P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

クルーグマン:アシモフ「ファウンデーション」シリーズへのイントロダクション

クルーグマンが新しくでるアシモフの「ファウンデーション」シリーズへイントロダクションを寄せたそうで、それを自身のブログで公表していました。でまあ、クルーグマンアシモフ*1もどちらも著名人なんですが、だからといってその二乗のこのイントロが日本で商業的に出るかどうかはわかりません。ほんとかどうか知りませんが、世界一多いファーストネームはムハンマド、世界一多いラストネームはチャン、しかしこの世にムハンマド・チャン氏はいないと言いますけど、ま、そんな感じかもしれません。ということで、訳しておきました。ただ、これまでのこのブログでのクルーグマンの翻訳では"I"を基本、「私」で訳してましたが、今回は何となく雰囲気で「僕」にしてます。なぜか、70年代の青春系SFの翻訳文体のマネをしたかったので...
なお「ファウンデーション」シリーズの重要なアイデアである「心理歴史学」とは、人間集団に適用された気体分子運動論のアナロジーで、個人の行動は予測できないが、集団の行動は予測できるとしたアイデアです。より詳しくは、wikipediaでの記述を参照してください。
追記:このイントロダクションはファウンデーションの新装版へのものなのに、誤って映画のタグがついてしまってました(削除済み)。このポストは依然書きかけた映画についてのポストを消して書き直したものでしたので、その時のカテゴリータグをうっかり消し忘れてました。
追記2: 無茶苦茶恥ずかしい間違いを発見しました。クルーグマンの大学をイェールなんて書いてましたが、プリンストンでした。ああああ、なんでこんな低レベルのミスを!調べればすぐ分かったことだったのに、なぜかイェールだと思い込んでました。すいません。
追記3:注13のスタトレオープニングのフレーズについて、コメント欄でのJavaBlackさんからの指摘を受けて一部修正しました。
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イントロダクション-

