P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

シリアルキラーはなぜ白人男性のイメージなのか?

一つ前のポストで、「シリアルキラーは白人男性(。・ω・。)ノ♡」というアメリカの神話は間違いだという受け売りをしました。okemos.hatenablog.com
しかしこの神話はアメリカだけでなく、日本にもあったりします。
それがなぜなのかについても前のポストで触れるつもりだったのに忘れてしまってたので、その事についての受け売りをこの別ポストで書いておきます。

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朝井リョウ 「武道館」

武道館

武道館

今年の頭あたり*1にドルヲタ界隈でちょっと話題になり、春に買ってしばらく放置してた本です。ようやく読んでみたらどうにも違和感を感じたので、既に感想を書く旬は過ぎてしまっているとは思うのですが、前のエントリーが60年前の中編の感想だったりもするしまあいいだろうと、その違和感について書いてみます。

*1:だったと思う。

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"Rule Golden" (黄金律) デーモン・ナイト

デーモン・ナイトの1954年の傑作!だと思うのですが、残念ながらあまり有名ではない作品です。でも傑作なんですよ。
初読がいつだったか正確には思い出せませんが、とにかく90年代に古本屋で買った

SF戦争10のスタイル (講談社文庫)

SF戦争10のスタイル (講談社文庫)

の中に収録されていた翻訳版の「黄金律」を読んだのが初めて。それで感銘を受けて、デーモン・ナイトの名前を覚えました。といってもナイトというとSF評論家としての方が有名なのでこれを読む前から名前は目にしていたはずですが、確実にその名を覚える事になったのがこの「黄金律」です。
留学やらなんやらで何回も引っ越しをして本を整理してしまううちにこの本も手放してしまってたのですが、思い出す事がよくある作品でしたので今回改めて原文の方を読んでみました。
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(なぜかアマゾン貼り付けだと表紙が出ませんので画像をはっつけてます。)
なんかバカっぽい表紙ですが、中身はいたってシリアス。アメリカ中西部において暴力を振るったものがまるで自身に暴力を振るわれたかのような痛みに襲われるという現象、つまり「他者から望む行為を他者にせよ」という黄金律(Golden rule)の逆である「他者になした痛みが己に戻る」という黄金律をひっくり返した(Rule Golden)謎の症状が人間だけでなく動物にまで発生。その為に、犯罪者に発砲した警官は銃弾の痛みに襲われ、屠殺場では食肉の為の屠殺が出来なくなり、さら監獄の看守たちも人間を閉じ込める事による精神的苦痛から退職者が出る始末。ゆっくりと拡大を続けるこの「目には目を」によって引き起こされた暴力からの逃避により社会が崩れていく状況を背景に、地方の小新聞社の社主である主人公が米軍の秘密の研究らしきものに気づいて調査を始めたところ、米政府からその研究施設への招待を受けてというところから物語が始まり、そしてまったく新しい世界への扉が開かれたところで物語が終わります。
読んでいて小松左京
明日泥棒 (角川文庫)

明日泥棒 (角川文庫)

