P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

キャロル・グラハム:幸福の経済学

明けましておめでとうございます。もしよければ、今年もよろしくお願いします。

さて、新年一つ目の翻訳ですが、実は昨年12月にマイケル・ムーアの「キャピタリズム」を観にいきました。まあ映画のテーマが暗いせいというのは置いておいても今一でしたが、それはともかく、映画中でウォールストリートジャーナルの偉いさんが、「民主主義よりも資本主義の方が大切なんだ」「経済成長が重要なんだ」みたいな事を言ってらっしゃいました。で、これは経済学を勉強された人ならお解りいただけると思いますが、経済学における物事の良し悪しの判断基準は厚生・効用水準です。経済成長ではなくて。ミクロの論文だと後ろの方に、welfare analysisについてのセクションがあって、その論文に書かれた事を実行すれば人々の厚生がどれほど高まるか(だからこの論文には意味があるんだ!採用してくれ!)が書かれているのが多いですよね。俺はマクロは疎いんですが、それでもマクロの(単純な)モデルは各人が何らかの財を生産可能で、その財の消費と効用の上昇が比例しているというものだと理解しています(もちろん限界効用逓減はありますが)。ですからたとえ経済成長を対象にしたモデルでも、その経済成長は厚生向上を含意するものになっているはずです。つまり、経済学ではほとんどの場合、経済成長ではなく厚生へのインパクトが問題になっているはずです(マクロの成長論でほんとに経済成長だけを考えている論文などは別でしょうが)。もちろん、ゲーム系の論文のように、厚生へのインパクトではなく、何か別の問題について理解することを目的とした論文もあります。ですがそういうものはともかく、経済学において何かが良いものだという場合、その判断基準は厚生・効用であり、経済成長が経済成長の為だけに良いものとされる、という事はない、と断言はできないにしても、一般的ではないと思います。
上に書いた事は経済学の関係者なら当然と思われることと思うのですが、経済学ではなく経済関係者(追記:より正確には、いわゆる市場関係者、でしょうか。)だと、厚生の事は無視して、経済成長だけを重視しているように見える意見というのがあって驚きます。「キャピタリズム」に出てきたウォールストリート・ジャーナルの偉いさんの意見はもろそういうものでした。単純なベンサム功利主義なり、パレート最適なり自体についての問題はともかくとして、経済学は経済の目的は人々の幸せと考えるのに対し、経済成長の為の経済成長を目的とするようなそうした意見には、なんだかなぁ、と。
とか考えていたら、ワシントンポストに幸福の経済学についてのオピニオン・コラムが載っていて、幸福の経済学のさわりを解説していました。特に詳しいものではないですが(っても、俺も詳しい事は知りませんが)、タイミングもよかったので訳してみました。(日付が1月3日になってますが、これは間違いではないですよ。)


