我はアシモフ 54. ボストン大学医学校
アシモフの"I.Asimov"から翻訳です。今回はアシモフが勤め始めたボストン大学医学校について。人間関係と、アシモフがダメ研究者だったという話です。
もし誤訳・タイポなどがあれば、いつものようにコメント欄にお願いします。
追記:ssuguruさんから指摘を受けましたので、第六段落の最初の文章を一部訂正しました。
54. ボストン大学医学校
ボストンに移るということは、新しい友達と知人を作るということを意味していた。
デパートメント*1の長であるバーンハム・ウォーカー(Burnham Walker)は、私がやってきた時、49歳だった。彼は物静かなあまりコミュニケートをとらないニューイングランド人で、非常に聡明、そして、その落ち着いたやり方で私の騒がしさを気にしていないように思われた。私は彼のことを気にいったし、彼が私のこの医学校での生活を耐えられるものにしてくれたことを認めておかなければならない。
私がやってきた時、ウィリアム・ボイド(William Boyd)は47歳で、私が仕事につく助けとなってくれた。彼はのっそりとした大男で(a shambling bear of a man)、大きな失望の中で働いているかのように感じられた。彼はハーバード大学へ進学したのだが、そこではJ・ロバート・オッペンハイマー*2がクラスメートの一人だった。ビルは彼と伍していくことができず、まあ、それは当然なのだが(私もそんなことは出来なかっただろうし)、私が思うに、それが彼をいらだたせたのだろう。
彼は私にとても親切であった。彼の妻のライルもまた。よく彼の家に招かれて、彼らの友達とも会った。これが何よりもこの新しい街で気持ちを落ち着かせてくれた。エジプトのアレキサンドリアでの、ボストンにおいてもらっているよりもずっとサラリーの高い公職の仕事を彼が受け入れた時、彼は私も一緒に来ないかと誘ってくれたが、怯えた私は断ってしまった。アフリカに行きたいくないだけでなく、私は公職の仕事について警告して彼にそれがどのようなものなのかを語った(もちろん、彼に行ってももらいたくないという気持ちに私は大いに影響されていた。彼はボストンでの私の一番大切な友達であって、彼が行ってしまえば私は見知らぬ世界で一人っきりになってしまうのだ)。
ボイドは1950年9月1日に出発した。私がボストンに来た3ヶ月後だった。しかし彼はボストンにすぐに戻ってきて元の仕事に就いた。彼は、私が公職について警告したことはまさに正確であって、私の言うことを聞いておけばよかったと私に告白した。
私がその下で働いていた人物であるヘンリー・M・レモンは、私の事をすぐに嫌いになったようだった。そしておそらく、彼はこのことについて完全に正当化できないというわけではなかった。病院の最上階での我々の最初の面会の際、彼は窓を指差して、「ボストン・スカイライン」の美しさについて語ったのだが、マンハッタンの住民に語るにはこれといったところがないものでしかなかった。
そもそもボストンにいるということに私は幸せではなかった。そして二階建ての建物の終りなき海を見渡して、故郷の深い渓谷をうずく心で思い出しながら、陰鬱に「ボストン・スカイラインに誰が興味をもつのですか?」と言ってしまった。
愚かな事を言ってしまったものだ。そこから我々の関係は下っていくだけだった。彼はヌクレイン酸と癌の関係についての研究に専念していた(実際、とても実りのある研究の方向だったが、彼も私も適切に追及する能力に欠けていた)が、私はそうではなかった。わたしは次第に自分の執筆に専念するようになっていっていた。彼は私に全ての種類の科学コンファレンスに出席してもらいたがったが、私はそのいくつかにしか出席せず、なのにニューヨークの出版社には行きたがっていた。関係は、次第にお互い憎しみあうものになっていった。
あるよい友達が学校の外で出来た。ビル・ボイドの家で、私はハーバード大学の天文学者であるフレッド・L・ウィップル(Fred L. Whipple)に出会った。私が出会った時、彼は43歳であった。洗練されたよい性格の人物であって、私の心に即座につかんだ。これは後々まで続いた非サイエンスフィクションの友情のうちのひとつだ。スプレイグ・ディ・キャンプ同様、フレッドの外見は不変であった。彼は今では80代だが、いまだにスリムで、柔軟で、活動的、そして仕事場まで自転車で通っている。彼はまさに年齢を感じさせない人であった。お互いの誕生日には必ず電話をしあっている。
