P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

12. 長時間労働

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第12セクション「長時間労働」の翻訳です。
いかにも仕事中毒のアシモフらしいセクションですね。英語版Wikiのアシモフの項によると、アシモフは1992年までの72年の人生*1で500冊以上の本を執筆・編集し、9000以上の手紙とはがきを書いていて、書籍についてのデューイ十進分類の10項目で彼の本がないのは哲学・心理学の一項目だけだそうです。(追記:付け加えると、ボストン大学で化学の准教授もやってました。この翻訳を行うことにした理由の一つは、院を出た後の就職問題への共感でもありましたので(アシモフも苦労したのですよ)、翻訳は大体その頃のセクションまで続けるつもりです。)
ところでこのセクションを読んでいると、俺もがんばってもっと働こう!と思うのですが、同時に、でも日本で長時間労働というとどうしても過労死とかのイメージもでてきますよね。アシモフも、過労死してしましまうような日本のサラリーマンと同じくらいの労働時間だと思うのだけど、やっぱり違いは自分のしたい事を自分ひとりでやっているということですかね。そういう境遇になれるようにがんばらなきゃダメか。


12.長時間労働
6歳から22歳までの間の私の人生の中のもっとも重要な要因は、私の父のキャンディーストアーだった。
それには多くの利点があった。私の父は自営業者なのだから、首にされることはない。1929年の株式市場の暴落の後、大恐慌が起こってからは、これは非常に重要なことであった。何百万人もが失業し、失業保険などなく、社会保障もなく、社会は不運な者達に時折カンヅメ缶のなかへ10セントを放り投げる(「兄さん、10セント恵んでくれないか?」)以外にも何かするべきだとは思われていない時代、人々は街角に立ってりんごを売るか、ゴミ箱をあさるか、それとも餓死するか、という状況だったのだ。
大恐慌による傷を負わずに、それをくぐり抜けることの出来た者はいないだろう。少なくとも合衆国においては、それによる破壊は第2次世界大戦を上回ったのだ(もし何百万もの戦死・負傷者を無視したならだが、勿論そんな事は出来るものではない)。「大恐慌時代の子供」はヤッピーなどになれない。大恐慌以後のどんな経験も、それを経験した者にこの世界は経済的に安全なのだと確信させる事はできないのだ。銀行は倒産するし、工場は閉鎖されるし、解雇の知らせはやって来るものなのだと、どうしても思ってしまうのだ。
しかし、アシモフ家は逃れることが出来た。なんとか、だ。我々は貧しかった。しかし、いつでもテーブルには食べ物があり、家賃は払う事ができた。空腹や家賃未納による立ち退きに脅かされる事はなかった。それは、なぜか?キャンディーストアーだ。それによって、生活に十分なだけの収入があったのだ。確かに、最低限であった。しかし大恐慌においては、最低限すら天国であったのだ。
勿論、それには代償もあった。どんなものにも代償がある。キャンディーストアーをやっていくには、私の母と父が持てるすべての時間をつぎ込む必要があった(もっとも、それでも母は家をそれなりにきれいにしておき、食事を準備する時間をなんとか見つけ出していたのだが)。
これはつまり、6歳の時以来、私は伝統的な両親−−家にいて、キッチンにこもり、あれやこれや必要な時にはいつでもいてくれる母親、そして仕事が終わった時には家に帰ってきて、週末には一緒にいろんなことをしてくれる父親--を持つことは出来なかったということだ。
だが一方で、私はいつでも両親がどこにいるのかを知っていた。両親は店にいて、そこに行けば必ず会うことができた。それは、私が思うに、安心を意味するものでもあった。
私が9歳の時に母が再び妊娠して、私もまた働くことになった。父には他に選択肢はなかったのだ。そして一度店で働くようになると、私が家を出て弟が、そもそも私が奴隷労働をする事になった理由の弟が、代わりに働き始めるようになるまで店を出る事はなかった。(すぐに説明するが、私はそれを奴隷労働などとは考えていなかった。)