を思い出しました。中盤以降、主人公ともう一人の人物がバディとなり逃避行をするからというのもありますが、60年代小松左京における大所高所と市井が混じって世界が描かれるのに似た感触を受けたからです。まあどちらも現代とほぼ地続きの近未来*1を舞台に、侵入者によって変えられてゆく世界についての小説ですから、似てくるのは当然なのかもしれません。それに似ているといっても「明日泥棒」はユーモアを纏いつつ困惑と未知への怯えと共に終わるのに*2、こちらは人間だけではない幾多の地球上の生物の屍の上に築かれる楽園への道が示されて、ある種とてもポジティブに終わります。スターリン毛沢東なら我が意を得たりと思ったかもしれない要素があるわけですが、これがマッカーシーがようやく弾劾をうける事になる1954年に発表されていたわけで、アメリカSF界において良く言われるようにフィクションの舞台としてSFはやはり自由だったのだなと感じます*3
作中で人類そしてある程度以上の知性をもった地球の生物全体が強制的な変化に直面してゆくのですが、正直、邦題が「黄金律」となっているこの作品は上でスターリン毛沢東の名を出したことからも分かるように倫理的な作品には思えません。Golden ruleではなく、Rule Goldenなのはそのあたりの事をデーモン・ナイト自信が認識していたからというのもあるのでしょうか。「正しい事」を成す為の犠牲が正当化される、あるいは軽視される作品ですから。パワー・ファンタジーなどと揶揄される事もあるSFにおいてもこういう発想は基本的には否定される傾向にあると思いますし、アラン・ムーアなどはその代表作でしょう。勿論、犠牲を伴いつつ世界が変わる話は一杯ありますし、変える為の犠牲は当然とする偉そうな登場人物が出てくる話もありがちでしょうが、主人公側がそっちの作品はそうないのではないでしょうか。パッと思いつくのはSF周辺作品ですが、「ファイト・クラブ」と「ヨルムンガンド」とかくらい(どっちも原作は未読)。思い出せない・読んでいない作品でそういうのは色々あるでしょうが、基本的に犠牲を良しとする連中は悪役側であり、「Watchmen」のオジマンディアスのような犠牲も致し方ないと計算する上から目線の者たちによってなされるものであるのが普通だと思います。
このRule Goldenにおける世界の変化もまさに「上からの」者たちである、まあ未読の方でも推測はもうついていると思いますので書きますが、宇宙人によってなされるわけですが、しかし作品の印象として嫌な感じがしません。それは主人公が最初はともかく基本的には巻き込まれ型であり、真相を知ってからも変化に関わっていかざる得ない立場にある事、そして「上から目線」の宇宙人も実はこの変化の為に大変なコストを支払っていることがあるからです。なので印象としては、冷静に考えれば膨大な命を奪っている酷い話なのに、主人公たち自身も膨大なコストの一部を支払っている事によって一見倫理的なように感じられます。経済学でいうところの清算主義っぽいというか。その仕組みによって上からの変化の押し付けの厭らしさを感じさせずに、大量虐殺に基づく苦難に満ちた楽園を読者に飲み込ませるこの作品は、踏み入れて良いのかどうか分からない領域に足を踏み入れる事を納得させている作品であり、故に何の悪意も込めずに傑作と言いたい作品なわけです。

*1:勿論、もうどっちも大昔の近未来ですが。

*2:全編シリアスですけど同じ小松左京「見知らぬ明日」も同様の終りを迎えますね。

*3:もちろん、まだこの時期のSFは性的、人種、民族的な制約・偏見にとらわれてもいるわけですが。

『前田敦子の映画手帖』

AKB48のセンターで、いまは女優である前田敦子によるアエラでの映画の感想の連載をまとめた書籍です。

前田敦子の映画手帖

前田敦子の映画手帖

まっ、正直に言いまして、俺がAKBヲタになってしまったが故に購入して読み、さらにはこのブログ記事を書く気になった本であり、ぶっちゃけただの映画ヲタならわざわざ読まなきゃならないような内容の本ではありません。とはいえ、では全然ダメという事でもないわけです。少なくともそう感じるからこそ書いているわけですが。

この本を手に取ってみてちょっとビックリしたのが、出てくるタイトルの幅広さです。彼女が映画を積極的に観るようになったのが2012年の夏に「風と共に去りぬ」を観てからという事なのですが、それ以来多い時には1日に5作観ていたとか。その本数だと当然DVD/BDなわけで、実際DVD/BDのジャケ買いを良くするそうなのですが、映画館も今は無き新橋文化みたいな退職したおじいさんと仕事サボってる営業のおっちゃんぽい人しかいないような味わいのある(つまりボロな)映画館にまで足を運んでいたという情報が2013年に流れていて、結構大したものです*1。この本に出てくる作品タイトルだけで180くらいあり、そのほぼ全てを褒めてますが、世の映画の大半は褒められないものですから観たけど出していない作品が多数あるはずです。そしてその出てくる作品タイトルも、「アメイジングスパイダーマン2*2から「Once ダブリンの街角で」まで、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」から「喝采」まで、「隠し剣 鬼の爪」から「トガニ 幼き瞳の告発」まで、ハリウッド大作ばかりとか、過去の名作にこだわるとか、邦画だけとか、フランス映画の単館モノだけとか、そういう素人っぽかったりシネフィルっぽかったりする偏りがなく、ハリウッドのスーパーヒーローアクション大作からヨーロッパ映画、新作アクション物から過去の名作、邦画時代劇から韓国のシリアスな告発映画まで、ほんと観てる映画が多様で健全です。彼女が出演した「苦役列車」や「もらとりあむタマ子

