P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

「人的資本政策と所得分配:分析のフレームワークと先行研究の検討」パート2

このアセモグルの論文のパート2の訳です。
訳についての注意:
早く訳すために、カナを多用しています。例:skill - スキル, premia - プレミアム
人名などの固有名詞については、有名なもの以外はアルファベットそのままとします。
2 イントロダクション
2.1 目的
所得と賃金の不平等(分散の程度でみる)は多くのOECD諸国で、特にアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、そしてニュージーランドのアングロ-サクソン諸国において、急速に上昇した。たとえばアメリカにおいては、1980年で大卒者の所得は高卒者のそれより40%高かったが、今日ではこれが60%以上となっている。週給の標準偏差は1980年でおよそ0.5であったが、今日この数字は0.6を越えている。確認できる証拠は、ニュージーランドでの上昇はアメリカ、イギリス、そしてオーストラリアよりも更に高いことを示唆している(Dixon, 1998, O'Dea, 2000, Borland, 2000)。
賃金の不平等の上昇はスキルへの見返りの上昇を反映しているのかもしれないが、不平等には社会的コストがあるというのが社会科学者、経済学者、そして政策担当者の一般的な認識である。この為、不平等を減らす方策への感心が高まってきている。不平等対策には、大きく分けて三つの政策がある。

1.人的資本政策。この政策は、社会全体の、あるいは社会の中のあるグループの人的資本を増やそうという政策である。これは、第一に異なるグループ間でのスキルギャップを減らす事により、第二にスキルの供給を増やしてその希少性を減少させることでスキルの価格を下げる事により、不平等に影響を及ぼす。
2.賃金圧縮政策。これは、一定のスキルの供給の下で、企業にスキルのある労働者とない労働者の間での報酬ギャップを下げるように促すか圧力をかけるという政策である。
3.再分配税制。このタイプの政策は賃金のありようを大枠で変えることはないが、高所得者への税率を高め、低所得者への税率を下げる事で税引き後の所得分配をより平等化する。

経済学者の中での一般的なコンセンサスは、賃金圧縮と再分配税制政策によって出来る事は限られている、というものだ。よって、人的資本政策が所得の分配をどのように変えるかと、その政策のコストとベネフィットについての考察からはじめるべきだろう。だが私は賃金圧縮政策や再分配税制政策が不平等を減らす、すくなくとも抑えるのに、一般に考えられているよりも効果的だと思っているのでそれらについても後に考察する。
このレポートの目的は、様々な人的資本政策の効果と、そのコストとベネフィットについて調べることである。賃金の不平等と人的資本への投資については、重要な洞察を生んだ学術文献がすでに多くある。このレポートではその発見を吟見して、政策評価に使えるシンプルなフレームワークの中に組み込み、政策についての一応の評価を下すことを試みる。

2.2 アウトライン
人的資本政策の効果についての分析の為には、不平等の主要な要因をきちんと取り上げるフレームワークから出発する必要がある。このプロポーザルのパート3において、スキルの需給および分布と賃金不平等を結び付けるもっとも一般的なフレームワークから出発する。このシンプルなフレームワークは[以下のような]多くの重要な点を取り扱う事ができる。

