P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

愛の存在:渇き。、AKB、そしてテレクラキャノンボール

「大いなる力には、大いなる責任が伴う」 スパイダーマンの伯父さん

先月の末、「渇き。」を鑑賞してきました。面白くてすぐにその感想を書こうと思ったのに、結局ズルズルとサボり続けてしまってたのです、一月近くたってからようやく何とか書けました。本来なら、新作ゴジラの映画評でも書くべきなんでしょうが。また、「渇き。」の後に観てそれぞれ面白かった「Documentary of AKB48  The time has come 少女たちは、今、その背中に何を想う?」と「劇場版 テレクラキャノンボール2013」の感想もまとめて書きます。というのは、「愛」がこの三作を繋げていると思うからなのですよ。

「渇き。」:欲望と、孤独な力の反逆

まずは「渇き。」についてです。
映画『渇き。』予告編 - YouTube
上にも書きましたが、面白かったです。なので、Yahooのユーザーレビューとかで結構不評が多いのにちょっとビックリしました。公式サイトのキャッチが「あなたの理性をぶっ飛ばす劇薬エンターテイメント!」となっているような、セックスと暴力がいっぱいで誰も救われない映画である事に不快さを感じる人が結構いるんですかね。確かに血糊と裸がよく出てくる映画ですが、別にポルノでもホラーでもないエンターテイメントであって、原作よりもずっとポップな方向にふられているらしいのです*1。あと、観てる間はあんまり気になりませんが、実は話の筋そのものはかなり厳しいものになっていて、鑑賞後に批判を受けやすい腹を晒しているという面もあるかなとも思います。劇中、ほんとに血がよく流れる映画なんですが、それでもニコニコして観てられるのは*2、陰惨なものが陰惨に見えないように映画が作られているからですね。ちゃんと陰惨なシーンは映されているのですが、レーティングがR15に収まるようにポップかつ素早くいろんなものを見せていって、グロと悪趣味の為のグロと悪趣味な映像は(あまり)見せないですし。また、所々で小さな笑いまで取りに来たりします。何が起こっているかではなくて、どう見えているかが重要だといういい例ですね。映画ですから当たり前ですが。

お話は、主役の藤島役の役所広司が、失踪したその娘の加奈子(小松菜奈)を探していくうちに実はその加奈子が「カイブツ」で、彼女は少年少女たちの金持ちの老人達への売春を取り仕切っており、その周りでは死体がドンドン生産されていた事を発見するというものです。