の監督である山下敦弘監督による「こんなに映画を見てる女優はいない」という帯コメも、その正誤はともかく納得です。

とか書いてますが、取り扱われる映画は映画評・感想本においては料理の具材であり、出てくる料理そのものではありません。そしてこの本の料理そのものは既に書いた通り、非常に薄口なわけです。ぶっちゃけ、映画評本として褒めやすい点がそんなにないわけです。でも、ダメではない。では、それをどう書いたら良いのだろうと思ってましたら、上手い事書いてる書評がありました。

「ミーハーかも知れませんが、例えばアカデミー賞の作品賞にノミネートされた作品をすべて見ていく、というのも私はありだと思っています。だって、絶対に外れがないから(笑)」と言い切る前田敦子は、女優になりたいという進路を選びながら、実にアイドル的な感覚で映画を論評し続ける。本稿は別にどこかからプロモーションを頼まれているわけでもないのだが、彼女のテキストを丁寧に読み進めていくと、その薄味が妙な中毒性を帯びてくるから面白い。時折、すっと入り込んでくる文章がある。テレビの世界では相変わらず、端的に人を攻撃する毒舌ブームだが、前田敦子の映画評って、その逆。つまり、「えっ、褒めるのにこの一言だけでいいの?」という「逆毒舌」で映画を讃えていく。詳しく語らない。その淡々さは斬新だ。

この後、「この本を、文章が稚拙と片付けたら負けだと思う」と題された段落に続いていくのですが、いやあ、流石に金貰ってるライターさんはなんとか考え出しますねぇ。実際、この本は映画ファン・ヲタが求めるような情報や、彼/彼女らを唸らせるような視点や文章はないので、普通に褒めようとするとすっからんな褒め言葉を並べるだけになりそうなんです。そんな気負ってる本じゃないわけなので。だけど、何度も書きますがじゃあダメかというとそういうわけでもないのが困ったところで。俺もAKBのヲタになったのが「あっちゃん」こと前田敦子のAKB卒業後の事なので、彼女に対してそれほど思い入れがあるわけではなかったのですが、ただそれでも彼女に対して興味をある程度は持つようになったのは、たとえば彼女主演作の「もらとりあむタマ子」での演技であったり、そして彼女の声がとても気持ちいいからであったりします*3。まあそれでも彼女のファンではないのですが。じゃあ、なぜわざわざこの本を評する為に頑張ってみようとしているのかというと、この本はあっちゃんの声の綺麗さに合った本であると感じたからなわけなのですよ!って、これだとほんとヲタヲタしい言い訳だなぁとは、はい、自分でも感じておりますです、はい。

*1:新橋文化へは俺も時々行ってましたからこのニュースを見た後、あっちゃんに会えないかなとか少し期待してましたが当然、会えませんでした。ちなみにその隣のポルノ上映館である新橋ロマン劇場に橋本愛が通っていたということなんですが、こっちも残念ながら見たことありません。まあ、ポルノ自体、映画館で観た事がないので当然なんですが。なので映画館でポルノを観ていた橋本愛は偉いなと尊敬します。)

