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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

40.戦争後の生活

SF アシモフ

1992年に亡くなったアイザック・アシモフの最後の自伝的エッセイ、"I.Asimov: A Memoir" (1994)の第40セクション「戦争後の生活」の翻訳です。
「戦争後」というか、「直後」のアシモフです。なんとまあ、戦争終了後に陸軍に徴兵されてしまいます。ですが、その陸軍時代にアシモフに大きな変化を迎えるのでした、というお話。

ところで最近よく映画を観てまして、こないだ「マン・オン・ワイヤー」「エヴァンゲリオン破」、そして30周年リバイバル上映の「ガンダム1」を観てきたのですが、その3本ともに上空高くに横になりながら小さく映る人間・ロボットという構図がありました。とくにガンダムとエヴァはどちらも上空を滑空しながら射出されたライフルを受け取るという構図でした。その構図については、ドキュメンタリーである「マン・オン・ワイヤー」が一番インパクトがあったわけですが、しかし正直一番かっこよかったのはガンダムでした。まあガンダムの映画はほんと良い絵、というか色っぽい絵と、いかにも昔のテレビアニメって絵が混じってますが、でもいいなぁ。今回劇場で改めて見返してみて、改めてマチルダさ〜ん!と思いましたです(なんじゃそりゃ!)。でも、「エヴァ」はどうなんだろう...TV放送時は繰り返し、繰り返しビデオを見てたんだけどなぁ。

追記:このエントリーの投稿後、ガンダム2・哀戦士編を観てきました。いいのだけど、やっぱりめぐりあい空編が待ち遠しいかな。でも、ハモンさん、時々絵がものすごく良くなるなぁ。しかし、最近観た映画で一番はなんと言っても、ミッキー・ローク「レスラー」です。俺はエンディングで涙が止まりませんでした。「マン・オン・ワイヤー」上映前に「レスラー」予告編が流されたんですが、その時もウルウルきましたし。でもこれっておっさん向けの映画なので、鑑賞後は、ああ俺ももうおっさん!と自覚させられましたが。なので、日本中の全てのおっさん自覚のある人は、アシモフと一緒に「レスラー」もよろしく!