何度も書きますがポップに見せる映画なので、若者たちは基本綺麗です。ですが、その対比物たる年長者たちは汚いです(見た目も内面も)。少年少女たちを犯す金持ちの老人たちが特に醜悪ですが、主人公の藤島も酷いものです。劇中、頭が半分往っちゃってる人物である藤島は服も替えずに何日もの間、暴力を振るい振るわれて、その服がドンドン血塗れになっていきます。そんな血塗れの男が真昼間に街中を彷徨っていれば警察に職質されそうなものですが、そういうウザったい現実はこの映画には介入してきません。映画は現実を適当に簡略化しており、警察は映画の進行を妨害しない程度に腐敗・無能化されています。劇中には他にもヤクザや地元権力者、若者の暴力集団なんかも出てくるんですが、そのどれもが別段詳しく描かれる事はないまま、たまたま主人公の藤島が出会った部分だけが画面に映される、加奈子の周りに性と暴力を供給する装置としてだけ存在しています。加奈子はそれらを操って、自分の周囲の人間に不幸と死をまき散らしていきます。原作未読なんですが、どうもネット情報によるとそれには加奈子の復讐の意図があるようで、映画内でもそれは示唆されているようには見えるんですが、はっきりとは示されません。要は、映画は解りやすく組織や人間関係とその行動を伝える事を目的にはしていないわけです。というか鑑賞中は勢いと演出で気づかなかったりしますが、実は結構リアリティがなかったりもします。たとえばネタバレになりますが加奈子は殺されているのですけれど、その殺人犯のメンタルの強さや犯行後の証拠隠滅の行動力などはちょっとあり得ないレベルです。でもそんなのは鑑賞後にちゃんと考えると気がつくというレベルの枝葉末節であって、映画がちゃんと描こうとするのは主人公の藤島とその娘の加奈子、そして映画内の現在から3年前の事である加奈子に翻弄され裏切られて哀れな事になる中学生男子くらいです。この中学生男子は加奈子に惚れています。映画内では色んな老若男女が加奈子を求めるのですが、その中でこの中学生男子が殆ど唯一ピュアな青春をやっています*3。しかし、この中学生男子も、女子中学生・高校生を抱きたがる醜いロリジジイも加奈子に欲望を持つという点については同じです。違いは、経験と金、そしてその裏側の人生の残り時間です。昔、クラブ(「渋谷の」ではなくて「銀座の」とかがつく方の)の気に入ったお姉ちゃんにいきなり「いくらや」と訊く、金はあるが人生の残り時間の少ないエロジジイの話を聞いた事がありますが、その反対の金はないけど時間はある盛りのついた中学生男子の行動は、少年少女を金と暴力で買うエロジジイ達とは一見、確かに対極的なようですが、結局、どういつもこいつも加奈子を求めるわけです。さまざまな欲望が加奈子に向かっていきます。これもはっきり描かれてはいませんが、おそらくは主人公である藤島の欲望も。この映画は、加奈子を周囲の人間たちから求められる、欲望される、つまり愛される人間として描いています。勿論、綺麗な十代の女の子が色んな男から欲望されるというのは言ってしまえば当たり前ですが、加奈子は欲望されることによって欲望者をコントロールします。自律的に他者の欲望を喚起し、他者をコントロールすること。それは、思春期以降の女性なら(男性もか)多くの人がある程度は持つ能力でしょうが、加奈子はその能力を非常に高いレベルで発揮するわけです。美しさと支配の恐怖を結びつけるというのは昔からのフィクションの定番ですが、この映画は加奈子という恐ろしくも美しく、そして理解不能とまでは言わなくとも映画では共感しやすくは描かれていない少女がその愛される能力を使って周囲に不幸と死を振りまく話となっています。その美しさに基づいた愛され(そしてコントロールする)能力は非モテの俺などからすると、ほとんど超能力の域です。この点から見返すと、この映画は(性的虐待も含むかもしれない)抑圧的な親の元に育った超能力を持つ共感しがたい10代の少女が周りの人間に死を振りまいていく話であり、つまり、キャリー*4なんですよ。
Carrie (1976) - Original Trailer - YouTube
この点から考えると、映画の最後の藤島の行動は正しいと言えるでしょう。Way to Go、藤島!掘ってりゃ多分、ボゴ!っと手が伸びてくるぞ!

というわけで、「渇き。」とは反社会的で孤独な超能力者、あるいはミュータントによる社会への復讐・反逆の物語なわけです。(断言!)つまり悪役の物語なわけですが、そうなれば正義側、気に入らない社会をぶっ潰すのではなく、社会の中で生存の場を確保していこうというXメンもいるのではないかと考えるのは妥当でしょう。ラッパーとスーパーヒーローは似ているという話もありますが、実際は浮世離れしたアイドル衣裳をまとって変身するアイドルこそがよりスーパーヒーローであると言っていいでしょう。アイドルグループとは、愛される(あるいは欲望される)能力を持つ少女たちの集団であり、「Documentary of AKB48 The time has come少女たちは、今、その背中に何を想う?」はそのアイドル達の物語です。
予告編/DOCUMENTARY of AKB48 The time has come ...

