もしあなたが歴史小説を書くならば、それは文学なのです。
私はサイエンス・フィクション雑誌に掲載されたもっともくだらない駄文ですら(そしてご存知のように、それらのいくつかは素晴らしすぎる、というようなものではありません。私自身のものにも、素晴らしすぎないものがあります)、Anthony Adverse*18の亜流風と共にに去りぬの亜流のこれまで出版された全てに勝っています。なぜなら少なくともそれには、未来を予測しようというまさに人間的な試みが含まれているからです*19
文学の批評家や英文学の教授達、文学において何が良くて何が悪いかを判断する事を仕事にしている人達、はその先祖がFillyloo Birdと関係があったのだろうかと思ってしまいます。Fillyloo Birdはご存知ですよね*20。どこに行くのかには興味がないけれど、これまでいたところは見たがるので、後ろ向きに飛ぶ鳥のことです。
科学的手法の行い方(fashion)、つまり身の回りで起こっている事を観察すること、他人の意見を鵜呑みにするのではなく、自分の目で観察し、判断するに足るデータが集まるまで判断を保留すること、これはこれまでの歴史の中の、そしてこれからのどんな酷い時期だけでなく、たった今でもあなたにとって価値のあることになりえます。
それがあなたの歯を守ってくるかも、という事はすでに述べました。これは重要な点です。そうなるのは、係わっていたかもしれない論争や議論から遠ざからせてくれるからです。もしあなたが科学的手法を使おうとは明らかにしていない人、あるいはいったいどうやってそれを使うのかを知らないような人、あるいは日常生活でどう使うのかを知らない人と話すことになったならば、その人物と議論などしてはいけません。その人と議論したところで得るものなど何もなく、その人を納得させることなどできるものではないのです。話を聞く事はできますし、それでその人からなにか新しいデータを得れば、その後の事についてより良い予測ができるようにはなるでしょう。その人がどう反応してくるかについてのより良い予測ができるようになる、というだけであっても。
他にも利点はあります。自分自身を冷静に落ち着かせて、それで少しばかりハッピーになれます。たとえば、科学的手法を使う人は反ユダヤ的にはなりようがありません。それがこのところの世界において多大な問題を引き起こしていますので、その例を取り上げたいと思います。なぜその人は反ユダヤ的になれないのでしょう?非常に単純な理由によってです。十分なデータがない為、結論が出せないのです。たとえどれほど長生きしようと、全てのユダヤ人について知れはしないのですから、全てのユダヤ人を憎む事はできません。データもなしに結論はだせませんから。個々のユダヤ人を憎む事は可能です。それは個々のアイルランド人を憎んだり、個々のロータリークラブの会員を憎んだり、一人の男や、一人の女を憎んだりできるのと同じことです。
しかし反ユダヤにはなれないのです。全ての資本家を憎むこともできないし、全ての労働組合を憎むことも、全ての女性を憎むこともできません。女嫌いにはなれないのです、科学的手法を使っているなら。無理なんです、全ての女性を知っているわけないのですから。何かのグループについての結論をだすのに十分なだけの比率のメンバーを知ることもないでしょう!
同じ推論により、なにについても憎むのは非常に難しくなります。そしてもし憎しみをあなたの人生から締め出してしまえたなら(あるいはかなりの程度そうできたなら。私自身、私の中からすべて締め出しておくことなどできません。時折私も、座って頭と肩をたたいて、自分を静めなければなりません。ともあれ、これはあなたへの助けにはなってくれます。)もしあなたが憎しみを自分の人生から締め出すことができるなら、歯を折られるような事を避けることもできるでしょう。多くの困難を避け、よりよく自分の面倒をみる事ができるようになります。
科学的手法を使う人は、全ての政治家が悪人だとは信じられなくなります。たった一つのデータがその一般化を損なってしまう事を知っているからです。この点について、一つデータを提供しましょう。ジョージ・ノリス上院議員*21は、あなたが彼の事を好もうが好むまいが、この地上の聖人であります。彼の意見に賛成するかどうかはともかく、彼は悪人ではありません。
さて、どの事についても自分の意見が完全に固まることがないわけですから、科学的手法を使う人物は議論から距離をおき、睡眠を失わせ胃をいためさせる感情的な混乱を避ける事ができます。ヘルペスのようなものにはかかるでしょうが−−ああ、私は医者ではありません。しかし人が避ける事のできる、とてもうまく避ける事のできる機能不全は一杯あるのです。
科学的な人の日常生活はこんな感じになります。私の意見ではありますが、そういった人はこの時代をうまく生き延びて、豊かで幸せな老後を迎える可能性が高くなります。しかし、科学的手法の利用は科学についての正式な教育に依存するものではない事を、はっきりさせておきたいと思います。それは態度とものの見方であり、情報の集積ではないのです。日常生活で科学的手法を使うには、公式な教育を受けている必要はまったくありません。私は専門家によって集められた科学的情報の集積や、同様に膨大な、利用可能の歴史的、社会的なデータを貶めているわけではありません。残念ながら、我々はその大部分には接することもできません。しかし我々はそれでも科学的手法を使う事ができます。あなたが多くの教育を受けていようがいまいが、多くの個人的データを集める時間があろうがあるまいが*22
科学的訓練を受けるということについて、「数学の事をもっと知っていたらなぁ」とか、「物理をもっとわかっていたら」とかファンクラブの人達が言うのを私は聞いてきました。専門的知識を十分持っていないから、なにかの物語を完全には鑑賞することができなかった、という嘆きです。難しすぎる分野もありますし、学校でちゃんと学ぶ事ができなかったということもあるでしょう。そういうことには非常に同情するものです。
私はその事を矮小化しようとしているとか、そういうことではありません。私は自分が少なくとも双子、できれば三つ子でなかった事が残念でならないのです。もしそうだったなら、興味のある多くの事を学ぶ時間があったのにと*23。そして私はあなた達の多くも同じように感じていることを知っています。人生はあまりにも、短い、だけではなく、狭い、と。我々はなんとかうまくやって、学びたいこと全てを学ぶには十分な広がりも、十分な時間も持っておらず*24、そしてこの世界の完全な姿を理解するのは我々にはほぼ不可能であります。