10代の少年の人生を変えてしまう小説というものがある。それはアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」であったり、あるいはトールキンの「指輪物語」だったりするだろう。広く知られるネット上のミームによると、この2冊のうちのひとつの中で描かれる非現実的なファンタジーの世界は若者の心を永遠に歪めてしまうそうだ。そしてもう一冊はオークについての本である*2。でも僕についてはそのどっちでもなかった。僕の本、40と5年も経ってもまだ僕の中にある本は、アシモフの「ファウンデーション三部作」だ。これは彼自身が10代をようやく終えたばかりの頃に書かれたものだった*3。僕は四角いアゴの個人主義者になったり、英雄的な探求に参加したいと思いながら大人になったりはしなかった。僕はハリ・セルダンになりたりと思いながら大人になっていったんだ。人間行動についての数学を理解して文明を救いたいと思いながら。
だがもちろん、経済学は非常に貧弱な代替物だ。今から100年か200年経って、時間霊廟*4の中に録画映像として登場できるなんて思ってはいない。とはいえ、それでもがんばってはみたんだけどね。
そして、移民であった僕の祖母がよく言っていたように、スケベな事のできる大人にまで育った今、この「ファウンデーション」は僕にはどう見えているだろうか?それは、これまでよりさらに良く、なんだよ。この三部作は珍しい名作だ。他にはこういうものは全くない。ところでこれからはネタバレ話になるから、まっさらな状態で三部作に接したいならここで読むのを止めてくれ。
たぶん、「ファウンデーション」について最初に言っておくべきことは、これが正確にはサイエンスフィクションではないということだ*5。全く違う。もちろん、これは未来を舞台にしているし、恒星系間航行はあるし、人々がお互いに撃ち合うのはピストルではなくて光線銃だし、うんぬん。でもこういったことは表面的なことでしかないし、この物語のなかでは小さな意味しか持っていない。この「ファウンデーション」の小説は、社会についてであって、ガジェットについてではない。そして、たとえば、ウィリアム・ギブソンのサイバーパンク小説などとは違い、ま、それも非常に違う形でとても優れたものなのだが、技術の進歩による変化があまりない社会についてものだ。アシモフの銀河帝国はローマ帝国にとてもとても似た感じだ。帝国の首都であるトランターはハイパーバージョンの1940年代マンハッタンのよう。ファウンデーション*6自体もアメリカの歴史をかなりの程度なぞっているように感じられる。ボス・ツィード*7の政治や泥棒貴族タイプの金権政治を経て、三部作の終わりでは20世紀中ごろのアメリカに似たものへと移り変わっていく。もっともアシモフはそれが最後の状態ではないことを明白にしているが。
ここではっきりさせておこう。「ファウンデーション」の中でみられる様々な社会が見慣れたものであることを指摘することで、僕は批判しようとしているわけではない。全く違っていて、アシモフの創作した社会が歴史のなかのモデルをなぞっている事からのこの見慣れた感じは、彼が思いついたアイデアとぴったりだったのだ。それは、社会というものを理解し、そしてそれがどう変化するかを予測して、さらにその変化を操って利用することができる厳格な数学的社会科学の可能性だ。
このアイデアが物語全体の基礎となっている。ファウンデーションの中では小さな数学者の集団が、上で述べた社会についての厳格な科学である「心理歴史学」を生み出す。彼らが住む強大な銀河帝国にその科学を適用してみて、彼らは実は帝国が最終的な衰退の過程にあることを見出す。そしてその崩壊のあとには、3万年にわたる野蛮の時代が続くことになる。しかし、彼らはまた慎重にデザインした誘導により、この道筋を変えることができるのを発見する。帝国を救うことはできないが、しかしやってくる暗黒時代をたった千年にまで短くすることはできる、ということ。
小説はこのプランの展開を追っていく。最初の一冊と半分、つまりファウンデーションファンデーション対帝国の前半は、すべて順調にいく。そして、プロットは急展開してプランがコースを外れ、第三巻にその名を冠する謎めいた第二ファウンデーションによって元に戻されることになる。
こう書くと、この物語がまるで無味乾燥でお説教めいたものに聞こえるかもしれない。そして実際、もし豊かで繊細な人物造形を求めているのなら、アンナ・カレーニアを読んだほうがいい。実際のところ、アシモフは興味深い人物を生み出すのが多くのサイエンスフィクション作家よりもうまくて、10代のころのぼくは三部作を締めくくる元気のいいヒロイン(かな?)のアーカディア・ダレルを好きになったりしたものだったが、でもまあ、それはあんまり大したことを意味したりはしないんだ。
また言っておくと、もし派手な撃ち合いシーン、ギリギリでハン・ソロルーク・スカイウォーカーデス・スターを破壊するようなのを期待してるのでも、やっぱり失望することになるよ。宇宙での戦闘については一度軽く触れられるだけ。そしてその戦闘の真の目的、として僕たちが知ることになるのは、結局はやられてしまうだけの敵の破壊ではなくて、プランに沿う心理状態を作り出すことだったりするんだ。公平にいえば、ヒーローの(というか実際はヒロイン。ファウンデーション対帝国の最後でのベイタ・ダレルだ)の素早いアクションに銀河の運命がかかっているシーンは、ある。しかしそれですら、通常のアクションものではないんだ。ベイタが最後の最後に世界を救うのは、いいものの一人を撃つことでなんだ。
しかし、よくあるハラハラシーンや、そして物語の大部分でのヒーローや悪者の欠如にも関わらず、「ファウンデーション」はとてもスリリングなものなんだ。サスペンスフルで、心を奪うし、そして言ってしまうと、すがすがしくシニカルだ。ありがちなハラハラシーンの欠如は、ありがちでないハラハラの欠如ということにはならないんだよ。