Documentary of AKB48:社会の中の超能力者の集団

これはAKB48グループのドキュメンタリー映画第4弾です。第三弾は2013年2月に公開されており、いつもの公開時期よりも半年遅れて公開されたこの第4弾は2013年と2014年の上半期の1年半のドキュメンタリーだと思われてました。この1年半には、峯岸丸坊主事件、第5回総選挙指原1位、ドームツアーと篠田麻里子板野友美秋元才加卒業、松井珠理奈第4回じゃんけん大会優勝、AKBドラフト、大島優子の紅白での卒業発表(以上2013年)*5、リクアワ、大組閣、優子卒業公演の雨による延期、岩手のノコギリ事件、第6回総選挙、そして大島優子卒業公演といくつものAKB内での事件がありましたが、そのうち2013年の部分はほぼ全部がカットされ、映画は2013年末、大島優子の卒業発表少し前から始まります。俺はこのドキュメンタリーシリーズの第2弾、The show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見るでAKBに興味を持ち、薄いアニオタとして一応チェックのつもりで観てみたAKB48マクロスというアニメAKB0049で捕まれ*6、そして第3弾 No flower without rain 少女たちは涙の後に何をみる?でもって完全にヲタとなってしまいました。以前は、AKBを含めたアイドル全体を、非モテ男性と少女を搾取するシステムとしてアンチであったのに。その認識自体は今でもあるんですが、それだけじゃないと今では思うようになってきています。結局、人生の中のバクチを打てるかどうか。当たれば夢、外れればヤリガイ搾取というのがアイドルなわけですが、それは結局、人生を濃縮しただけなのだと思うようになったわけです*7。そして「搾取」されるヲタについても、楽しんで金を出している分には問題ないじゃんというところで落ち着くようになりました*8。アイドルとは「愛される能力」を発揮して集金する資本主義社会の「愛の天使」であり、その意味で「作品さえ良ければいい」アーティスト様とは全然別の存在なわけです*9。アイドルとは愛されなければ意味のない存在であり、歌や踊りは愛でられる為の能力発現、ウルトラマンスペシウム光線仮面ライダーのライダーキックと同じものなわけです。更に言って、加奈子のようなフィクション世界の住人と違い、より厄介なノンフィクション世界の住人である現実のアイドル個々人は加奈子ほどの能力を持つことは稀です。なので弱い能力しか持たない者たちが寄り集まって人間以上になるのがアイドルグループであり、今現在のその代表がAKB48グループなわけです。そしてこのグループのドキュメンタリー映画であるのが、Documentary of AKB48シリーズです。その第四作目であるこの映画、2度観ましたし、もしかしたら3度目も観に行くかもしれませんが、しかし正直言って今回のはダメだろうというのが感想です。とか言いつつ、楽しかったんですけどね。あるいはより正確に言うと、大島優子ヲタ以外には色々不満が溜まる作品でしょうし、ましてAKBヲタでない人には理解できないどころか、変な反感さえ生みかねないと思いますのでお勧めできません。ドキュメンタリーの第二作目はアイドル映画の限界まで攻めている映画として一部で非常に評価されるものとなっていました。前田敦子の卒業を取り込んだ第三作目は、300人近いメンバーというAKBグループの中で頻繁に起こる卒業についてのドキュメンタリーであって、光の中での前田敦子の卒業と、光にまで辿り着けずにAKBを去っていったその他の者たちの対比を見せます。監督は、宗教映画を意識していたと語っていますが、まさにAKBの天と地を見せる映画でした。けれど、地にある天使たらざる者たちにもちゃんとその人生があるんだということを示した映画でした。