40.戦争後の生活
1945年9月2日、戦争は終結し、合衆国は対日戦勝記念を盛大に祝った。1945年9月7日、私は徴兵の通知を受け取った。
自己憐憫するのには、なんて最高のチャンスだろか!誰もがお祝いをしている時に、私はこんな風に始まる手紙をながめていたのだ:「拝啓*1」 それは私の26歳の誕生日の6週間前で、欧州戦勝記念日の後、徴兵の上限年齢は26歳に固定される事になっていた。後6週間後だったら、なんの問題もなかったのに。
自己憐憫というのは酷い気分のもので、そんなものから自分自身を抜け出させようと私はがんばってみた。結局、血まみれの戦いが行われた何年もの間、私は徴兵を免除されていて、ついにその指が私の肩をたたいた時には、もう平和になっていたのだ。銃声は静まった。ヒロイズムを示さなければならない機会を与えられる事のなかった事を臆病な私は感謝するべきであったのだ。
さらに、私が自分の研究に戻ろうとしていた時に、なぜ私が徴兵されなければならないのかは分かっていた。私が軍隊に入るのは、その代わりに激しい戦いを終えた兵士の一人が故郷に帰ることができるようにする為なのだ。私は彼と交代するのだ、安全に。私はそれを奇妙な、興味深い経験としてそれを捉えるべきだった。
それら全ては道理であり、理性的な理屈であった。そしてまるっきり無駄だった。どうにも私には自分の事がかわいそうでならなかった。
1945年11月1日、私は陸軍に入隊した。私が陸軍に丸一日所属していた最初の日の終わり、つまり11月2日の夜、私は荒涼とした基地を眺めながら、「2年だ!2年だ!」と考えていた。私は永遠の深淵を覗き込んでいた。
実際のところ、陸軍では私は辛い目になど全くあわなかった。私は厳しくそして退屈な基礎訓練を受けなければならず、そして他の兵士達のほとんどとはうまくやって行けなかった(驚いた?)。しかし何かについて罰されるような事はなかった。私のAGCTスコアー160によって、私は仕官達の目には兵士になるにはあまりにもバカすぎると映る様になってしまっていて、彼らは熱心に私を無視した。これは私にはまったくありがたかった。
1946年の2月までには、私は陸軍のやり方になんとか慣れるようになっていた。私が基礎訓練を受けたヴァージニア州のキャンプ・リーは、時折の休暇でガートルードに会いに帰ることができるほど家に近かった。私はさらにニューヨークに近いどこかへ配属されるように熱心に祈っていた。
無駄であった。原子爆弾が南太平洋のビキニ環礁で実験されることになっており、多くの兵士がその任務につく事になった。そして私もその中にいたのだ。期間不明で家から何万マイルも離れたところへいくのだ。その時、私は死すら歓迎したことだろうと思う。
親切な図書係がなぜそんなに辛そうなのかと尋ねてきたので、私は哀れな口調で私の悲しい物語を彼女に語った。彼女は話を聞いてから、冷たくこう言った。「あのね、ここには誰も、世界中をみても誰も、問題がない人なんていないのよ。どうしてあなたは自分を特別だと思うわけ?」
お分かりだろうが、これによって私は自分自身の愚かさと直面させられ、そして自分の運命に従う事になった。
陸軍での経験の詳細について語るつもりはない。退屈でつまらないものなのだ。AGCTスコアーでは一番上になったのとまったく同様に、体力測定では私は一番下になった--両方とも、2番手にはかなりの差をつけて。私も時折は台所勤務*2についたが、大抵は避けることが出来た。これは私が早いタイピストで、タイピストは(a)事務においてとても需要されており、そして(b)台所勤務に回されることは免れることになっていた、からだ。
もちろん、私は陸軍に対して、そのやり方ゆえに、その頭の悪さゆえに、その無神経さゆえに、その無意味さゆえに、完全なる嫌悪を抱くようになったが、しかし思い返してみれば、それは陸軍よりも私にとってずっと損失であった。
その状況を理性的に受け入れようとしなかった為に、もしかしたらエッセイや小説の中で使えていたかもしれない陸軍の奇妙なサブカルチャーを観察できなかったし、そしてなにかあったであろう楽しめたはずのものを楽しむこともできなかった。たとえばビキニ環礁へ向かう途中、任務もなしに私はハワイで10週間をすごすことになった。その美しい場所を楽しむ事に全ての時間を費やす事だってできたはずなのだ--しかし私はそんなことをしようとはしなかった。私は頑固にこれはすべて忌むべき追放なのだと考えようとしていたのだ。(にもかかわらず、私はハワイにおいて軽い水虫にかかってしまった。そして以来、それは完全には治っていない。)
ところでハワイにいる間、それだけを取り上げると特に重要とは思われないが、しかしながら振り返ってみると、私の社会生活におけるターニング・ポイント、おそらくはもっとも大きなターニング・ポイントであったと思われる事が起こったのだ。
ハワイを経由してビキニ環礁へと送られる兵士の集団には6人の「非常に重要な専門家」(つまり、科学についての訓練を受けている兵士のことで、私もその一人だった)が、多くの高卒あるいは高卒未満の者達のなかに含まれていた。(「農家の息子達」*3と私は彼らの事を、かなり冷たく考えていた--しかし彼らのほうは私の事をさらに冷たく考えていて、それを時々あらわにしていた。私は兵舎のなかで最年長で、時々彼らは私のことを「パパ」と呼んだのだ。これは私の気持ちを傷つけた。心の中では、私はいまだに神童であったからだ。)
我々「非常に重要な専門家」は当然ながら一緒にかたまっていた。そして実際のところ、我々をキャンプ・リーからハワイまで送り届ける列車と船において彼らと一緒にいたのが、私にとって、陸軍における、良い経験と呼べるものにもっとも近いものであった。我々はブリッジを数え切れないほどプレイした。私の腕は酷かったが、しかしそんな事は問題ではなかった。楽しみの為だけにやっていたのだから*4
とにかくある時、私はホノルルの兵舎に一人でいた。他の5人の専門家達はどこかへ行ってしまっていて、私一人だけが残っていたのだ。農家の息子達とうまくやる事は出来ず、私は兵舎のベッドの上に横になりながら読書をしていた。
兵舎内の少し離れたところには3人の農家の息子達がいて、彼らは(我々の任務の内容からして、我々皆がそうだったように)原子爆弾に興奮していた。
3人のうちの1人が原子爆弾はどのように働くのか後の2人に説明する役を買ってでていた。そして言うまでもないが、まるっきり間違っていた。