1.賃金の不平等は、個人間でのスキルギャップとスキルの価格(スキルプレミアム)によって決定される。
2.人的資本政策は不平等について、直接間接双方の影響を持つ。直接の影響とは、人的資本政策によるスキルの分布の変化である。たとえば、もし政策が低スキルの個人により多くのスキルを身につける事を促進するならば、スキルギャップは小さくなる。しかし、高所得の人達がスキルへより多くの投資を行う事になれば、人的資本政策の結果として不平等が高まる事になる。人的資本政策は、社会におけるスキルの価格を変えることによる間接的な影響もまた持つ。ある程度の逆効果もあるものの、この副作用は、社会の中のスキルの供給を増やす事で、スキルプレミアムを減らし、よって不平等を減少させる傾向がある。しかし、この有用な効果には時間がかかり、また多大なファイナンシャルなコストもかかる。
3.比較的低スキルの移民は、同様の直接間接の効果の経路を通して不平等を高めるようだ。新しい移民は比較的低スキルである事が多い為、結果としてほとんどの自国生まれの市民よりも低所得となりがちだ。その為、より多くの低スキルの移民は、所得分配のトップとボトムの間でのギャップを拡大して不平等を高めてしまうかもしれない。低スキル労働者移民の増加は、スキルの相対的供給を減らし*1、スキルプレミアムを高めて、自国生まれの間での不平等もまた高めるかもしれない。逆に、より多くの高スキルの移民は、不平等を減らす傾向があるだろう。
4.過去30年における科学技術の変化により、多くの国でスキルへの需要が更に増加してゆくだろう。とくにニュージーランドにおいては、現在、そして将来の更なる不平等への傾向を作り出すだろう。
5.国際貿易の増加もまた、更なる不平等への傾向を作り出すかもしれない。特にもし低開発諸国との貿易が更に拡大してゆくならば。しかし、この効果は比較的小さいものであるだろう。

パート3のシンプルな需要-供給フレームワークは重要な要因について考察するのに有用だが、それが取りこぼす要因も多い。このプロポーザルのパート4で、私はそれらについて考察する。以下の要因について特に注意を払う。

1.教育と選択のシグナルとしての役割:もし教育が被雇用者の観察され得ない能力に関する潜在的な雇用者へのシグナルでもあるならば、スキルの供給と不平等の関係は[単純に考えた場合のものとは]違ったものであるかもしれない。たとえば、高い教育を受けた人達の比率が高まれば、これは雇用者へ向けての低教育の人達の能力は低いというシグナルとなり、低教育労働者の所得を減らしてしまう事になるかもしれない。またシグナルとしての役割がなくとも、もし通常のサーベイでは観察され得ない異なる特徴をもつ労働者がその特徴に応じて異なる教育を選ぶのならば、同様の事が起りうる。たとえば、高い教育を受けていない者は、じつは観察できないタイプの低スキルを持つ者だけなのかもしれない。そうならば、やはり教育のある無しによる所得のギャップが発生する[不平等の原因が教育でなく個人の能力ならば、教育水準を高めようとする通常の人的資本政策は不平等対策として意味がない事になるという事。]。しかし、私はアメリカにおいてこれが重要な要因である事を示す証拠はほとんどない事を示す。よっておそらく、ニュージーランドにおいてもこれが重要である事はないだろう。
2.労働市場でのレント・シェア。労働市場でのレント・シェアのパターンの変化によってどのように不平等が変化しえたのかについても、私は考察する。たとえば、かつては労働者が労働市場のレントを分け合う事により高い賃金を払っていた仕事がその賃金を引き下げる事に成功したならば、多くの労働者はその実質賃金の低下に見舞われる事になるだろう*2。このような労働市場のレントの分配の変化は不平等を高めえる。私は、過去25年間で労働市場でのレントの変化はアメリカにおいて起ったが、それが不平等の上昇の主要な要因ではなかっただろう事を示す。
3.良い仕事と悪い仕事。仕事の質についての構成の変化が不平等の上昇にどのような影響をもったかについても考察する。その結論は、仕事の質の分布における変化は重要であっただろうが、不平等上昇の原因に関する結論を変えるほどのものではないというものだ(しかしそれは不平等の厚生に関しての意味を幾分変えてしまうが)。