なのにこの第四作目は、なんというか大島優子に捧げられた映画になってしまっています。松井玲奈内山奈月など、そして少しあとで触れますがおそらく劇中で最も印象的な言葉を残す佐藤すみれなど、他のメンバーが光るシーンもありますが、やはり弱い印象です。既に述べたようにアイドルグループはXメン、あるいは日本で言うならキン肉マンの正義超人たちと考えるべきだと思います。AKBは今更ながらの「努力、友情、勝利」の昭和ジャンプセオリーに基づいた世界なわけで、その中でメンバー達が苦闘し、ある者は勝利し、ある者は敗北してゆきます。ではそのAKBメンバー達が立ち向かう闘いとは何なのかとなります。AKB発足当初や他のアイドルグループならばいざ知らず、今更CDの売り上げ枚数だとか、武道館や東京ドーム、レコード大賞、紅白等々では一切、闘いとなりません。勿論、外に戦うべき敵がいないというわけじゃないのですが、現状、AKBの闘いは内部にあり、です。つまり、総数300名近いメンバーのうち選別以外のメンバー、つまりそのほとんど全部のメンバー達がこの巨大な集団の中でいかにのし上がるかという物語であったり、そして運営自身がメンバーに対峙する敵となったりするわけです。メンバーによる下剋上の話はいったん置いておいて、この運営がメンバーに対する敵を演じるという事が、AKBに対する批判としてしばしば出てくる「残酷ショー」と呼ばれるものなわけです。この映画ではそれは乃木坂46を含めたAKBの5グループ内及びグループ間でのメンバーシャッフルを行う「大組閣」として現れます。細かい説明はしませんが、とにかくこの大組閣が一見、阿鼻叫喚の残酷ショーの様相を呈しています。実際にはこのシャッフルはメンバー側からの拒否が可能でした。映画はAKB48からSKE48への移籍をオファーされた佐藤すみれと岩田華怜の2名に一時フォーカスするのですが、佐藤すみれは移籍受け入れを決断、対して岩田華怜はAKBに残留します*10。ここでの佐藤すみれが岩田華怜に言葉をかけるシーンは、「敵」としての運営による「残酷ショー」と、個人としてのメンバーがいかにアイドルとして生きて行くかの葛藤が交差している。この映画最高のシーンだと思います。ですが、ベタな事を書きますが、そもそも佐藤すみれは移籍を決断したが岩田華怜は残留を決めたという事を知っていなければあのシーンの意味が完全には分からないじゃないですか。勿論、知らない人でもちゃんと見て考えれば理解できなくはないはずなのですが、わざわざ「ちゃんと考える」負担を客に負わせる時点でどうなのかと。説明のナレーションかコメントを付ければすんなり済む事なのに。また、岩手のノコギリ事件も扱われているのですが、この事件に劇中で一旦かたを付ける為に岩手のご当地ヒーロー、マブリッドキバさんのグーグルプラスでのコメントが画面に映し出されます。すでにそのコメントをリアルタイムで読んで涙していたヲタにはそのコメントが画面に映し出されるだけで感涙ものなのですが、そんな事を知らない一般の観客に映画のスクリーン上へ映し出されるグーグルプラスのコメントをちゃんと読むことを期待できるわけもなく。これももうちょっとナレーションか説明コメントを出すだけで解決する件だっと思うんですが。ヲタでなければ画面に映る全ては理解できないのはこのAKBドキュメンタリーのシリーズでは以前からの事ですが、こうも映し出されているメインの事そのものが理解しずらいのでは一般観客にはお勧めできません。ヲタならば、少なくとも「本店」と呼ばれるAKB48のヲタならば舞台裏でのメンバー達を色々と見せてくれるので観る価値はある野ですが*11、せいぜい選抜メンバーの顔の見分けがつくかどうかくらいの一般観客には大組閣シーンを除いて盛り上がりの乏しい映画になっているのではないかと思います。なのに、その大組閣シーンは異様な雰囲気になってAKB怖い!という印象を持たれそうだし...というか、あれ観たら普通、そう思うと思うぞ!それをろくに説明もせずに放り出すとか。もっとも、もう一般観客は完全に切ってしまっている、ヲタ向けに特化した映画なのならこれでも良いでしょうが。とか書いてきましたが、2014年7月26日現在で既に、都内での上映も大幅に縮小されていますね。まあ、仕方ないかなぁ。

とにかくアイドルグループは女性の「愛される能力」を強化・増幅する仕組みなわけですが、その根本にあるのは性的な魅力であり、それ自体は誰しも(女性だけでなく男性にも)にあるものです。しかし、その能力は誰しもが平等に持っているものではなく、しかも年齢と共にその能力も変化していきます。SFにおける超能力の設定で、思春期の頃に発現するが大人になっていくとともに力が無くなっていくというのがありますが、男性のありがちな「若い女の子好き」特性*12を考えると、まさにと思われなくもないですが、その力を失った者たちはどうなっていくのでしょう。「渇き。」が孤立した超能力者の社会への反逆の映画であり、AKBドキュメンタリーが社会の中で居場所を確保しようとする超能力者の集団の話なのならば、孤立し社会の中でひっそりと生息している、高度な「愛される能力」を持たない者たちの映画が、「劇場版 テレクラキャノンボール2013」です。これを観ると、AKBの「残酷ショー」など、若く可愛い女の子達による芸能界の中のおままごとに過ぎない事が認識できます。