うんざりしながら私は本を置くと、ベッドを出て彼らの元へ行こうとし始めた。「賢人の責務」を背負って、彼らを教育しようと、だ。しかしながらベッドから足を離している途中で、私は考えた。「誰がお前を彼らの教育者に選んだんだ?原子爆弾について誤解していたら、何か彼らに問題がおこるのか?」そして私は自分の本に戻った。
これが覚えている限り、私がその聡明さの表明への衝動を考慮のうえで抑えた最初の機会であった。
私の性格がいきなり、完全に変わったというわけではない。しかしそれは一歩、小さな第一歩であったのだ。新しい私と呼ぶしかないものの形成への。私はまだに多くの人にとって鼻につく嫌な存在であったし、上官ともうまくやっていけなかったが、しかし私は変わり始めたのだった。私は「スイッチを切る」事ができるように、私の頭の良さをいつでも誇示しないでおけるようになり始めたのだった。
質問されれば答えるし、説明が求められれば説明もする。教育的な文章を読みたい人の為にそういったものも書く。しかし、求められてもいない時に、私の知識を自主的に提供することはしない事を学んだのだ。
そのことによる変化は驚くほどであった。非常にゆっくりとだが、私は成熟していったように思われた。その過程において、私の組成におけるもっとも大きな要素であり、私を他人から非常に不人気にしていた、♪ぼくは何でも知っている!!♪シンドロームが変化していっているように感じられた。実のところ、年々、人が激しさを増して私に語ってくる事を信じるならば、私は非常に愛される老人になってきたようなのだ。人生を3分の2遡った昔においてどうだったかを思い返すと、私はいつでも驚愕してしまうのだ。とくに美しい若い女性などが私をまるでかわいいテディ・ベアであるかのように接してくれる時には。そして幸運にも、私はお世辞を真にうけるすべを学んでいる。*5
そして私はその全てが、誓っていうが、そのホノルルの兵舎でのその時から始まったのだと思うのだ。
なぜその時に起こったのだろうか?多分、「パパ」と呼ばれる、自分が最年長であるという慣れない役割の為に、私の中に年齢からくる落ち着きができたのだろうか。恐らく私のアカデミックの能力における低下、お分かりだろうがさすがに私にも気づかないでおくことは出来なかったそれにより、学問的なことでの絶対的な「頭の良さ」を感じることが出来なくなったのだろうか。
我々が行うすべての事は、当然ながら、我々がほとんどコントロールできない周囲のものごとについての条件の様々な変化の結果である。私の鼻につく嫌な子供から愛される長老への変化は、そうしようという意識的な決断ゆえに始まったのではない。そうではなく、単純に人生が色々な面で私を意識しないうちに形作っていったのだ。
それが正しい方向で私を形作ってくれた事を、私はただ感謝するだけである--そしてそうなったことは私自身の功績ではないのだ。
さらに、その中で私は何かを失う事もなかった。説明する事や教育する事の喜びは失われる事は無かった。読者を教育し、啓発する事を目的とする何千ものエッセイを書き、聴衆を教育し、啓発する事を目的とする何百もの講演・トークを行い、そして私のサイエンス・フィクションが教育的側面を持つ、そういった時がやがて来ることになっていたのだ。
しかし、そしてこれが重要なのだが、誰も私の書くものを読むように強制されるわけではないし、そしてまた実際、地球の人口の大部分は私が書くものを読んではいないのだ。私の教育のための努力は、すべて自主的にそれを受けたいと望む人達に捧げられているのだ。
これは、私の教育したいという衝動を望まぬ犠牲者達に押し付けるのとは、まったくもって完全に違っている。そしてそれだけが私が失うことを選択したものなのだ--そしてそれがすべての違いを生んだのだった。
私の陸軍生活における別の変わったことは、陸軍にいた間に書いた一つの小説だった。基礎訓練の間、私は図書係に、図書室の昼休み閉室中、私をその中に入れさせて、タイプライターを使わせる事を納得させていた。何度目かの後、私はロボットの小説を一つ完成させ、キャンベルにそれを送った。それは「証拠」(Evidence)と名づけられて、ASFの1946年9月号に掲載された。
その小説についての興味深い事は、短編集収録の際に誤植の確認の為、それを読み直してみて、それこそが40年後にも書いていたとしてもおかしくない最初の小説だったことだ*6
パルプくささの最悪のものは突然なくなり、そして「証拠」以降、私はもっとずっと知的に(少なくとも私にはそう思えるように)書くようになった。陸軍にいる間になぜ急に私の文体が成熟するようになったのか、私には分からない。それについて考えてきたけれど、しかし答えは無いままだ。
結局のところ、私は陸軍に2年も留まってはいなかった。事務上の間違いによって、ガートルードは、彼女への軍人配偶者としての支給*7 は、私が除隊したので停止されるという知らせを受け取った。私はすぐさまその手紙をもって私の上司である大尉に会いに行った。彼はその事について考えてみて、大した問題だとは思わないが、問題を解決する為に私をキャンプ・リーへ送り返してもよいと言った。(恐らく彼は私を厄介払いできるのがうれしかったのだろう。)
その結果、船がビキニ環礁へ向けてハワイを離れる前の日に、私はキャンプ・リーへ向けて出発することになった。つまり、私は核兵器の爆発を真近で見たことはない、ということだ。そしてそれゆえに、恐らく私は比較的若い時期に白血病で死ぬ事もなかったということだ。
キャンプ・リーに戻ると、私は「研究除隊」*8が出来るように工作し始めた。私はもう陸軍において何もやる事が無かったし、それにもし除隊すれば私は科学の研究活動にもどることになるのだったから。そして、キャンプの上官達は私を除隊させた(おそらくはまた、私の厄介払いができると喜んで)。私は1946年7月26日に軍を離れた。そしてその日は、たまたま私の結婚4年目の記念日であった。私は8ヶ月と26日間、従軍していたのだった。

*1:原文"Greetings"。

*2:原文"KP"。使っている研究社リーダースによると、軍隊内の微罪の罰としてさせられる事があるようだ。

*3:原文"Farm boys"。

*4:お金をかけていなかったということだと思う。

*5:原文"Fortunately, I have learned to bask in adulation."

*6:つまり、今の(1990年ごろ)のアシモフと同じ文体で書くようになった最初のものだと言うこと。

*7:原文 "allotment as an army wife"

*8:原文"research discharge"。