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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

ベスター:回想 1

SF ベスター

アルフレッド・ベスターの短篇・エッセイ集"redemolished"というのがあるんですが、これにベスターが1975年に書いた自分のSF史の回想"My Affair with Science Fiction"が載っています。結構長文ですが、興味深いので訳してみる事にしました。ただし31ページもあって長いので複数回に分けます。それから、この時期のベスターは雑誌編集者としてSFからほぼ離れていた60年代が過ぎた後、雑誌の廃刊によりSFにまた戻ってきた時期で、ちょっと寂しい感じがあります。今回の分の最後の箇所などは、なんかちょっと悲哀を感じます。

誤訳やタイポなどはないように気をつけていますが、もし何か見つけられましたらいつものようにコメント欄にお願いします。


マイ・アフェア・ウィズ・サイエンスフィクション アルフレッド・ベスター

一部のサイエンスクション読者が、私のプライベートライフについて何も知らされていないと文句を言っていると聞かされた。私が何か隠さなければならない事があるというわけじゃない。それは単に、私が人の話を聞く方を好み、あまり自分の事を話したりはしないからだ。人の話に私は本当に興味があるし、そしてそれから何か有意義な事を掴むこともあるんだ。職業作家は職業的なガラクタ好きでもある。
簡単にいこう。私は、1913年12月13日、マンハッタン島で、中産階級の忙しく働く一家に生まれた。私はユダヤ人に生まれたが、家族は宗教に関して自由放任の態度をとっていて、私自身の宗教を自分で選ばせてくれた。よって私は自然法(Natural Law)を選んだ。私の父は、神様のことにかまけるにはいつでも忙しすぎる街、シカゴの育ちだった。よって父もそうなった。私の母は静かなクリスチャン・サイエンティストだった。私が何か母をよろこばせる事をすると、母はうなずいて、「そう、勿論よね。あなたは科学に生まれたんですから」というのだった。子供の頃、私は母の信仰をからかったりしていたし、楽しい言い争いをしたりもした。今でもそうで、その間、父は座って穏やかに微笑んでいる。つまり、私の家での生活は、完全にリベラルで偶像破壊的なものであった。
私はマンハッタンの最後の小さな赤い校舎(今ではランドマークとして保存されている)と、ワシントンハイツのてっぺんにある綺麗な新しい校舎(今では過酷な人種抗争の場所だ)に通った。フィラデルフィアのペンシルバニア大学に通い、そこで愚かにもルネッサンスマンになろうと努力してしまった。何かを専攻する事を拒み、人文から科学までいくつもの学問を学んでへたばってしまった。ボート部のダメなメンバーだったが、しかしフェンシングチームではもっとも優れたメンバーであった。
私は、ヒューゴー・ガーンズバックの雑誌が最初にニューススタンドに並んだ時以来、サイエンスフィクションに魅せられてきた。サイエンスフィクションがパルプ西部劇の三文作家達によって書かれていたスペースオペラの悲惨な年月を私は耐え忍んだ。彼らは単にX牧場を惑星Xに変えただけで、同じフォーミュラを使って書いていた。馬泥棒の変わりに宇宙海賊を使っていただけだった。私はジョン・キャンベルの輝かしき顕現を歓迎した。彼のアスタウンディングがサイエンスフィクションの黄金時代を実現させたのだ。
ああ!サイエンスフィクション、サイエンスフィクション!その誕生以来、私はそれを愛してきた。断続的ながらも人生でずっとそれを読み続け、興奮し、喜び、そして時折、悲しんできた。12歳の少年を考えてみて欲しい。色んな考えや想像に飢えていて、図書館から妖精物語のコレクションを借りてきたところだ。ブルーフェアリーブック、レッドフェアリーブック、ペイズリーフェアリーブック。そして、その歳でまだ妖精物語を読んでいる事を恥じているから、その本たちをジャケットに隠して家に持ち込むのだ。そこへ、ヒューゴ・ガーンズバックがやって来た。
当時、私はサイエンスフィクションを断片的に読んでいた。小遣いがあまりなくて、雑誌を買う事はできなかった。文具店の外のニューススタンドを、どの雑誌を買うか考えているフリをしながらうろついていた。サイエンスフィクション雑誌を素早くめくっては、店主がやって来て私を追い出すまでに急いで読んでいた。何時間かしてから戻ると、私は中断されたところからまた読みだすのだった。アメージングクォータリー誌を7月に受け取っていた憎ったらしい子が一人、サマーキャンプにいた。私は次に読ませてもらうことになっていたのだが、その子が読むのが鈍かったものだから、憎ったらしかったのだ。
物語について私が大して覚えていないのは興味深いことだ。H・G・ウェルズの再録は確かにあったし、私が最初に買った本はウェルズのサイエンスフィクションの短編集だった。"The Fourth Dimensional Cross Section"(タイトル、合ってるかな?*1)がそのアイデアで私を圧倒したのは覚えている。A.スクエアによるフラットランドを最初に読んだのは、アメージングの再録だったと思う。The Second Deluge (第二の洪水)というタイトル(だったと思う)の小説のカバーを覚えている*2。大洪水の生存者達が第二の箱舟のようなものに乗りながら、雨によってその地肌をむき出しにされてしまったエベレスト山の山頂を驚きつつ眺めているところを描いたものだった。その山頂は宝石の輝きを放っていたのだ。私は何年か前にニュージーランドでエドモンド・ヒラリー*3にインタビューしたが、彼はダイアモンドやエメラルドについては何も語らなかった。これは真剣に考えてみなければなるまい。