全体的としてこのレポートのパート3と4の結論は、所得の不平等を減らすのに最も有用な政策は所得分布のトップとボトムの間でのスキルギャップを縮小させる政策だというものだ。
パート5では、教育とトレーニングへの投資の為のインセンティブについて、市場の失敗に重点をおきつつ考察する。レポートのこのパートの主要な結論は、融資市場の問題の為に教育とトレーニングへの過少投資が発生しやすい、というものである。人的資本の外部性によってもまた過少投資は発生するが、実際にはそれは特に重要なものではないように思われる。
他の多くの要素もまたトレーニングのインセンティブと効果の双方に影響を及ぼす。私は、どういう条件下で企業がその従業員のトレーニングの為の投資を行うか、そして企業と労働者の間での契約の問題が、効果的な規模での投資が行われるかどうか、いやそもそも投資が行われるのかどうかという問題をどのように複雑なものにしてしまうのかについて考察する。さらにまた、労働市場に非競争的要素がある場合、賃金圧縮がトレーニングの投資の増加へと結びつくかもしれないことを示す。
レポートのパート6では、不平等を減らす為のさまざまな政策について考察する。このパートの主要な対象は人的資本政策であるが、人的資本の分布を直接には変えることなく不平等を減らす政策についての考察からこのパートは始まる。より具体的には、私は民間分野での賃金圧縮を促進する政策や再分配税制について考察する。文献からの結論は、以下のように要約することができる。
1.多くの経済学者が、最低賃金や累進的失業保険(progressive unemployment benefit)などの賃金圧縮政策のインセンティブ減少と雇用削減の効果について懸念している。私はそのような効果はこれまで誇張されてきたのではないかと主張するものだ。このことはつまり、ある程度の賃金圧縮政策は所得の不平等の制限のために有用だということを意味する。ニュージーランドでは最低賃金はすでに比較的高めであるので、ある程度の賃金圧縮は起こっているだろうし、さらなる賃金圧縮政策は不要だろう。しかしその場合でも、この分析は賃金の圧縮を促進する既存の政策を廃止する必要はないことを示している。
2.同様に、累進課税のインセンティブ減少効果もまた、これまで誇張されてきたのではないか。穏やかな再分配政策は、税引き後の所得不平等を減少させるのに効果的であるだろう。
3.上で触れたように、所得不平等を減らすのにもっとも効果的な政策は、所得分布のトップとボトムの間でのスキルギャップを縮小させるものである。よって、人的資本政策がそのもっとも重要なものである。また、人的資本への過少投資が起こっているのではないかと考える多くの理由があるので、人的資本へのある程度の補助もまた必要であろう。しかし、政府はすでに三つのレベルでの教育*3すべてについて補助をおこなっている。よって、さらなる直接的な補助が必要なものなのかどうかはあきらかではない。
4.多くの経済学者とコメンテーター達は大学教育への更なる直接的な補助を主張しているが、そのような政策は政策立案者達にとって最適なオプションではないかもしれない。そのような政策は主に中・高所得の家族を利するために、しばしば逆進的であるのだ。
5.もし目的が融資市場の問題の緩和であるなら、教育ローンがよりよい政策のツールだろう。しかし、もし人的資本政策の目的が低所得家庭の大学進学の向上であるなら、所得による制限のついた補助もしくは奨学金(need-based or means-tested subsidies or scholarships)が最適な政策だろう。そういう政策はより低費用であり、そして低所得家庭における大学教育促進により効果的であるだろう。
6.このレポートの重要な結論は、大学教育の促進は所得分布のトップとボトムにおけるギャップを減少させることはないだろう、というものだ。これは大学進学を促進する政策は賃金分布の最下層(たとえば下位10%までに位置する家庭)の労働者の人的資本に影響を与えることがないからだ。よって、そういう政策はミドルとトップの間のギャップを狭めるかもしれないが、ボトムとトップの間のギャップに影響は与えないだろう。トップとボトムの間のスキルギャップを狭めるには、低所得家庭がよりよい中等教育を受けられる政策や、比較的低賃金な労働者へのトレーニングを促進する政策などが必要である。
7.そうでなければ労働市場に参加できないような個人に最初の雇用機会を与えるワーク・ファーストのタイプの政策、そしてデイ・ケアなどを提供することで低所得の家族の子供達への小学校入学前からの人的資本蓄積を助ける政策などもまた有用であるだろう。しかしそういった政策が、全体的な不平等の低下のためのもっとも効果的な政策であることはまずないだろう。

*1:供給における高スキル/低スキルの比率を低めるという事。

*2:これはたとえば、労働組合による労働の供給制限から高い賃金がレントとして実現していたが、組合の弱体化により賃金が下がった、といったケース。

*3:初等、中等、高等教育。