P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

アセモグル・ロビンソン:収奪的エリートと労働組合

収奪的エリートとはだれなのか?  ダーロン・アセモグル、ジェームズ・ロビンソン  2012年5月1日
Why Nations Failにおける我々の主張の鍵となるのは、充分なだけの政治的力を持った時、エリートは持続的な経済成長への害となる経済的制度や政策をしばしば支持するというアイデアだ。時には彼らは新しい技術を妨げ、時には社会の他の成員たちがその経済的ポテンシャルを実現するのを妨害する不公正な競争環境を作り出そうとする。そしてまた時には、他者の権利を侵害し、投資やイノベーションのインセンティブを破壊する。
<イタリック<The Economist>>誌のバトンウッド(Buttonwood)コラムが面白い質問をしている:こんにちの西洋経済においてその強欲なエリートとは誰だろうか?
バトンウッドは、大きすぎて潰せないのに巨大なリスクを取る銀行家たちと、有権者として、そして時には組合をつかってその楽な仕事を守る公務員を2つのありそうな候補としてあげている。
2008-2009年の危機の最中だけでなく過去2年のヨーロッパの債務危機においてもまた見せつけられたように、大きな政治的影響力を持つ銀行は確かに立派な候補だ。だがバトンウッドは、彼らがほんとうに繁栄への障害であったかどうかと問うている。その答えはおそらくイエスだ:銀行による過剰なリスクティキングは多くの経済的歪みをうみだしたし、危機について部分的な責任がある。銀行部門の膨れ上がった給与はまた、よりイノベーティブな活動にむかうことができたはずの多くの才能を惹きつけることで経済にダメージを与えてきたかもしれない(この論文やこの論文の証拠が示すところでは)。
では、公務員はどうなのだろうか?組合は?バトンウッドが述べているように、彼らもまたその権力を行使して新しい技術を妨害し、同様の歪みをうみだしているのだろうか?
一見するとこれはありそうな仮説である。民主社会では組織化された集団は力を行使できるし、その力を自己利益の為に利用するというのはごく自然なことだ。そしてそれが他者への大きな障害となっても。実際、マンサー・オルソン*1はその国家興亡論 The Rise and Decline of Nationsにおいて、そういった集団を西洋民主国家の経済的長命への最も重要な危険としてあげている。その権威あるLevers of Richesにおいて、ジョエル・モキール(Joel Mokyr)は繊維機械を破壊したラッダイトを、新しい技術によってもたらされた創造的破壊に対する抵抗の典型として使っている。より最近だと、フリート街の印刷工組合は1987年にルパート・マードックのニューズインターナショナルによって破られるまで、より優れたオフセット平板印刷プロセスの導入を妨害していた。そしてもちろん、組合は不平等な競争環境を作り出し、その非組合員の犠牲のもとに組合員を優遇する。
よっておそらく一般的に組合は、そして特に公務員組合は技術変化に抵抗する新しい収奪的エリートなのだろう。
しかし、この見解については問題がある。大抵の場合、組合や労働者は、政治的に強力であるように見えたとしても、新しい技術の導入を阻止することなどできないようなのだ。歴史の本においてラッダイトは阻止に成功したと描写されておらず、新しい技術の路上に無駄につったっていたと描かれている。印刷工組合は優れた印刷技術の導入を遅らせはしたが、しかし結局は敗れていったのだ。
そしてこれには当然の理由がある。19世紀英国でのラッダイトの力は限られたものだった。とくに、工場や鉄道の導入に頑強に抵抗したロシアやオーストリア-ハンガリーのエリートの絶対に近い権力と比べてみれば。組合はその組合員をストライキへ動員できるし、強力な利益団体として活動することもできるが、しかし彼らの力は民主的そして非民主的社会両方での大金持ちと比べればおそらく限定されたものだろう。そしてアメリカにおいては、組合の力はおそらく深刻に、そして多分回復不可能なほど、ロナルド・レーガン航空管制官のストライキに対する勝利*2によってダメージを受けた。
その結果、こんにちのアメリカにおいて、心配すべきことは組合が政治プロセスを支配するのではないかということではなく、銀行家のエリートを含むがそれだけには限らない富裕層のエリートたちが支配するのではないかということであり、そして実際、すでにそうなっている。
このことから我々は、組合も力があれば他の集団同様、社会の他のものの犠牲のもとに自分たちの利益を追求して収奪的に行動するだろうが、彼らが西洋の制度の内包性を脅かしている主なエリートとは思われない。
とはいうものの、組合は、19世紀や20世紀初めにおける内包的制度の発展において主要な役割を果たしたのと比べると、20世紀の後半においてはよりレントシーキングのモードであったのはおそらく事実だろう。たとえば、英国の民主主義の物語は、選挙権のない者を動員して全てのものへの投票権を要求した労働運動なしでは非常に違ったものであっただろう。同様に、アメリカの労働運動は労働者に声を与え、労働条件を改善するのに中心的役割をになった。今日ではなにか違うだろうか?その答えは明らかではない。しかしひとつの可能性としては、民主主義や、ほとんどの労働者にとっての厳しくさらには強制的ですらあった労働条件を制限するなど広範囲の問題の為に闘うのには、19世紀と20世紀はじめの労働運動はより効果的であり、より明白に経済と政治の制度のより高い内包性の為のものであったが、組合の要求が一部でしかないそのメンバーの為の高賃金やより気前のいい健康保険、そしてより良い年金へと移った後はこれは変わってしまったかもしれない。
一方、強力な労働運動はこんにちにおいて、非常な富裕層や政治的なコネのある企業を優遇する、拡大する政治的不平等への対抗としてより必要であると主張するものもいる。メガリッチの政治的力へ対抗するための何らかの組織が実際、必要であると我々は考えている。この役割を組合がこなしうるか、そしてするべきなのか、はさらなる考察と研究を要するものである(つまり、答えは知らない)。

*1:公共選択論の経済学者。

*2:1981年。