最初の1冊と半分の中では、銀河の運命が危ういように思えることが何度もおこる。ファウンデーションが、野蛮な王達や、辺境の将軍、そしてついには衰退しているものの未だに強力な帝国自身によって滅亡の危機にさらされるからだ。こういった危機のそれぞれに、彼らの勇敢さと知恵だけが唯一の希望であると思えるような人々が立ち向かっていく。毎回、ファウンデーションが勝利する。しかしここに驚きが隠されているのだ。事態が収まった後、勇敢さや知恵は全然関係なかったことが明かされる。歴史心理学の法則によりファウンデーションは勝利することが運命づけられていたのだ。毎回、そのことをはっきりと知らしめるために、何世紀も前に記録されていたハリ・セルダンの画像が時間霊廟の中にあらわれて、みなに何が起こったのかを説明するんだ。野蛮人たちは征服することなどできなかった。なぜなら、ファウンデーションはその優れた科学力を宗教のごとく装って彼らをあしらっていけるからだ。将軍たちの軍事力もファウンデーションの経済の威力に敵うものではなかった。こういった調子。
この珍しいプロットの構造は、「ファウンデーション」と一見すると全然関係のないジャンル、予言ファンタジーとでも呼びたいものとの間の皮肉な類似性を生み出している。そういった小説、ロバート・ジョーダンの「時の車輪」なんかが思い浮かぶけど、そういったものの中では主人公は幻視や過去の書物などに予示された神秘な運命のもとにあり、プロットの展開はこの運命へむかっての主人公の歩みを語るものになっている。本当をいうと、僕はこういったフィクションが大好物だ。そんなものとは似ても似つかない現実の生活からのいい逃避だからね。しかし「ファウンデーション」シリーズの前半は、神秘性なしに預言と運命の構造をもつにいたっているんだ。それは全て歴史心理学の法則であり、そしてハリ・セルダンの予知はその数学から来ているんだから。
でももし「ファウンデーション」の物語を預言の実現の話とするなら、それは預言の非常にブルジュワ的な1バージョンだ。これは秘密の継承者がその遺産を受け取りにやってくる話ではないし、無敵の剣士がその力で平和を守る話でもない。アシモフは貴族政も軍国主義もはっきりと嫌っている。彼のヒーロー、とまあなる者たちは、もったいぶってもおらず、洗練されてもいなくて、そして暴力的なところはまったくない。「暴力は無能者の最後の逃げ場所」とサルヴァー・ハーディン市長*8は断言する。
しかし、ちょっと待った。「ファウンデーション」は中産階級の勝利についてのものでもない。僕たちは約束された第二帝国を見ることはないし、そしてそれでいいんだ。大好きになれるようなものには多分、ならないだろうから。あきらかに、民主的なものになったりはしないだろう。プラトンの共和国の数学バージョンといったもの、その守護者たちが彼らの徳を数学の公理から導き出しているようなものになるだろう。この事がこの小説にとってどういう意味があるかというと、比較的ブルジョワ的な社会が各対決において勝者とはなるものの、アシモフはその社会を是としているわけではないし、また長期の運命を与えているわけでもないということだ。これが物語の語りについてどういう事を意味するかというと、対決はありがちな善い者対悪者の物語ではなく、またそういうものとして組み立てられてもいないということ、そしてこの小説には思いがけないシニシズムがあるという事だ。ファウンデーションはその野蛮な隣人たちよりははるかにましにスタートしてはいても、時と共に腐敗した寡頭政治へと変化していく。そしてそれもまたプランの一部なんだ。そして物語は正しい人間の勝利ではなくセルダン・プランの実現についてであるので、アシモフはその悪役たちの一部の性格についてかなり自由にやっている。悪い人間にはしていないということ。帝国の将軍でファウンデーションを脅かすベル・リオーズは、その時点でファウンデーションを動かしている金持ちたちよりずっと魅力がある人物になっている。プラン全体を危機にさらすミュールですら、おどろくほど共感の持てる人物になっている。
さてミュールの出番となった。このデウス・エクス・ミュータイジェン*9はシリーズの半ばでプロットを大きく変えてしまう。最初に「ファウンデーション」を読んだ大昔、僕はミュールの登場を恨んだものだった。彼は心理歴史学の無敵さのスムースな物語を邪魔したからだ。でも再読して、僕はアシモフが自分のしていることを分かっていたのを理解することができた。それはセルダン危機があと1冊半続くのは退屈だっただろうというだけではない。
ミュールは人の感情を操る能力をもったミュータントで、その力によりファウンデーションを征服して、セルダン・プラン全体を危うくした。この脅威に対抗するため、歴史心理学者の隠された集団であり、プランの秘密の守り手であった第二ファウンデーションが隠れ家から出てこざるを得なくなる。ここまでは、何百とある善と悪の間の闘いのうちの一つのように聞こえる。しかし、「ファウンデーション」はそういったシリーズのたぐいじゃないんだ。問題は、いかにしてミュールをやっつけて、真実と正義、そしてファウンデーションウェイ*10の勝利を確保するかという事ではない、ということを僕たちは知ることになる。そうではなくて、問題はいかにしてプランをもとの軌道に戻すかということであり、そしてその為には誰にもプランの内容について知られてはならないのだ!*11
だからミュール(前に言ったように、共感できないような人物では全くない)は破られなきゃならないが、でもその敗北は派手なものではダメなんだ。ドラマチックな宇宙での戦闘とか、勝利のパレードとかはダメ。実際のところ、はっきりした敗北すらダメなんだ。このシリーズ全体の特徴を表すように、ミュールの静かな敗北の実現自体、彼がこの目立たなさの必要性を理解していないことに決定的にかかってくる。第二ファウンデーションが実はまさに避けなければならない派手な撃ち合いを計画していると、ミュールには信じていてもらわなければならないんだ。
