P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

「最初の接触 伊藤典夫翻訳SF傑作選」

伊藤典夫翻訳SF傑作選 最初の接触」を読みました。
www.hayakawa-online.co.jp
タイトル通り、伊藤典夫さんがSFマガジンに訳された短編を集めたもの。収録作はもともと50年代発表(表題作だけ40年代)で翻訳は60年代のものばかりですが、翻訳については女性の言葉遣いがすこし昔の翻訳調かなという以外は特に古めかしい感じはしないです(もちろん当社比)。傑作選と銘打たれているだけあって、古い作品ばかりではあっても流石にみんな面白いです。

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レイモンド・チャンドラーのSFによるグーグルの発明、そしてディレンマ

時代が進んでも、変わらないものはあるのだなぁって話。

1964年に出たジェームズ・ブリッシュのSF評論集 The Issue at Hand

The Issue At Hand (English Edition)

The Issue At Hand (English Edition)

を最近読んでいた時に、架空歴史上でのAIの進化による二人の人間と「一人」のアンドロイドの間の関係について小説を書いたイギリスの作家のイアン・マキューアンさんが「これはSFではない」とか語ったというのを知りまして、
factordaily.com
まじで時代は変わらんのかと思いました。その作家さんのインタビューから。

マキューアンはそういった倫理的なディレンマについて探求できる一番の場所が小説だという信念を長く持ってきた。「小説家がこの未来を探求できる心の宇宙が開かれている。反重力ブーツにより光速の10倍で旅するようなものではなくて、人工物だと知っているが我々同様に考える何かとの接触による人間のディレンマについて考察する事ができる宇宙が。」

ちなみに最初にリンクを張った記事は、カート・ヴォネガットJrによる1965年のエッセイからの

「私は『サイエンス・フィクション』とラベルされた書類棚の不機嫌な住人をこれまでやってきたが…出ていきたい。あまりに多くの真面目な批評家達がいつもこの棚を便器と間違えるのだから」

という引用で始まっています。こういうSFの見下し*1の更なるバージョンとして(時間を逆行して)、レイモンド・チャンドラーが彼のエージェントへと送った1953年3月14日付の手紙の中で下のようなSFのパロディを書いてます。

サイエンス・フィクションとか呼ばれてるものを読んだことはあるか?馬鹿げたものだ。こんなのが書かれてる:アダバランIIIをK19と一緒に調べて、俺の22モデル・シリウスハードトップのクラムマリオッテ・ハッチから外に出た。タイムジェクターをセカンドにして鮮明な青のマンダ草のなかを進んでいく。俺の息はピンクのプレッツェルに凍りついた。ヒートバーをつつくと、ブリリスたちが5本の脚で軽快に走り出しつつ、残りの2本でクライロン振動を送りだした。そのプレシャーはほとんど耐えられないほどだったが、しかし透明なシシシティを通して俺の腕コンピュータが射程距離をつかんだ。引き金を引く。薄い紫の輝きは錆色の山々を背景に氷の様に冷たかった。ブリリスたちが半インチの大きさにまで縮み、俺はポルテックスを使って連中の上をすばやく飛び跳ねていく。しかしそれでは充分じゃなかった。いきなりの煌めきが俺をよろめかす。第4の月がすでに浮かんでいた。分解機利用の為に使えるのは正確に4秒しかなく、グーグルが俺にそれでは足りないと教えてきた。ヤツは正しかった。’ 連中はこのゴミにもちょっとは払ってくれるかな?

最後のところで「グーグル」という言葉が出てきます。グーグルの言葉の由来は、97年に10の100乗の数であるGoogolドメイン名を登録しようとしたラリー・ペイジたちが綴りを間違えてGoogleで登録してしまったからと言われていますが、このチャンドラーのグーグルはその44年も前なので、チャンドラーがグーグルを発明したと言われる事もあったりします。

さてこのチャンドラーの文章、SFのパロディとして分からないわけじゃない、特にこれが53年に書かれたものだという事を思い出せば。しかし、その時から66年経っても、「反重力ブーツにより光速の10倍」がSFだと思われているというのは、ちょっと衝撃。ブリッシュのThe Issue at Handは評論集なので、まあ当然ながらこの手の話も書かれています。