高校と大学の間、既に述べたように、私はサイエンスフィクションを読み続けていたが、段々フラストレーションが溜まるようになっていた。パルプの時代が始まっていて、ほとんどの物語は「ブリック・マロリー」みたいな名前の、宇宙海賊や、異星からの侵略者や、巨大昆虫、そしてハリウッドがいまだに作り出しているゴミ全部と戦うヒーローについてのものだった。世界を征服しようとする黒人の陰謀についての完璧おぞましい小説のことを覚えている。ニガー達が、と言うだけでおわかりだろうが、白くなる血清をつくりだし、そして白人に紛れ込んで内部から崩壊させようとするというものだった。で、ブリック・マロリーがこの黒い悪人達をやっつける。ほんとに我々は随分遠くまできたものだね。
いくつかの優れてものもあった。だれがワインボウム「火星のオデッセイ」の衝撃を忘れられる?サイエンスフィクションにおいて風変わりな異星の生物の流行を生み出した、それ自体が風変わりな物語だった。「火星のオデッセイ」は、私が最初の作品をスタンダードマガジン社に送った理由の一つだった。彼らがワインボウムの古典を出版したからだ*4。悲しいかな、ワインボウムはダメになって2流のファンタジー作家に成り下がり、その最初の約束を実現するにはあまりにも若く死んでしまった。
そして、キャンベルがやって来た。彼がサイエンスフィクションを救い、向上させ、意味と重要性を与えたのだ。サイエンスフィクションは、アイデア、勇敢さ、大胆さの乗り物となった。神の名において、いったいなぜ彼が最初にやってこなかったのだ?今日ですらサイエンスフィクションはまだそのパルプの評判を振り払うのに苦労している。それは過去においては妥当だったろうが、しかし今ではまったく違うというのに。これは論破された感応遺伝の理論を思い出させる。純血種の雌馬が純血ではない牡馬による仔馬を一度でも孕んでしまえば、もう二度と純血種を孕む事はできなくなるというものだ。サイエンスフィクションはいまだにその感応遺伝に苦しんでいる。
かつての幸せな黄金の日々よ!私は古雑誌の店に行ってはアスタウンディングのバックナンバーを買っていたものだった。私は7月のある暑い週末を覚えている。私の妻は夏の公演に出るため家を離れており*5、私はヴァン・ヴォークトのスランハインライン大宇宙 Universe!を読むスリリングな二日間を過した。なんてコンセプト、そしてイマジネーションと無慈悲な論理によってなんて鮮やかに描き出されているのか!「黒い破壊者」を覚えているか?ルイス・パジェットの「ボロゴーヴはミムジィ」の事は?これなどはオリジナリティが5乗になったものだ。それから−−いや、そんな事をしてもしようがない。いくらでも続ける事ができる。ブルー、レット、そしてペイズリーフェアリーブックは永遠に去っていくこととなったのだった。
大学を卒業した後、私は何をしたらいいのか本当にわからなかった。振り返ってみれば、私に必要だったのは修行の為の放浪の旅(Wanderjahr)だった事がわかる。だがその当時の合衆国ではそんなものはまるで聞かれないたぐいのものだった。(時間を稼ぐ為に)私はロースクールへ2年行ったのだが、驚いた事に学部時代のそれを遥かの超えた濃密な教育を受けることになった。足掻いたり、ぶらぶらしたりした後、私がなにかのキャリアに落ち着く姿を見たがっていた両親をとても苦しめたことに、私は最終的にサイエンスフィクションの物語を書いて運試しをしてみる事にし、その作品をスタンダード社の雑誌に送った。その物語には"Diaz-X"というバカげたタイトルがついていた。
スタッフの中の二人の編集者、モート・ワイジンガーとジャック・シュイフが私に興味をもってくれたのだが、これは私がジョイスのユリシーズを読んでその注釈をつけ終えたところで、怒りを買うこともなくそれについて情熱的に講釈し、彼らを喜ばせたのが主な理由だろうと思う。我らは自分達の思っている事を私に話してくれた。スリリングワンダーはアマチュアによって書かれた作品によるコンテストを行なっていて、彼らは"Diaz-X"は磨きなおせば賞が狙えると考えていた。彼らはそれをどうやって大丈夫なものに書き直すかを教えてくれ、そして賞金の50ドルを与えてくれた。それは"The Broken Axiom"のタイトルで出版された。彼らはプロフェッショナルなガイダンスを与え続けてくれ、私は彼らのことをずっと感謝し続けている。
最近、パブリッシャーズ・ウィークリー誌での私の古くからの友人でありヒーローであるロバート・ハインライン(彼は「ボブ」よりも「ロバート」の方を好むんだ*6)へのインタビューにおいて、私は彼にどのようにしてサイエンスフィクションに参入したのかを訊ねた。
「39年だ。書き始めたら、とりこになってしまった。いろんなところで学んだことを書いたよ。海軍、陸軍、いろんな所だ。私の最初のサイエンスフィクション作品は「生命線」だ。スリリングワンダーの広告がアマチュアのベスト作品に50ドルの賞金を出すとあるのを見たんだが、そのあとアスタウンディングが一語一セント払っているのを知ってね、私の作品は7000語あったんだよ。それで、彼らの方に先に送ったら、彼らがそれを買ったんだ」
「この、クソッたれ」、と私は歯を食いしばりながら言った。「私がそのスリリングワンダーのコンテストで勝ったのに、君は私を20ドルも負かしたんだ」
私達は笑いあったが、しかしお互いの尊敬はともかく、ロバートがサイエンスフィクションにおいて私を上回っているのはその20ドルだけではない事はお互いに分かっていただろうと思う。

