我はアシモフ 55.科学論文
1994年に出版された"I.Asimov"からの翻訳です。今回は研究者にとってもっとも重要な論文執筆について(あるいは、執筆できないことについて)と、あとノンフィクションの執筆についてです。アシモフは多作で有名、さらには本人に著作数についての執着もあったということなんですが、このI.Asimovにはアシモフの執筆作品リストがついていて、それには469冊が載っています*1。ただし、そのリストには抜けもあるし、さらに92年のアシモフ死後に出版されたものもあるそうで、AsimovonlineのFAQによると500冊以上が出版されているそうです。
追記:kuroseventeenさんに、イタリック部分の指示がそのまま残っていた箇所を指摘していただきました。kuroさん、ありがとうございます!他の方も何か誤訳やタイポなどを見つけたら、連絡をお願いいたします。
追記:12月22日に改訳
55.科学論文
研究者の活動うちのある重要な、というかもっとも重要なものは、行っている研究について論文を書き、それをどこかの適切できちんとした学術雑誌に載せることだ。そういった論文は「パブリケーション」と呼ばれ、昇進と栄誉への科学者の望みはそのパブリケーションの質と数にかかっている。
残念ながら、パブリケーションの質というものは計測の難しいものだ。それに対して数の方は簡単に数えることができる。なので、数だけで判断しようという傾向が生まれてしまい、これが科学者にそうあるべきよりも少しばかり質を軽視した大量の論文を書かせるようにしてしまった*2。
新しい知見としてぎりぎり通用する程度の追加のデータを備えただけのパブリケーションが現れるようになってきた。いくつかのパブリケーションは分割されて、それぞれが別々に掲載された。あるパブリケーションはその研究に、たとえどれほど僅かだろうと関わったもの全てが名前を連ねたりしていた。名前の挙がった全てのものにとって、それは一つのパブリケーションとして数えられるからだ。自分達のデパートメントで書かれたすべての論文に自分達の名を加えることを主張する年長の科学者達もいた。その研究に一切関わっていなくてもだ。
私はこのゲームには参加しなかったし、するつもりもなかった。まず第一に、わたしは掲載されるに値するほどのデータを見つけ出すことがほとんどなかった。第二に、そういった論文に要求される執筆のスタイルが好きではなくて、そんなものに自分をさらしたくなかった。そして第三に、どんなものであれ研究において名前を成せるという期待は持っておらず、その為の無駄な奮闘に従事するつもりがまったくなかったのだ。
論文が全くないというわけではない。私のPh.D論文もあるし、それを短くまとめたものはThe Journal of the American Chemical Societyに掲載された。私の研究生活のなかで、デパートメントの様々なアシスタントや学生達が書いた多分6本ぐらいの論文にシニアの科学者として*3、わたしの名前を載せたりもした。(こういったケースでは、一応、わたしは少なくとも研究を監督し、論文を読んで手直しはしていた。)
それで全てである。そして、これは数と重要性、両方について絶対的にみじめなものであった。私の知る限り、私の名前が付いた論文で一本でも、重要性のほんのささやかなものすら認められたものはないし、他の誰かに引用されたものもないし*4、なにかの重要な研究にどんなものであれつながったものもない。
しかし、ある考えが私に浮かんだ。The Journal of Chemical Educationは学部レベルの化学の学生の興味を引くような論文を掲載している、実用性のある良い雑誌だった。そういったタイプのエッセイを書いて、これに掲載してもらうのは面白いのじゃないかと思ったのだ。そういうものを書くのは楽しいだろうし、パブリケーションとして数えられるだろう。1950年代の初めにおよそ6本ほどそういったものを書き、その全てが掲載された。
そしてなんと、これらのうちの一つは重要なものになった。人体における有害な突然変異を引き起こすものとしての炭素同位体14の危険性を指摘したからだ。これが重要だというのは、のちにライナス・ポーリング*5がより詳細に、そして説得力のある形で(そしておそらくは私の厳密に思いつきでしかなかったものに刺激されて)同じことを述べたからだ。地上での核兵器の実験は大気中の炭素14を増加させており、これは死産と癌の不相応な増加を意味していた。これは大気中でのそういった実験の禁止につながる要因であった。そしてこの望ましい結果に私の論文が顕微鏡レベルででも貢献したかもしれないことは、私にとって喜ばしいことだ。
しかし、こういった短い論文を私の研究業績に加えることは、まったく意味がない事が判明した。結局、それらは研究が関わっていなかったのだ。一方、私が後々、適切なおりに説明するように、それらは私に単なる数を与えてくれる以上の重要なことにつながった。
しかし私が生み出した科学論文だけが、教育者としての年月の間に私が関わった学術関係の執筆ではなかった。
