46. 職探し
1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第46セクション「職探し」の翻訳です。
アシモフ自伝「職探し」編進行中。しかし、職探し、ってつらいですねぁ...思い出すとため息でます。でもアシモフみたいに最終的にうまく行くなら、途中の苦労も人生の調味料だし、甘い復讐の喜びまでついてきます。このセクションの教訓は「人様の博士論文は大切にしましょう」ですね!
46. 職探し
私の職探しにおける最低の時は次のように訪れた。ブルックリンに拠点を置いた製薬会社のチャールズ・ファイザー*1に雇われた私の知人が、私の為にその会社の重役との面接を取り付けたと言ってきた。約束の時は1949年2月4日の午前10時で、お分かりだろうが私は当然ながら時間通りに出向いた。私が会う事になっていた重役は、そうではなかったが。彼は午後2時になるまで現れなかった。昼食をまたぎながら4時間もそこに座って待っていたなんて、言葉に出来ないほどの愚かしさではある。しかしその時、私は良識ではなくどうにもならない怒りによって支配されていたのだ。そんなあまりにも傲慢なやり方で追い払われるつもりは無かったのだ。
その重役は最後にようやく現れた。彼が現れるまで、私が絶対に出て行こうとしないようだと告げられたからだろう。私はまったく興味なさげに対応され、碌に時間もかけられる事はなかった。
働きたくはないと思えるには十分なだけチャールズ・ファイザーの事は知る事ができたので、もし仕事をオファーされていても、私は断っていた事だろう。とはいえそんな事は無意味な事だった。私は自身の扱われ方に怒り、その怒りは収まる事がなかった。私の心のなかではそれはまるで昨日の事のように鮮明である。悪意を持つことは誇れることではないし、また私もそんな風に持つことは恐らくなかっただろう。ある最低の事がなかったなら。
その扱いはともかくとして、私はその重役に、慎重に作られ丁寧に製本された私の博士号論文を手渡した。彼が感銘を受けるだろうとか期待していたわけではない。しかしそうする予定だったので、とにかくそうしたのだ。数日後、論文は私の元に郵送されてきた。私の「パンフレット」を返すという、短く冷たいメモと共に。それは私の心には、侮辱であった。あのつまらない存在が博士論文の事を分からなかったとは、私には信じられない。なんといってもその表紙には博士論文であるとはっきり書かれていたのだから。それを「パンフレット」などと呼ぶのは、作家を三文文士と呼ぶのと同じ事であって、私は彼の事を許した事はない。
チャールズ・ファイザーについて後一つ述べて、それでこのセクションを閉めよう。何年も経ってから、彼らが私にその重役達に講演をしてくれと依頼をしてきた。依頼額は5000ドルであった。私は通常、額について交渉などしない。その頃、5000ドルというのはマンハッタンで講演を行うには十分な額であった。しかし、ファイザーについては私は特例とした。私は6000ドルを要求して譲らず、彼らは最後には折れた。
その追加の1000ドルは何年も前の私の心の痛みを癒す為のものだったが、その上さらに、大きな拍手のなか講演を終えて小切手を収めた後、私は一体なぜ彼らが1000ドルも余計に払う事になったのかを説明した。
それで気分がよくなった。これは私の小ささや卑しさであるが、しかし私も人間である。復讐を狙っていったわけではないのだが、しかし向こうからやって来たのだ。やらずに済ますなど、できなかった。
ファイザーの件は私の職探しにおけるまさに最悪のことであったが、他が特によかったわけではない。仕事は見つからなかったのだ。
*1:後のファイザーである、ってマジで。