それでも、第二ファウンデーションはその手の内をすこし見せてしまうことになる。なので最後のエピソードは第一と第二ファウンデーションの間の対立に関してのもので、この対立のなかで第二ファウンデーションは負けたように見せることで勝たなければならない。セルダンプランの修復には適度な無知の状態を広めることが必要である。そのため、第一ファウンデーションには第二ファウンデーションの影響力についての危険な知識を無くしてもらわなければならず、これは第二ファウンデーションが破壊されてしまったように見えることでしか実現されえないんだ。
ああ、それから、シリーズ全体のまさに最後の行の驚きは、いまでも僕の顔をほころばしてくれる。
ファウンデーション」には欠点があるかって?もちろんある。登場人物たちは大体において、段ボールから切り出した人形みたいなものだ。人物たちの身体的特徴も、そして、その他のことについての説明もはっきりと欠落している。もう言ったように、トルストイではないんだよ。
もっとナード的な問題は、そしてほんとにナード的な問題なんだけれど、歴史のテンプレートを銀河規模の文明に押し付けたことで、アシモフはスケールについて問題をはっきりとかかえることになっていることだ。第二ファウンデーションに出てくるタゼンダは大体において野蛮な王国、たった20の惑星しか支配していない小さな政体ということになっている。だけど、20の惑星だって????そしてトランターのこともある。750万平方マイルの陸地面積に400億の人口を住まわせるこの惑星は完全に金属に覆われている。しかし計算してみると、この情報からトランターの人口密度はニュージャージーの半分しかないことがわかる。そして最後に窓の外を見た時には、ニュージャージーは金属で覆われてはいなかった*12
とわいえこういった事は言ったように、ナード的な問題だ。結局のところ、「ファウンデーション」の物語は銀河についてではないし、そして宇宙旅行についてですらない。それは真の最後のフロンティア*13、僕たち自身を、そして僕たちが作る社会を理解することについてなんだ。
ナード的でない問題、いやまあ、すこしだけナード的でない問題もある。それは、今では自身が社会科学者となった、少なくとも人類文明のこの初期の段階において可能な限りそれに近い立場になった僕自身が、この最後のフロンティアの征服というアシモフの考えをどう思うかということ、理解しそしてもしかしたら人類の運命を決定することすらできる力をその学徒にあたえるような社会科学を生み出すことができると思うかというものだ。
まあ、良い日には、その方向に向かって僕たちは進歩を続けているように思えたりもする。そして経済学者として、このところ僕は結構な数のそういう良い日を迎えている。
経済の実際の運営に完全に失敗している時に、これがかなりおかしな主張に聞こえることはわかっている。でもさ、ハリ・セルダンは皇帝にその政策を変更することを納得させることで自身の仕事をなしたわけじゃない。彼は自分のプロジェクトを隠れ蓑の中にかくして、結果がでるまで千年待たなければならなかったんだ。さて、僕の知る限り、僕達の今の文明を救うための1000年の計画を持った経済学者の秘密結社なんてものはない(でももしあったとしたら、教えてるわけないけどね)。しかし、僕はここ何年か、まともな経済学が持つ、よくある偏見や「常識」とは非常に違った正しい予測を行う強力な力に驚かされてきた。
まったく任意ではない例を考えてみよう。スタンダードなマクロ経済学のアプローチであるIS-LMモデル(これが何かは訊かないでくれ)は、僕たちが経験している恐慌のような状況においては、いつものルールのいくつかは適用できないと教えてくれていた。数兆ドルの財政赤字は利子率を引き上げないし、貨幣供給の大きな増加は急激なインフレーションを引き起こさない。このモデルをたとえば2009年初めに真剣に受け取っていた経済学者はバカにされ、こういった直観に反する主張をすると批判を浴びまくっていた。でも彼らの予測は実現した。だから、現実におこることを予測する力を持った社会科学は可能なんだ。たぶん、よりよい未来へと導くものも。
そうは言っても、利子率やインフレーションの中期の変化をそれなりに正しくあてる事から、何世紀にもわたる文明の全体的なコースを事前に予測する事までは、遠い道のりだ。アシモフ心理歴史学は明らかに経済学を政治学や社会学と統合したものだが、それらは経済学よりもずっと難しい分野だ。経済学は結局、主に欲についてであり、ほかの社会科学はその他の複雑な感情を取り扱わなければならないのだから。洞察に富んだ素晴らしい政治学者や社会学者が今日も活躍している。しかし彼らの分野はまだその知恵の統合が(非常に限定されてですら)出来ていない。それは、経済学を実践していると、時にはまるで僕たちがハリ・セルダン心理歴史学の非常に早い時期を生きているのかと感じさせてしまうほどだ。
しかしそういった分野もたぶんやって来ることだろう。ではその時には、時間霊廟の為の録画を行う準備が整うのだろう?それは、無理だろう。永遠に無理だろうと思う。いつか真実の、統一された社会科学ができるとしても、それは複雑で、非線形システムの科学のままだろう。科学的な意味でカオス状態であり、よって詳細な長期の予測はできないシステムについてのもの。天気予報を考えてみよう。モデルがどれだけ良くなっても、ある特定の嵐が20年後のある週にフィラデルフィアをおそうかどうか予測することは永遠にできないだろう。超光速航行については信じてもいい。けれど、ハリ・セルダンが自身の記録をターミナスとその近隣諸国の間での最新の危機が起こるちょうどその時に合わせて出現させることが出来るとは、信じることができない。
でも段ボール紙の登場人物同様、「ファウンデーション」におけるこの小さなありえなさは全然、問題にならない。これは、唯一の、自分達自身についての知識、僕たちの社会がどう動くのかについての理解がいかに歴史を良いほうに変えることができるのかについてのスリリングな物語のままなんだ。そして今でも、インスピレーションをもたらす物語である。僕が最初に読んだ時、僕の人生の三分の四だけ昔の時とまったく同様に。
ポール・クルーグマン