1951年、ビル・ボイド*6は医学生に向けての生化学の教科書を書くことを決心した。そして私の執筆技術を使うことを思いつき、彼は私にそれを共同執筆しないかと持ちかけてきた。
こういった新しいプロジェクトに直面した時はいつもそうだが、私の心のなかで賛成と反対がめまぐるしく駆け回った。反対意見は、教科書を書けるほど生化学を良く知っていないと私が感じていたことであり、そして(私が間違っているのかもしれないが)ボイドもまた知っていないと私が感じていたことだ。賛成意見は、それが挑戦であったという事実と、そしてそれを遥かに超えて、教科書に取り組めば別の重要な学術的仕事で一杯だからという事で研究から逃げられるのではないかという事だった。
賛成意見が勝ち、私はボイドに参加することに同意した。ただし、デパートメントの長であるウォーカー教授が許可を与えて、レモン博士からの完全に正当な怒りから私を守ってくれることに同意したならという条件で。
我々は、求めていたよりも多くを手に入れた。ウォーカーがこのプロジェクトに参加することを求めてきたのだ。これは三つの点でありがたいことだった。私の負担を二分の一から、三分の一に減らしてくれる。ウォーカーは、ボイドと私に欠けている生化学の知識を提供してくれる。そして最後に、彼自身がこのプロジェクトの一員になれば、彼は私を守らなければならなくなる。
実際のところ、教科書を書くのは私が思っていたほど楽しい事ではなかった。著者3人の執筆スタイルが大きく異なっていて、我々はそれぞれが書いたものについていつまでも論争を続けることになった。私の意見はほとんどまったく通らなかったので、この本はよくある堅苦しいくて仰々しいものとなって、最終的にBiochemistry and Human Metabolism(Williams & Wilkins, 1952)として出版された。第二版(修正版)は1954年に出版、第三版は1957年となった。この著書は分厚いものであったが、その金銭的な見返りはほとんどなかった。3版全てが完全なる失敗であった。他のずっと良い教科書が1950年代に出だしていたのだ。そのため第三版の後、私はその本に正当なる死を賜った。
この本は時間と労力の信じられないくらいの無駄とみなされそうなものだったが、どんなものにも良い点というのはあるものだ。これは私にとってノンフィクションを書くよい練習となった。そしてさらに重要なことに、ノンフィクションを書くというのは(共著者からの横槍がはいらなければだが)フィクションを書くのよりも易しく、いくつかの点ではより面白くもあることを教えてくれた。これは私の執筆のキャリア後半に大きな影響を及ぼした。
Biochemistryについて、最後にもう一つ述べておかなければならない。それは私のまだ8番目の本で(そして私の最初のノンフィクションであり、私に関する限りこれはこの本を好きになる理由ではある*7 )そして何冊目の本かは、まだ私にとって特に気になることにも興味のあることにもなっていなかった。
その結果、第二版と第三版は、それぞれ平均的なフィクションよりも作業が必要だったのに、私のリストに別の本として加えられることはなかった。キャリアの後半では、わたしは大きく修正された本は必要な労力に基づいて必ず新しい本とみなすようになった。この二つの版を加えなかったことは、もうこれ以上働けないと感じてたとえば498冊などで終わることになったりしたならば、この二つの本を加えていなかった事、500冊という数を自分自身から奪ってしまった事を悔むことだろう。
これはとても小さなことながら私には重要だったりするのだが、しかし、分かっている、他の人たちにはバカバカしいだけだということは。
*1:もっともそのリストには壁紙だとかカレンダーだとかも入っているそうですが(Asimov FAQより)。
*2:ここ、訳に自信なし。正直、原文がおかしいのじゃないかとも思うのですが。原文です。"this provoked scientists into writing a great number many publications with somewhat less regard for quality than is quite becoming." この最後の"than is quite becoming"が理解しきれなかったので、もし分かる方がいらっしゃったら、コメント欄にお願いします。 tkさんのコメントに基づいて修正しました。ありがとうございます。
*3:研究チームの中の偉いさんとしてという事。
*4:他の論文からの引用回数はその論文の質を示すと考えられています。
*5:20世紀におけるもっとも重要な化学者 by [http://ja.wikipedia.org/w/index.php?&oldid=38891718:title=wikipedia]。
*6:ウィリアム・ボイドの事。ビルはウィリアムの愛称。
*7:原文 "and my first nonfiction book, which is a point in its favor where I am concerned"。意味はあってる思いますが、いまいち確信がもてません。