P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

タイラー・コーエン: 寿司とトレーニングの均衡

タイラー・コーエンが、ミシュラン三ツ星を持つ日本のお寿司屋さん「すきやばし次郎」についてのドキュメンタリー映画"Jiro Dreams of Sushi"を観たようで、それにインスパイヤされて寿司屋の修行への投資の均衡について語ってました。
まあ軽く書いてみたという程度の文章で、特におわりとか締まりがないですが、ちょっとおもしろかったので久しぶりに訳してみました。
ところで読んでた時に思ったことですが、やっぱり文中で描かれる修行のイメージは経済学的なもので、一般的な修行イメージとは違いますよね。
多分、次郎さんにこのイメージを説明したら怒られるんじゃないでしょうか。
とはいえ、経済学のモデルの中でのエージェントの行動は、現実の経済においての人間の意識を反映したものではなく、意識的にはどうであれこういう効果を持つことになるという事ですので。
追記:コメント欄にhimaginaryさんから誤訳の指摘をいただきましたので、一部修正しました。himaginaryさん、ありがとうございました!


「10年かけて、ようやく卵を料理させてもらえる...」 タイラー・コーエン 2012年4月6日

このセリフはJiro Dreams of Sushi からだ。
 
この映画をラーニング・バイ・ドゥーイング・モデルとして考えてみよう。ボスは労働者のトレーニングに投資をしたいと思っている。しかし労働者たちが(トレーニングの後)さっさと出て行って、その投資を回収できなくなるのは怖い。なのでボスは労働者たちのトレーニングを非常にゆっくりと行い、その間、労働者たちを見習いとして留めておく。トレーニングの最後の段階にしてようやく、労働者たちは利益の大きい商品の扱い方を学ぶ。つまり、寿司の握り方をだ。その上さらに、日本の客は高いクオリティを要求するので、トレーニングが不十分な労働者が自分の店を開くのが更に難しくなる。旨い寿司の店が多くあるならば、寿司の味を知っている客をともなったこの均衡は持続的だし、長期的な労働者のトレーニングを維持可能にする。クオリティは非効率的に高く、サービス業としての生産性は非効率的に低いが、対人サービス業としてのクオリティは非効率的に高い(コメの握り方の前に客への挨拶を学ぶのだ)。しかしトレーニングはちゃんと行われて、店の主人が大きな社会的・経済的なバーゲンニングパワーを得ることになる。
若い労働者は大して稼げないが、しかし歳をとってから元をとることができる(つまり、自分の店を持つことができる)。若い女性たちにとっては、彼らはあまり良い結婚相手の候補とはならないが。
寿司屋の将来の利益率を下げるようなショックを考えてみて欲しい。たとえば、漁獲量の激減とか、外国料理からか、あるいは低いスキルの労働者による安い寿司からの競争の激化などだ。これは見習いの年齢構成を幾分高齢化させてしまうだろう。そして実際、これが映画が次郎の下で起こったとしていることだ。
次郎:「75年間、同じ事を続けてくることができました」 
観客からすると、この映画の中の誰かが今後何年かしてから同じ事を主張することができるようには思えない。そしてまた、こういう経済は産業間での興亡に応じた労働力の再分配に優れたものではない。
たった10席でトイレは店の外、廊下の突き当りにあるというこの店で、85歳の次郎はミシュランの三ツ星を保持している。
この店では、女性客には少しだけ小さめの寿司を出しているという。何人かで来た場合、その誰もが自分の皿を大体同じ時間で終わらせられるようにだ。