レイモンド・チャンドラーのSFによるグーグルの発明、そしてディレンマ
時代が進んでも、変わらないものはあるのだなぁって話。
1964年に出たジェームズ・ブリッシュのSF評論集 The Issue at Hand
The Issue At Hand (English Edition)
- 作者: James Blish
- 出版社/メーカー: Gateway
- 発売日: 2014/08/28
- メディア: Kindle版
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まじで時代は変わらんのかと思いました。その作家さんのインタビューから。
マキューアンはそういった倫理的なディレンマについて探求できる一番の場所が小説だという信念を長く持ってきた。「小説家がこの未来を探求できる心の宇宙が開かれている。反重力ブーツにより光速の10倍で旅するようなものではなくて、人工物だと知っているが我々同様に考える何かとの接触による人間のディレンマについて考察する事ができる宇宙が。」
ちなみに最初にリンクを張った記事は、カート・ヴォネガットJrによる1965年のエッセイからの
「私は『サイエンス・フィクション』とラベルされた書類棚の不機嫌な住人をこれまでやってきたが…出ていきたい。あまりに多くの真面目な批評家達がいつもこの棚を便器と間違えるのだから」
という引用で始まっています。こういうSFの見下し*1の更なるバージョンとして(時間を逆行して)、レイモンド・チャンドラーが彼のエージェントへと送った1953年3月14日付の手紙の中で下のようなSFのパロディを書いてます。
サイエンス・フィクションとか呼ばれてるものを読んだことはあるか?馬鹿げたものだ。こんなのが書かれてる:アダバランIIIをK19と一緒に調べて、俺の22モデル・シリウス・ハードトップのクラムマリオッテ・ハッチから外に出た。タイムジェクターをセカンドにして鮮明な青のマンダ草のなかを進んでいく。俺の息はピンクのプレッツェルに凍りついた。ヒートバーをつつくと、ブリリスたちが5本の脚で軽快に走り出しつつ、残りの2本でクライロン振動を送りだした。そのプレシャーはほとんど耐えられないほどだったが、しかし透明なシシシティを通して俺の腕コンピュータが射程距離をつかんだ。引き金を引く。薄い紫の輝きは錆色の山々を背景に氷の様に冷たかった。ブリリスたちが半インチの大きさにまで縮み、俺はポルテックスを使って連中の上をすばやく飛び跳ねていく。しかしそれでは充分じゃなかった。いきなりの煌めきが俺をよろめかす。第4の月がすでに浮かんでいた。分解機利用の為に使えるのは正確に4秒しかなく、グーグルが俺にそれでは足りないと教えてきた。ヤツは正しかった。’ 連中はこのゴミにもちょっとは払ってくれるかな?
最後のところで「グーグル」という言葉が出てきます。グーグルの言葉の由来は、97年に10の100乗の数であるGoogolでドメイン名を登録しようとしたラリー・ペイジたちが綴りを間違えてGoogleで登録してしまったからと言われていますが、このチャンドラーのグーグルはその44年も前なので、チャンドラーがグーグルを発明したと言われる事もあったりします。
さてこのチャンドラーの文章、SFのパロディとして分からないわけじゃない、特にこれが53年に書かれたものだという事を思い出せば。しかし、その時から66年経っても、「反重力ブーツにより光速の10倍」がSFだと思われているというのは、ちょっと衝撃。ブリッシュのThe Issue at Handは評論集なので、まあ当然ながらこの手の話も書かれています。
この事にはデテンション(Detention, 1959年第17回世界SF大会)のゲスト・オブ・オナーであるポール・アンダースンも触れている。もし彼がそれを中心的な題材にしていたのなら、私がやらなくても良かったのだが。しかしポールの主題は、サイエンス・フィクションへの一元的アプローチ、つまり哲学、愛、テクノロジー、詩、そして日常生活の要素の全てが重要でかつ大体同じ割合の役割をもつアプローチの導入だった。さて、これはサイエンス・フィクションにとっての理想的な配合である…しかしそれがサイエンス・フィクションにとっての良い配合であるのは、それがフィクション全体にとっての良い配合だからだ。どんな分野のものであれ良いフィクションが何か他の方法で作られた事はないし、これからもないだろうと断言しても大丈夫だろう。
ここでブリッシュが言っている事がマキューアンの言っている事と同じ、あるいはそれをさらに詳しく述べているだけなのは自明でしょう。ブリッシュは(そしてアンダースンも)それを満たすSFが良いSFだと考えていたわけですが、マキューアンはそれを満たしたらSFではないと考えているわけです。満たしていない作品についてブリッシュは
反物質、銀河の衝突、そして後ろにゼロが長々続く数字にはそれらなりの魅力があるが、そのどれも自分の娘である5才児の少女ほどの畏敬の念をもたらしはしない。
…
爆発する星が本質的に、それに驚きを感じる人間の頭や心よりも驚くべきものだといまだに考えているような作家や読者たちもにも遅かれ早かれそういった些末な驚異のタネ切れになるだろうし、そうなればその人物は読者なり、作家なり、編集者なり、暗愚な大衆なりを責めるんだろう。そんな事を、もう長い間、みてきたじゃないか。
と書いてます。更に上のマキューアンぽい、
しかし我々とこの分野(サイエンス・フィクション)の両方がもはや子供ではないし、この物理宇宙自体の枠を壊さずには物理的地平線を大して広げようのない段階にまで我々は達してしまっている。倫理的、道徳的、哲学的な地平はまだ残されており、そしてそれらは無限だ。
と書いた上で、
良いサイエンス・フィクションの領域はそこに眠っている、そう私は信じている。
と続けています。もちろん、こういうのはブリッシュ独自の考えではなく、たとえばアシモフもどこかで同じ様な事を書いていたはずです。SFの中で、その中に閉じこもる事を自明にしている人達以外は多分同じ様な事を考えているはず。でも、そんな事はSFの外の世界には通じていない話なわけですね。まあこれには、いまSFにおいて映像作品の力が強い事があるのでしょう。やっぱSFというと、スターウォーズとかあるいはネッフリのアクション志向のオリジナル作品とかが頭に浮かぶのが普通でしょうし。そして正直、その強さのおかげでSFが世の中に大きく受け入れられているというのもあるのでしょうから、それも仕方のないディレンマなのかもしれませんが。