*2:アンドリュー・ガーフィールド主演の方、つまりほんとはリア充ぽいイケメン野郎が無理してヲタスーパーヒーローを演じている方ですね。

*3:「さよなら歌舞伎町」で前田敦子が歌手志望の役で歌ってますが、その声もなかなか良いです。

不平等の拡大と縮小: 先進国中産階級層の一人負け

新年あけましておめでとうございます。ここ数年、ろくに更新してませんが、本年はなんとか記事を書いていきたいと思いますのでよろしくお願いします。

さて、ピケティ本の成功以来、所得・富の不平等についての議論が活発化しています。所得の不平等については以前から、国民の大多数の所得が上昇しない中でトップ層の所得だけが急上昇して不平等が拡大しているという指摘と、その認識は先進国だけを見ているからで、途上国のキャッチアップにより世界全体での所得不平等は縮小していっているという反論がありました。どっちもその通りだなと思うのですが、クルーグマンが新年一発目のブログ記事でその両方を一つにまとめた図を紹介していました。

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これは世銀のChristoph LaknerとBranko Milanovicの論文の図にクルーグマンが手を加えたもので、1988年から2008年の間の世界全体での所得分布階層ごとの所得上昇率を表しています(縦軸が所得上昇率、横軸が所得分布階層)。図の中に中国の中産階級と、アメリカ(US)の下層中流がXで示されています。日本の中産階級も同じくらいのところですかね。
この図から分かるのは、

  • 世界の所得階層のトップは1988年から2008年までの20年間、非常にうまくやってきた(The rich get richer)
  • 世界全体の中間層もまた上手くやってきた。実際、中国の中産階級層は世界トップよりも所得上昇率が高かった(世界全体での所得不平等の減少)
  • しかしその中で割りを食ったのが先進国の中産階級。下層中流のあたりなどは図に示されている世界の所得階層の中で、所得の伸びがもっとも低かった(先進国中産階級の一人負け)

先進国の中産階級の所得の伸びは低かったとはいえ、それでもプラスですから絶対的な貧困化が起こっているわけではないはずですし、あとよく言われるように技術進歩による恩恵を計測するのは難しいので実質所得の上昇は実際にはより高いのかもしれませんが*1、先進国の中産階級層の平均的な所得が僅かに上昇していたとしても雇用の不安定化や医療費の上昇(特にアメリカ)などで追いつめられた感が出てくるのは当然と言えば当然なのでしょう。

*1:その場合にはトップ層や世界中間層の実質所得上昇も更に高かった事になるので、先進国中産階級の一人負けは変わりませんけど。

「恐怖の作法 ホラー映画の技術」

Jホラー映画における「小中理論」の小中千昭さんによる新刊。

単に人が殺されるだけのショックはあっても怖くはないホラーではない、本当に怖いホラー映画について書かれた2003年の「ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言」

を第一章、2009年に書かれたが発表される事のなかった文章を第二章、そして2014年に書き下ろされた文章を第三章として組まれた本です。「ホラー映画の魅力」はまさに如何に怖いホラー映画を作るかという本でしたが、この本はなにしろ10年以上の期間の間に書かれた文章を集めたものですから、取り扱っている題材も幅広く、ホラー映画から、アニメ、脚本について、2chのオカルト板の都市伝説、「アリス」への執着、更に第三章では「ホラーに飽きたね」というセリフまで出てきます。とかいいつつもその第三章に「小中理論2.0」が書かれていたりするわけです。

文章自体は非常に読みやすいですが、恐怖を縦糸にしつつも話自体は(そもそも書かれた時期も全然別の三つの文章がまとめられたものなので)色々な方向に向かいますから、ホラー映画についての話だけを期待するならちょっと当惑させられるかもしれません。とくに、2chのオカルト板や恐怖についての著者の考えが述べられる第二章は。とはいえそれでも、色々な映画についてや、自身が関わってきた実写やアニメ作品についての話はなかなか楽しいです。とくに、著者がserial experiments lainのシリーズ構成を担当していたというのに驚きました。いや、このlainは観た事がないのですが、最近、別のところでこのlainはこのまま観ないのだろうなと書いたところだったので、シンクロニシティを感じてしまいました。