テレクラキャノンボール2013:愛されずに「欲望」されること


『テレクラキャノンボール2013』 特報 youtube版 - YouTube
この「テレクラキャノンボール」はAV業界で90年代から時折行われてきたイベント・動画らしいですが、そのタイトル通り、車やバイクなどでいかに速く走れるかとそしてテレクラや出会い系を利用して女性とどういった行為に及べるかを競うものです。その最新作、「劇場版 テレクラキャノンボール2013」はタイトル通り2013年に行われた東京から仙台を経由して札幌までのランが行われます。AVでの素人物とかに出てくる「素人さん」って、中で顔出しをするじゃないですか。それについては昔から疑問で、実際にはAV側の仕込みの玄人さんなんだろうと思っていたのですが、この映画を観てちょっと分からなくなってきました。この映画に出てくる女性たちは素人と言っても、実際には金銭の授受がはっきり行われているのでその点では玄人なわけなんですが、非常にビックリしたことに「顔出ししてくれたら何万円」と言われると彼女たちがどんどん顔出しをOKしていくんですよ。でも、してくれても全然嬉しくない。彼女たちはもうなんというか、素人物に出てくる『素人」さんたちがハリウッド女優に見えてくるくらい強烈な方が多くて、ああ、これはほんとうに、映画側が用意したわけではないという意味で、素人さん達なのだろうなと思えます。SF翻訳家兼文芸評論家にまるでおばちゃんのような外見の大森望さんという方がいらっしゃるのですが、映画に出てくるのはまるで大森望が脱色したようなおばちゃんとかだったりします。30代以上、とりわけ40代の太ったおばちゃん多し!20代も何人か出てくるのですが、病んでいるような子たちで、観ててこの子たち大丈夫なのかと心配するだけです。といって40代なんて、40代のその体重管理すらできていない体で売春か、将来は一体どうするんだと、観てると嫌な事を考えてしまってドンドン辛くなってきます。愛のないのは当然としても、彼女たちが欲望されるという事があるのが信じられません。完全に能力が失われてしまっています。辛いです。とか書いてますが、実はこの映画、この映画評の三作の中で最も面白い映画となっています。というか、爆笑できます。力なき(そしてしばしば未来も無さそうな)女性たちを観ていて笑うというのは、笑いながらもなんか後ろめたい気にさせられるのですが*13、それでも面白いシーンが中盤以降連発されます。ですがこの笑いは決して女性たちを嘲笑っているというわけではありません。彼女たちの存在は画面を観ているのを辛くさせるのですが、それはつまり彼女たちは映画の背景となっているという事です。その背景の中で彼女たちと様々な事に及ぼうとするAV撮影者たちの「冒険」が滑稽だからです。彼らについて非常に印象的だったのが、彼らが女性たちに対して非常に優しく紳士的だった事です。まあそうでもないと金を払おうがどうしようが顔出しやその他の要望を伝え受け入れてもらえるわけもなかったでしょうが。やってる事は女性に対して非常に酷い(と思う)のですが、でも対面では極度に優しい。とても勉強になりました。しかし、同時に、力がないという事が非常に恐ろしくも思えた映画でした。

*1:原作は未読。

*2:俺のエンタメ趣味が悪いというのもあるでしょうが

*3:正確に言うと、あと女の子が一人、加奈子に惚れてますが、そっちの比重は低いので無視します。

*4:まあ、キャリーの場合、誰からも愛されない事による悲劇でしたが。

*5:あと書いておくと大島優子の卒業発表の10日ほど前の佐藤亜美菜の急な卒業発表も。この段階で大島優子の卒業もそう遠い事ではないと思われてましたから、亜美菜推しの俺はこの亜美菜卒業への大島優子のコメントを、自分自身の事も考えて話しているんだろうなぁとは思ってましたが、まさかそのすぐ後に紅白で卒業発表をするとは思わなかったです。

*6:より正確にいうと、WOTAの出てきた第6話で捕まれました。WOTAはまじビックリもので良かったです。

*7:なので今ではアイドルについて反対するのではなく、まさに部活がそうであるように、10代の頃にやってみて上手くいけば芸能界、ダメなら普通に就職ができるようにちゃんと勉強して学校に行けと思うだけです。売れているアイドルはともかく、売れてもいないのに学校に行かないのは人生どうするつもりだと心配しますが。

*8:勿論、借金してまで総選挙に突っ込むようなのはダメだと思いますが、それは借金をする事の問題であり、要は程度問題。

*9:勿論、アーティストが愛と全く無関係なわけはないですが。

*10:高校入学したとこの華怜が東京から名古屋への移籍を受けると運営が本気で考えていたとは思えないけど。

*11:だから二度観ました。

*12:いわゆる、ロリってやつですね。

*13:映画のパンフレットで監督自身もそう述べてますし。