*1:検索してみましたが、すくなくともこのままのタイトルではグーグルさんでも何も見つけられませんでした。

*2:[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?&oldid=32562238:title=ギャレット・P・サービス]の作品だろうと思う。

*3:登山家、冒険家。エベレスト登頂に最初に成功した。

*4:ワインボウムの「火星のオデッセイ」はワンダー・ストーリズ誌1934年7月号に掲載された。「スタンダードマガジン」というのはワンダーストーリーズ誌の出版社の名前。ただしこのワンダー誌とその出版社は何度も名前を変えており、wikipediaの[http://en.wikipedia.org/wiki/Wonder_Stories:title=Wonder-Stories]の項によるとスタンダードマガジンというのは、ワンダーストーリーがワンダーストーリー・クォータリーへ、そしてスリリングワンダーストーリーへと名前を変えた後の、1943年秋号からの出版社名。しかしSF雑誌の研究書[http://www.amazon.co.jp/dp/4488015174/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1280762612&sr=8-1:title=「SF雑誌の歴史 パルプマガジンの饗宴」]には1936年8月号からとなっている。現物があればすぐわかるのだけど、当然持ってないのでわからない。[http://www.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&rlz=1C1GGLS_jaJP354JP354&tbs=isch:1&sa=1&q=%22Thrilling+Wonder%22+August+1936&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=:title=Google画像検索]でもダメでした。

*5:ベスターの奥さん、ロリー・ベスターは60年代に広告会社の重役となるまで、女優をしていた。

*6:「ボブ」は「ロバート」の愛称。友人ならなんで「ボブ・ハインライン」じゃなくて、「ロバート・ハインライン」と書いているのかという疑問にあらかじめ答えておいたんでしょう。