*1:別にSFでなくても、なんらかのフィクションで不意にロボット3原則の名前が出てきたりすることもあってか、おそらくアシモフの著作を読んだことはなさそうな人も「ロボット3原則」だけは知ってたりしてますね。

*2:もちろんオークの本とは指輪物語

*3:アシモフは1919年か1920年生まれ。[http://goo.gl/TjEgv:title=本人の記述]によるとアシモフは1920年1月2日までに生まれている。ファウンデーションシリーズの第一作目「百科辞典編纂者」(「[http://goo.gl/rgK47:title=ファウンデーション]」収録)は1942年に出版されている。

*4:セルダン危機と呼ばれるファウンデーションを脅かす危機をファウンデーションが通り抜けた後に、すでに亡くなっているハリ・セルダンの録画映像が表れてその危機について説明してくれる場所。

*5:SFファンとしては、この段落でクルーグマンが言ってることは全然わかりません。ガジェットを扱うのがSFで、社会科学を扱っていればSFではないのか?アシモフ自身が唱えた、アクションから自然科学、そして社会科学へのSFの変化を全く無視しています。クルーグマンは時々、チャールズ・ストロスの名前を出したりするので今でもSFをよんではいるんでしょうが、それでもどうも60年代年代までのSFに対する偏見をそのまま引きずっているのではないかと思われます。

*6:ファウンデーションはシリーズの名称であると同時に、物語内の中心的組織の名称です。

*7:19世紀ニューヨークの大物政治家ウィリアム・ツィードのこと。大物たちによる扉の向こうの密室政治を言っている。

*8:作中の登場人物。クーデターを起こして権力を奪い、最初のファウンデーションの危機を乗り切る。

*9:デウス・エクス・マキナは機械仕掛けの神、物語の終わりに唐突に現れて、主人公たちを助けてくれる都合のいい存在、に引っ掻けた言葉で、ミュータントの神を意味させている。

*10:いうまでもなくスーパーマンの「真実と正義、そしてアメリカンウェイ」のパロ。

*11:歴史心理学は歴史心理学の適用対象である大衆が歴史心理学を理解していないことを必要とする。

*12:クルーグマンの大学であるイェールプリンストン大学はニュージャージー州にある。

*13:1960年代に作られたSFドラマ「スタートレック」のオープニングでは、「宇宙、それは最後のフロンティア開拓地である」と述べられていた。(コメント欄でのJavaBlackさんの指摘を受けて修正)