P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

認識論的閉じこもり・イン・マクロ経済学

クルーグマンの翻訳も久しぶりですが...って、違いますね。一つ前の翻訳もクルーグマンでした。ですがクルーグマンのブログ翻訳は久しぶりです。今回はクルーグマンがしばらく前まで何度も批判を書いていたマクロ経済学の現状、より正確には中西部の淡水学派マクロの現状についての批判です。クルーグマンのブログを読んだときは訳す気はなかったんですが、別のマクロ経済学者から届いたメールというのがアップデートの中で紹介されていたのを読んで訳してみる事にしました。
なお、もともとの文章では一語タイポがあり、アップデートの中でそれの修正について触れているのですが、その点については訳してません。


認識論的閉じこもり・イン・マクロ経済学 ポール・クルーグマン 2010年4月25日

右派の「認識論的閉じこもり(epistemic closure)」、つまり証拠だの、同じ考えの者以外からの議論だのについては完全に無視しようとする行為、についての激しい論議がブロゴスフィアで沸き起こっている。これについて私は、この明白な事実はもう何年も続いてきた事だと言う以外には特に述べることはない。
しかし、似たような事がマクロ経済学についても長い間、真実でありつづけている事を指摘しておくのは意味あることだろうと思う。そして認識論的閉じこもりの政治バージョン同様、これは「どっちもどっち」な事ではない。これは淡水学派*1の事象なのだ。塩水マクロ*2は同じ問題を抱えてはいない。
つまり、もしプリンストンなりMITなりの院生に、「新古典派マクロの連中ならこれについてどう答える?」と質問してみたなら、その学生はちゃんと答えられるだろう。塩水学派の講義はリアル・ビジネス・サイクルも教えているし、良い学生なら、たとえその教授が違う学派であったとしても、リアル・ビジネス・サイクルの考えを説明できるからだ。
しかし淡水学派の学生達は、そして残念ながら彼らの教授の多くは、同じ事ができない。今回の危機が発生して以来、ミネソタや、そしてシカゴの多くの研究者達まで、ニューケインジアン経済学がどういうものなのか全く理解していない事は痛々しいほどに明らかだった。彼らがそれに同意していない、とか、それをゴミだと考えている、とか言っているのではない。彼らは文字通り、その概念を理解していないのだ。それが故に、彼らはこの危機を議論するために、80年前の誤りを再発明したのだった。
こういった閉じこもりがなぜ右派の特徴で、左派にはないのかと問うのは面白いことだ。だがとにかくそれは全くの現実で、政治の議論だけでなく、経済学においても深刻なインパクトを持っていることなのだ。


アップデート:あるマクロ経済学者がメールしてきてくれた:

あなたの今日のブログ、認識論的引きこもり・イン・マクロ経済学は痛ましいほどの真実です。実際、この数年、私はなんどもまったく同じ事を何度も考えてきました。
私の世代のマクロ経済学者にとってさらに困った事なのはそういった研究者達が、政治的右派のとまったく同じ狂信でもって、学会誌をコントロールし始めだしたことです。これは非常にまずいインセンティブを作り出してきました。ですから彼らはある種の論文は読みもしないわけです。その反対側はオープン・マインドであるというのに。これはマクロに非常に特徴的なことだと思います。
...
まあ、ある程度の誇張はありますが...五つのトップ学会誌のうち四つのエディターは名目硬直性についての論文は単純に読むことすら拒否しています!あまりにも多くの学部が五つのトップ学会誌に掲載された論文を昇進基準としていますから、これが学界の中にどういったインセンティブ構造がを作り出しているか、だれでも容易に想像がつきます...

*1:中西部のリアル・ビジネスサイクルとかの保守派マクロ学派。

*2:東・西海岸のケインジアン系マクロ。