キャンディーストアーに関する非常に特徴的なことは、長時間労働だ。私の父は朝の6時に店をあけた。雨が降ろうが、晴れようが、吹雪が来ようが。そして夜の1時に店を閉めた。父の夜の睡眠時間は4,5時間だった。父は、午後にいつでも2時間の昼寝をして、それを補った。<毎日>だ。土曜も、日曜も、そして祭日も含めて。
我が家がユダヤ人街に店を持っていた時には(店を転々と替えていって、我が家は5度、店を持った)、近所の人達の感情を害しないように*2ユダヤ教のもっとも重要な祭日には店を閉めた。しかしほとんどの場合、我が家は異教徒*3の住む場所で営業していたから、店を閉めることはなかった。実のところ、店を閉めた非常にまれな時には、どうにも落ち着かなかったことを覚えている。なにか我が家の在り方とは違う、おかしな事をしているかのようだったのだ。店をまたあけた時にはホッとして、普通の我が家に戻ったかのようだった。
そういった長時間労働は私にどういう影響を与えただろうか?
まず収支のマイナス面から見ると、私の自由な時間などは事実上ゼロになってしまった。私が10代の時ですら、友達づきあいなどを持つ希望はまったくなかったのだ。女の子など、ただ遠くから眺めるだけだった。
学校では、「学校外活動」にも、授業の後のどんなクラブやチームにも、参加できなかった。家に帰って、店へ行かなければならなかったからだ。これは私の成績に響いた。高校では、学校外活動をしなかったので、オナーソサエティー*4に入る資格がなかった。しかし私は家の事情を言い訳に使おうとはしなかった。そんなことをしたらまるで私が両親に対して文句を言っているように響くし、そんな事はしたくなかったのだ。
だが、残念には思っていない。
勿論、キャンディーストアーが我が家と破滅の間に立ちふさがってくれていたのだということを理解できないほど私は愚かではなかった。そして父と母が出来る限り働いている時に手伝おうともしなかったなら、私は自身が望むよりもずっと卑しい人間だったということになる。
さらに、それだけではないのだ。プラス面があった。長時間労働が実は好きだったのは間違いない。後々になっても、私は「子供のときと青春時代にずっと働いていたのだから、もうのんびりして昼まで寝ていよう」の態度を取ったことは一度もない。
まったく逆だった。私は人生でずっとキャンディーストアーでの労働時間をずっと守っている。出来る限り早くから仕事にかかる。出来る限り長く働く。毎週、毎日、祝日であれ、これを行っている。バケーションなども自分からは取らないし、バケーションに行ってすら仕事をしようとする。(入院している時ですらそうなんだ。)
言い換えると、私は今でも、そしていつまでもキャンディーストアーの中にいるのだ。勿論、私はお客を待ってはいない。お金をもらって、おつりを返したりもしない。やってきた人達全員に丁寧であらねばならないわけでもない(ま、実のところ、これはそんなにうまかったわけでもない)。代わりに、私は本当にやりたい事をやっている--しかしスケジュールはずっとそのままだ。そのスケジュールは私の中に刻まれているのだ。守る必要の無くなり次第、捨てさってしまうと普通なら思われるようなスケジュールだ。
私に言えるのは、キャンディーストアーからもたらされた恩恵には、ただ単なるサヴァイバル以上のものがあったということ、実はあふれるような幸せがあったのであって、それが長時間労働と密接に絡み合っていたものだから私には労働自体が楽しくて、そして私の人生全体にそれが刻まれることになったのだということだ。何を言っているのかは、すぐに説明しよう。

*1:実はアシモフは1919年生まれかも知れないそうですが、I.Asimovでは1920年生まれと本人がはっきり書いてますから、それに従います。

*2:キリスト教もそうだけど、ユダヤ・キリスト教系では、本来祭日には働かないことになっている。

*3:ユダヤ教徒ではない者達。

*4:成績優秀かつ授業以外の活動も積極的に行う優秀な生徒の集まり。入っていると大学進学に有利になる。