幸福の経済学 キャロル・グラハム 2010年1月3日
昨年は幸せな年ではありませんでした。経済危機、失業、戦争。国内総生産や住宅差し押さえといったものは数値化できますが、そういったものの我々の集合的な幸福へのインパクトの数値化はとても困難です。
その効果のほどを調べる方法の一つが、幸福の経済学として知られるものを利用することです−−これは、福祉(well-being)と満足(contentment)を計るための新しいテクニックとデータを組み合わせたものです。数十万の人たちがサーベイされ、彼らがどれほど幸せであるか、その人生に満足しているか尋ねられ、非常に不幸から非常に幸福までのスケールで回答します。
お金で人はどれほど幸せになることができるのでしょうか?失業、離婚、病気の診断からの相対的な幸福の損失はどの程度のものでしょうか?そういった質問は陰鬱な科学*1の周辺分野から中心に移るようになり、いまでは経済学学術誌には「幸せは割りにあうか?」から「タバコ税は喫煙者を幸せにするか?」といった何千もの論文が掲載されています。
そしてそのアイデアは政治家や公衆にだんだん浸透していっています。最近では、サルコジ委員会が−−フランス大統領によって主催され、ノーベル賞を受けた経済学者に率いられています−−が国の福祉についての広い指標の開発を求めました。国と時間を越えた比較が出来るGDPのような、しかし所得以外のものに重点をおいた、指標をつくろう、というのです。
人々により幸福となってほしい、などというと、(当たり前すぎて)笑ってしまいそうになります。なんといってもアメリカでは、人はみな幸福の追求*2をよしとしていますから。しかし、幸福は政府の政策の目標として経済成長に取って代わりえるものなのでしょうか?ブータン王国はすでに「国民総幸福」をその望ましい進歩の指標としています。英国政府はホワイトホール*3に、幸福をベースとして福祉をどうやって計るかを研究するオフィスを置いています。そして合衆国でも、疾病予防管理センターは国家健康統計に福祉の新しい指標を盛り込もうとしています。
アメリカの経済モデルの成功は長きに渡って個人のイニチアチブと経済成功によって実現されてきましたが、何百万のアメリカ人が仕事、所得、資産の損失を経験している今日、今は我々がうまくやっているかどうかについてのより良い指標を見つけ出すべき時のように思われます。
過去10年間、私は世界の各地、アフガニスタン、チリ、そして合衆国など様々な国々での幸福についての研究をしてきました。それは人間心理の複雑さと、我々を幸福にしてくれることの単純さについての驚きの探求でした。そしてもっとも注目すべきことは、幸福をもたらす要因が、異なる国々において、その開発の程度にかかわらず、とても似ているという事でした。
どこで研究しても、おなじような単純なパターンが見られました:安定的な結婚、よい健康、十分な(しかし多すぎない)所得は、幸福にとってよいもので、失業、離婚、そして経済的不安定は幸福にとって悪いものです。平均的に言って、幸せな人たちほど、また健康でもあります。その因果関係はおそらく双方向でしょう。最後に、年齢と幸福は一貫してU字型の関係を持っていました。幸福の底は40代の半ばから後半で、そこからは健康で家庭内のパートナー関係が健全なら、幸福は増加していきます。
こういったことの全てはかなり当たり前(logical)に思えますし、もし政府が幸福の促進を目指すなら、経済成長と同様に健康、仕事、そして経済的安定をその政策ゴールとして目指すのがよいと示唆しているように思われます。
しかし、物事を難しくする要因もあります。何が幸福につながるかについては安定的なパターンがありますが、繁栄と苦難、双方への人間の特筆すべき適応力もまたあります。ですので、アフガニスタン−−サハラ砂漠より南のアフリカ諸国のように貧困に蝕まれた戦乱の国−−の人たちは、社会・経済的な指標はずっと良いラテン・アメリカの人たちと同じくらい幸福であったりします。そしてまた、ケニヤ人はその医療に関して、アメリカ人がその医療について感じるのと同じくらい満足しています。犯罪の被害者になる事は人を不幸にしますが、しかしその犯罪がその社会の中で一般的なものならば、そのインパクトは小さくなります。同じ事は腐敗や肥満についてもいえます。自由と民主主義は人々を幸福にしますが、しかしその効果は人々がそういった自由に慣れている場合の方が、そうでない場合よりも大きくなります。
結論は、人々は多大な苦難に対応してその明るさを維持できるし、健康も含めてほとんど全てを持っていても惨めになることもできる、ということです。
自分自身の経験を振り返りながら、私はこの事について考えてみたいとおもいます。私はペルーのリマで育ちましたが、ワシントンで働いています。ワシントンDCの北西部で私の車のタイヤが盗まれた時、私は完全に困惑してしまいました。警察も同様でした*4。そして彼らは一時間以内にやってきました。それがリマで起こったなら、自分の車を一晩中外に出していたことについて私自身が非難されていた事でしょうし、ですからそもそも警察を呼ぼうとすらしなかったでしょう。また、彼らも来なかったのではないでしょうか。
しかし、人々は不確実性については適応に苦労します。人々は、不確実な健康状態の悪化や景気悪化よりも、確実な悪いことの方にうまく対処できるようです。たとえば、同僚のSoumya ChattopadhyayとMario Piconと共に行った私のもっとも最近のサーベイ研究によると、合衆国の平均的な幸福感は2008年の金融危機のスタート時点でダウが下落した時に、大きく落ち込みました。我々の計算では、危機前のレベルと比べて、幸福は11パーセントも落ちて、2008年11月半ばにその最低レベルに落ち込みました。