しかしもちろん、私が医学校にいたのは友情を探すためではなかった。期待されていたのは働くことだった。レモンのために研究することに加えて、医学校の新入生たちに生化学について講義をしなければならなかった。これはあまり歓迎されるような勤めではなかった。医学生達はすぐさま聴診器を患者に当てたがっていたし、まるでまだに大学にいるかのように*3講義を聞くために時間を費やすのは、うんざりさせられることだっただろう。
私は研究を避ける方法をいくつも見つけ出していた。ラボのアシスタントと大学院生がいたので、可能な限り彼らに研究をさせて、私はその結果を監督していた。(なんであれ、彼らの方が私よりも器具を扱うのもうまかったのだ。)私がしたかったのは、研究から完全に逃げ出すことだった。心の中ではもう終わっていた。間違った選択だったのだ。
しかし、仕事自体は完全に悪いわけではなかった。私は教授であることを楽しんでいたし(1951年に生化学の准教授という教授職に昇格していた)、講義とは私の為にあるようなものだった。デパートメントのさまざまなメンバーが講義を分担していたが、各人は自分が一番楽にできる主題を選んでいた。私は(昔の傲慢さの名残でもって)、他の人達が選択を終えるまで待つと言い、残ったものは何でも受け持った。その結果、私はさらに化学の講義を行うことになった。11もの講義だ。
これらは、1950年の春に行われたのだが、三年前の大学院でのセミナー以来、初めて行う大きな講義だった。セミナー同様、これらも捕われた聴衆、つまり出席して聞くしかない生徒達にたいして行われた。これは容易に想像できるように、熱狂的な聴衆のためのレシピではない。
追加して、これらの講義は、セミナーの時と同じように、注意して準備しておかなければならなかった。書き込んだノートを作ったことはないし、まして講義内容を暗記したこともないが、これから語ることについてよく理解していなければならないし、黒板に書こうとしてまごついたりは出来ない公式が一杯あった。
私の研究がどんどん下り坂になっていくなか、私の講義はどんどん向上していった。医学校で私が積極的に働いていた時期が終りに近づく頃には、私は校内で最高の講師だと一般に認められていた。こんな噂すら耳にした。廊下で二人の教員が話していた。遠くからの笑い声と歓声が聞こえてきたので一人が言った。「あれはなんだ?」
もう一人が答えた、「多分、アシモフの講義だ」。
研究における完全な失敗は、講義のうまさ故に私を全然悩ませなかった。こんな風に言い訳をしていた。医学校の主要な役割は医学生を医者に教育することであり、その為の重要な方法の一つが講義だった。講義によってクラスに情報を与え教育をするだけでなく、彼らの歓喜すら引き出せるのだと。
このことの証明は、私の講義への生徒たちの反応だった。コースの最後の講義の終りには各教授へ拍手するのが慣例となっていた。これは勿論、心あらずのおざなりな拍手で、そうしたいからではない、慣習の産物だった。私だけがコースの途中でも、そして本当の拍手を、受け取っていた。そしてそれが続く間、無敵であるかのように感じていた。
なんとまあ間違っていたことか!私は一つの要素を計算に入れ忘れていた。講義は生徒の役にしか立たない。それに対して研究は政府からの助成金を意味し、その助成金の一部は常に変わらぬ「間接費」として学校に入るのだ。これの意味するところは、いつでも学校は講義よりも研究を重視するということ、学生のための教育よりも手元にはいってくる金ということだ。これはつまり私は無敵でもなんでもなく、研究がなくなってしまえばいつでも首を切られるかもしれない存在でしかないということだった。そして研究は終わってしまった。
学校がその学生よりも自らを重視するのは当然だと言われるかもしれない。もし資金がなくて、学校がその施設を削減することになれば、学生たちも損失をこうむるのだから。しかしその一方、バランスをとることも出来るはずだ。優れた教師は研究での失敗を許されてもよいのでは。しかし、私が後に説明するように、そうなることはなかった。