この事にはデテンション(Detention, 1959年第17回世界SF大会)のゲスト・オブ・オナーであるポール・アンダースンも触れている。もし彼がそれを中心的な題材にしていたのなら、私がやらなくても良かったのだが。しかしポールの主題は、サイエンス・フィクションへの一元的アプローチ、つまり哲学、愛、テクノロジー、詩、そして日常生活の要素の全てが重要でかつ大体同じ割合の役割をもつアプローチの導入だった。さて、これはサイエンス・フィクションにとっての理想的な配合である…しかしそれがサイエンス・フィクションにとっての良い配合であるのは、それがフィクション全体にとっての良い配合だからだ。どんな分野のものであれ良いフィクションが何か他の方法で作られた事はないし、これからもないだろうと断言しても大丈夫だろう。

ここでブリッシュが言っている事がマキューアンの言っている事と同じ、あるいはそれをさらに詳しく述べているだけなのは自明でしょう。ブリッシュは(そしてアンダースンも)それを満たすSFが良いSFだと考えていたわけですが、マキューアンはそれを満たしたらSFではないと考えているわけです。満たしていない作品についてブリッシュは

反物質、銀河の衝突、そして後ろにゼロが長々続く数字にはそれらなりの魅力があるが、そのどれも自分の娘である5才児の少女ほどの畏敬の念をもたらしはしない。

爆発する星が本質的に、それに驚きを感じる人間の頭や心よりも驚くべきものだといまだに考えているような作家や読者たちもにも遅かれ早かれそういった些末な驚異のタネ切れになるだろうし、そうなればその人物は読者なり、作家なり、編集者なり、暗愚な大衆なりを責めるんだろう。そんな事を、もう長い間、みてきたじゃないか。

と書いてます。更に上のマキューアンぽい、

しかし我々とこの分野(サイエンス・フィクション)の両方がもはや子供ではないし、この物理宇宙自体の枠を壊さずには物理的地平線を大して広げようのない段階にまで我々は達してしまっている。倫理的、道徳的、哲学的な地平はまだ残されており、そしてそれらは無限だ。

と書いた上で、

良いサイエンス・フィクションの領域はそこに眠っている、そう私は信じている。

と続けています。もちろん、こういうのはブリッシュ独自の考えではなく、たとえばアシモフもどこかで同じ様な事を書いていたはずです。SFの中で、その中に閉じこもる事を自明にしている人達以外は多分同じ様な事を考えているはず。でも、そんな事はSFの外の世界には通じていない話なわけですね。まあこれには、いまSFにおいて映像作品の力が強い事があるのでしょう。やっぱSFというと、スターウォーズとかあるいはネッフリのアクション志向のオリジナル作品とかが頭に浮かぶのが普通でしょうし。そして正直、その強さのおかげでSFが世の中に大きく受け入れられているというのもあるのでしょうから、それも仕方のないディレンマなのかもしれませんが。

*1:ヴォネガットのは自身がSFを見下しているというより、見下されているジャンルに所属している事への不満ですけど。

歩むべきGlory Roadはどこにあるのか?ハインライン「栄光の道」

好きなSF作家はと問われればハインラインと答える事にしているわたくしでございますが、数あるハインライン作品の中で特にどれと問われれば、長編ならば「栄光の道」を挙げる事にしています*1ハインラインの有名作といえば、「宇宙の戦士」、「月は無慈悲な夜の女王」、「異星の客」、そしてまさに日本におけるロリ物の人気を示すような「夏への扉」*2とあるわけなのに、なぜ「栄光の道」なのか?一つには、ハインラインがこの作品で見せているSF作家としてのセンスですが、それは別にこの作品に限ったものではない。より大きな理由は、ハインラインといえばジュブナイルでも有名なわけですが、「栄光の道」はそのジュブナイルの時期が過ぎた後の青春小説(あるいは青春からの卒業についての小説)にハインラインが彼なりに近づいた作品だと感じるからです。いにしえの20世紀にハインラインと並んでSF BIG 3と呼ばれたアシモフ*3ハインラインについて、

ハインラインは時代についていこうと努めていた。だから彼の後年の小説は1960年代以降の文学の流行に関して、「それっぽくあった」

書いています。とはいえ、アシモフによるハインラインの努力についての最終的な評価は「私は彼が失敗したと思う」なわけですが。そのハインラインが時代についていこうと「努めていた」のがよく現れているのがこの"Glory road"こと「栄光の道」です。今回、この「栄光の道」を久しぶりに読み直したので、その感想を書いてみます。

Glory Road (English Edition)
アマゾンから原書の方を。これは今回、原書の方を読み直したからというのもあるのですが、訳書がアマゾンでは古本としてしかなく、早川書房のサイトで検索しても「栄光の道」が出てこないからです。訳書は絶版にでもなったのか?*4
 