しかし、市場が低下をやめ、3月に幾分安定するようになると、平均幸福感はダウよりもすばやく回復し、7月には危機前のレベルを上回るようになりました−−生活水準やその水準についての報道される(reported)満足は危機前よりもずっと低いのにもかかわらずです。不確実性がなくなれば、低い所得や富でなんとかやりくりして、人々は以前の幸福のレベルに戻ることができるようなのです。
人々はより少ないお金でもって幸福でいれますが、より多くのお金でもって不満を持つようにもなれます。これは幸福成長のパラドックスでしょう。経済学者のEduardo Loraとの研究において、我々は、一人当たり所得が同じようなレベルの国々で、経済成長率が高いほど、平均して、(サーベイへの)回答者は成長率が低い国の回答者よりも幸福でないことを発見しました。なぜそうなるのかの説明の一つは、より高い経済成長は大抵、それと共により大きな不安定性と不平等をもたらし、それらは人々を不幸にする、というものです。
アメリカ人がこの危機をなんとかやり過ごし、以前の幸福のレベルに戻る事ができたというのは、うれしい事です。そして、アフガニスタンの平均的な人がその国の不幸にも関わらず、明るさと希望を維持できていることは、さらにうれしい事です。しかし、この適応への能力は個々人にとってはとても良きものであっても、ほとんどの人々の基準でみて到底受け入れられない状況への集合的な許容に、それはつながりえるものなのです。
この適応への能力を理解する事は、国内そして国際間での異なる社会が健康、犯罪、統治の異なるレベルを受け入れているように見えるのはなぜかを説明する助けとなります。そしてそのノーム*5を理解する事なしには、そういった状況を改善する政策を立てるのは非常に難しいことです。
我々が集団としてどれほど幸福であるかを知るのは、確かに素晴らしいことです。そういった指標は所得のデータだけよりも、我々の福祉についてより広く教えてくれます。そしてそれは、環境悪化、交通時間、犯罪、失業等の様々な状況についてのテストにおいて、それぞれをどの程度重視するべきかを教えてくれます。間違いなく、学者にとってのパワフルな道具です。しかし政策決定者にとっては?あまりはっきりしません。幸福について、また指標をどう利用するべきかについて、我々の知らない事はまだまだ多いのです。
実際、「幸福」をどう定義するべきかについてすら我々は知りません。この言葉を研究においてこれほど有益にしているのは、そして異なる国々や文化においての比較を可能にしているのは、その定義が回答者に任されているからなのです。しかし、これは政策についての問題をつくりだします。たとえば、幸福を満足(contentment)だけで定義してしまうと、それは自己満足(complacency)を示唆してしまうでしょう−−私が「幸福な農奴(peasant)と、不満な達成者(achiever)」問題とよぶものです。
ペルーとロシアでの研究で、私はもっとも大きな所得の増加を実現した回答者達はまた、もっともその経済状態に批判的であることを発見しました。もっとも所得の増加が少ない回答者達は平均して、より満足していたのにです。不満な達成者達はそもそも不満があったからこそ、その増加を成し遂げたのかも知れません。
幸福のより広い定義、たとえば満たされた人生を実現する機会というもの、は不幸を、少なくとも短期的には、もたらすような目標を示唆します。フランスの専制君主を倒す事、タリバンを打ち破る事、は即座の幸せをもたらすような行いではありません。より身近な例として、我々の医療保険制度改革、あるいは膨張する財政赤字対策への努力などは、すぐには幸福をもたらさないでしょう。しかし、これらは今の市民の、そしてその子供達の、長期的な厚生のためには取り組まなければならない問題だということを、我々は知っています。
一年前の就任演説において、オバマ大統領は全てのアメリカ人は「その完全なる幸福の追求を行うチャンスをもってしかるべきである」と述べました。しかしそのスピーチの続きにおいて、彼は人々はそれがなんであれ彼らを幸せにしてくれる、彼ら「自身の」なにかを追及するという事を強調しました。そして明らかに、我々の一人一人について、それは別のものなのです。
確かに、我々は皆、幸福を、更なる幸福を求めています。しかし、幸福の経済学はまだ生まれたばかりの科学であり、そして幸福を国の政策のゴールとする前に、我々は、国として、どんな幸福の観念をもっとも大切にするのかを理解しなければなりません。そうして、我々は、幸福な新年にグラスをささげる事ができるようになるのです。

(ワシントンポストによる著者解説)Carol Grahamはブルッキングス研究所のシニア・フェローで、メリーランド大学の公共政策の教授である。彼女の本、"Happiness Around the World: The Paradox of Happy Peasants and Miserable Millionaires"は今月近刊である。

*1:Dismal Science、経済学の別名。

*2:「幸福の追求」はアメリカ独立宣言に権利として書かれていることです。

*3:英国の政府機関が多くある通り。日本の霞ヶ関にあたります。

*4:ワシントンDCの北西部は裕福で、教育のある人たちが住んでいるところ、とみなされている。つまりタイヤ泥棒など、考えられないところ。

*5:異なる社会での様々な事についての期待されるありよう、レベル。