読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

かつての(過ぎ去りし)人的資本黄金時代

人的資本

マサチューセッツ大学アムハースト校の経済学者、ナンシー・フォルバー(Nancy Folbre)による人的資本の価値が失われつつあるというブログ記事の翻訳です。
 
かつての(過ぎ去りし)人的資本黄金時代 2013年6月10日 ナンシー・フォルバー
Chronicle of Higher Educationが行った最近のサーベイによると、学士の学位には5年前よりも価値があると信じている大学学長は半分と少し(54%)だけだそうだ。
ピューリサーチセンターの最近の調査では、アメリカ人の過半数(57%)が合衆国の高等教育システムは学生たちに、彼らやその家族が支払っている金額に見合った価値を与える事に失敗していると述べている。
どうやら人的資本の黄金時代はその輝きを失いつつあるようだ。
この輝きは大学学位の(個人そして社会にとっての)高い収益率からだけでなく、人的開発の理想と雇用主からの需要の間の、部分的であったとしても、麗しい調和から来ていたものだった。
それは大学教授やその学生達にだけでなく、資本主義の精神そのものにとっても幸福な調和だった。学問的な努力は報われ、その価値が勝利した。自分の能力の為の投資への意志と能力のある学生たちは、裕福な人生を送る高い可能性をもっていた。
もはや違うけれども。その問題は供給側でとくにはっきりとしている。州政府からの財政補助の削減、上昇続ける学費とその他の費用、大学へのアクセスの上昇し続ける不平等、そして増大し続ける教育ローン。投資はかつてよりもずっと高くつくものとなり、それをもっとも必要とする人たちには手の届かないものであり続けている。
需要側でも問題はだんだんと明白になってきた。大学卒業生のなかでの高い失業率と高い不完全雇用だ。
歴史的なデータは、ちゃんと単位取得を満たし、そして雇用を見つけた者についてはいまだに高い経済的利益のあることを明かしている(とくに彼らが親からのサポートか気前のよい金銭的補助を得られたならば)。
しかし個人的な収益率は低下し始めている。将来利益の不確実性が学位の予想金銭価値を引き下げているし、収益率は個人の特性、学生の通う大学、そして彼らの選んだ学部によって大きく変わる
非常に尊敬をあつめている経済史書、The Race Between Education and Technologyにおいて、クラウディア・ゴールディンとローレンス・カッツは大学教育を受けた労働者への需要は、1980年ごろにその供給を上回り始めたと主張している。それ以来、大学プレミアム、つまり学士の学位を持つ者と持たない者の間での生涯賃金の差は増加してきた
しかし90年代に、大学教育をうけた労働者の世界的な供給が急速に増加し、アメリカの大企業は他国での技能労働者の利用法を向上させた。経済学者リチャード・フリーマンが指摘するように、発展途上国はその高等教育システムへ大規模にそして成功裏に投資を行ってきた。2005年には、中国の大学は1999年と比べて5倍もの学士の学位を授与している。
教育を受けた労働者の世界的な供給増は合衆国における大学プレミアムを引き下げるプレッシャーとなりそうだ。
また別の可能性として、高度な教育を受けた労働者への需要は近年、その姿を変えてきた。インフォメーションテクノロジーの急速な向上により、雇用主は今では、多数のゼネラリスト的な、多様なリベラルアーツ大学の卒業生ではなく、少数の特化した技術的な訓練をうけたエキスパートだけを雇おうとしてるのかもしれない。
間違いなく、学生達はいまでは学部についてより戦略的に考えて、より技術的な分野に特化する事を勧められるようになっている。これは金銭的にはよいアドバイスだが、しかし成功を保証してくれはしない。ある投資から別の投資へと簡単に移すことができる金融資本とは違い、人的資本への投資はサンクコストになってしまうからだ。
学生達がドンドンと科学、技術、エンジニアリング、そして数学へと集まってくれば、こういった学部の賃金プレミアムは低下してしまうだろう。技術的変化の速さと進行中の労働市場の世界化により、特化したものが陳腐化してしてしまう学生もでるかもしれない。アプリを書くためのアプリというのもおそらくそのうちに出てくるかもしれないし。
世界的な人的資本市場の進化には重要な政治的意味がある。多くの民主党員同様、オバマ大統領は人的資本に積極的だ。幼児期から大学プログラムまで、彼は教育への公共投資増加を支持している。こうした支出が高い個人的・社会的な収益を生むという主張は、高い教育を受けた労働者への需要は高いままであるという楽観的な予想に基づいている。
その一方、公的な教育補助についての多くの批判者は人的資本について悲観的だ。たとえば経済学者のリチャード・ベッダー(Richard Vedder)は、大学卒業生がその学位を必要としない職につく傾向が高まってきていることを指摘して、教育への私的・公的な過剰投資双方に警告している。
もし悲観派が正しければ、自国産の人的資本の供給増加にはますます依存しなくなっていく資本主義の段階に向かっていきつつあることになる。その場合、合衆国での高等教育投資に積極的な人達の多くは、ミンチになってしまいかねない。
私もそうなのだが、教育というものは個人にとっても社会全体にとっても内在的な価値があると信じている人達は、市場での私的な収益率に基づいた理屈に頼る習慣を再考するべきだろう。
市場の力に頭を垂れてしまうのではなく、知的で教育を受けた市民ならばそういった力を人間の能力の最上の開発などのより良い目的へと振り向けるのだろうから。