*1:H.G.ウェルズは1946年に亡くなっているので、1941年のこのスピーチ時点ではまだ存命。

*2:原文"I do not think that my fatual predictions as such are going to come to pass, even in their broad outlines"。

*3:飛行機の場合は空気があるが、真空中ではそれもないだろうと。

*4:[http://images.google.co.jp/images?hl=ja&safe=off&rlz=1C1GGLS_jaJP354JP354&um=1&sa=1&q=amazing+stories+august+1928&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&oq=&start=0:title=アメージングに掲載された小説]を基にした、当時の有名なSFアメコミヒーローで、新聞に連載されていた。

*5:原文"Rokets ships are about as far as I am willing to go"。

*6:SFファン。

*7:1929年の株式市場下落で、当時の投資家が悲観して窓から飛び降りた、という都市伝説がある。

*8:原文"by concocting the most wildly unscientific schemes for making everybody rich by playing musical chairs"。なにかのネズミ講的なものだろうか?それともそういった犯罪ではないが、なにかばかげたもの?あるいは単純に株式市場のバブルでみんなリッチになれるよと考えていた人たちのこと?

*9:時代は変わった!

*10:これは当時のSFファンダム・プロダムでの常套句だね。

*11:たしかにおっしゃる通りになりましたな、と誰かが言っているかも。[http://www.amazon.co.jp/dp/4488015123:title=オールディス]か?

*12:原文"functional unsanities"。

*13:この時期の事だから、[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=28768814:title=テイラー]を思い出す。

*14:失敗を避ける、という意味のはず。

*15:大恐慌の中にあった1930年代、アメリカでも半資本主義の運動がたかまり、SF界においてもマルクス主義の影響をうけたファングループとかが出てきた。

*16:原文"I want to make another comment on science fiction and the fact that you and I have to put up with an awful lot of guff from people because of the orthodox point of view with which it is regarded"。

*17:コナン・ドイルもそのホームズ物やSFでの成功にも関わらず、それらを捨ててまで歴史小説を書こうとしてたっけ。

*18:1924年出版、1936年映画化の作品。

*19:さすがにヒイキの引き倒し、じゃないかな。

*20:知らなかったのでググった。[http://books.google.co.jp/books?id=vAr2T4Bh7nkC&pg=PA414&lpg=PA414&dq=what+is++%22fillyloo+bird%22&source=bl&ots=yOagitUZww&sig=NHiPAcNZfSk2fLTlt3UkoAc7rUQ&hl=ja&ei=AyU3S-zHB43o7AOr7Yy3CQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CAoQ6AEwAA#v=onepage&q=what%20is%20%20%22fillyloo%20bird%22&f=false:title=Dictionary of American Regional English]によると、民間伝承の中の架空の鳥のようだ。

*21:20世紀初頭のまだ共和党がリベラルだった時代に共和党の議員となり、ルーズベルト時代の共和党が保守へと変わっていく時代に共和党を離れたリベラル議員。

*22:ここの部分、意味が良く分からない。「個人的データ(personal data)」とは、たとえば個人の蔵書とかの意味なんだろうか?

*23:コピーロボットの発想ですね。

*24:原文"we don't have room enough, time enough..."。でも最終的には、愛には十分な時間があったわけだ("Time enough for Love"『愛に時間を』の原題)。これが書けただけで、この翻訳はやった価値があった!