この「栄光の道」の原書にはディレイニーによるハインライン評でもある「栄光の道」評(1979年)が載っているものがあります*5。このハインライン評によると、意外にもディレイニーハインライン好きなのだそうです。

ところで、マルクスの好みの作家はバルザックだった。公然たる王党派だ。そしてハインラインが私の好みの作家の一人だ。

また、デーモン・ナイトによるハインラインの哲学の中心的信条の引用を引き写した後で*6

ハインラインと私はおそらく何が「惑わされた」事になるのかについて、あるいは「惑わされた」事についての社会的責任に関して口論する事にはなるだろうが、それでも、もしハインラインの宣言を突き出されて署名を求められたなら、私はそうする。

とも書いています。こういうディレイニーによる「栄光の道」の評価は、

ハインラインの形式的にもっとも満足のいく作品の一つ…

その終盤では「銀河市民」(1957)以来のどんなハインライン作品に見られるよりも劇的な運命の変転が、はるかにずっと自然で納得のいくかたちで起こる。

ハインラインの他の作品群がなければ、「栄光の道」の喜びにあふれた発想の質の高さがもっとよく理解されていただろう。我々はそれを「軽い」作品として、けれどいつまでも定義されることを逃れ続ける理由によっていつまでも魅力をもつ作品としてみなすことが出来ていたかも知れない。いうならば、そう、我々がコードウェイナー・スミスの作品の事をそうみなすように。

というものです。ハインラインを評するのにコードウェイナー・スミスを持ち出すのは初めて見ましたね。という事で、ディレイニーハインラインを、そして「栄光の道」を高く評価していたわけですが、ディレイニーによると「栄光の道」は連載時(1963年, F&SF)にファンからの評価が非常に悪かったそうです。ディレイニーはそれはこの小説の構造のせいだと書いてますが、まずは作品の紹介を。

「栄光の道」は主人公である米軍退役兵のゴードン、ヒロインである魔女のようなスター、そして従者のような老人(おじさん?)のルフォによる、大雑把に分類すればファンタジーと言えそうな作品であり、大きく4つのパートに分ける事ができます:ゴードンが米軍を退役しヨーロッパで貧乏ボヘミアン生活を送る中でスターとルフォに出会うまで、3人の地球外での冒険パート、ゴードンのセントラルでの生活、そして地球に戻ってきてから。既に書いたように大雑把に言えば冒険ファンタジーなのですが、作品のポイントは冒険にではなく、冒険の後にあります。冒険が終わった後の勇者、つまり元勇者はどう生きればいいのか?

上で触れたハインラインの後期の作品について、じつはあまり読んでいません。どうにも後期の作品には彼の頭の硬さというか、彼の保守性が顕著にそして声高に出てくるように感じられて、そうなるとこちらと思想的に合わないのでそれが気になって読めなかったりするわけです。勿論、「栄光の道」においてもそういう面は散見されて、例えばハインラインの保守性と彼の納税額のせいか税金についての文句が多いのは青春小説と考えるとほんとうんざりさせられるところだったりします。ですが文化の多様性についての引用を最初に掲げるこの作品は若いころのハインライン、1930年に海軍士官としてニューヨークに住む事になった時にはグリニッジ・ビレッジを選びレズビアンの友人もいた*7ハインラインの一面が、最初のヨーロッパでのパートなどに反映されているのではないかと思います。このヨーロッパのパートは60年代のヒッピーのイメージを先取りしているようにも思えます*8。作中でのハインラインの当時の若者についての評価は非常に保守的なものであり、60年代のヒッピーの隆盛を完全に予想失敗しているのにもかかわらず*9。もちろん、ハインライン自身はこれを執筆時点で既に50代であり、若者自身による青春からの成長の物語ではないわけでもあり、それは仕方がない。

かつて、栄光の道を最初に読んだころに印象的だったのは最初のパートなのですが、今回久しぶりに読み直して良いなぁと思ったのは地球に帰ってきてからのパートでした*10。上に書いたようにディレイニーによるとこの作品は連載時に非常に嫌われていたそうなのですが、それについてディレイニーはこの小説のファンタジーとしての上部構造のせいではないかと書いています。この小説は一応、冒険ファンタジーとみなされるのが普通なわけですが、ファンタジー小説的な第2パートにおいても正確にはファンタジーについて語るメタファンタジーであり、さらにその後には冒険が終了した後の勇者の存在の意味、あるいは元勇者である事の人生においての意味についての小説になっていきます。トールキンアメリカで大ヒットする直前にトールキンフォロワー達の小説より先を行っていたのは、ファンタジーをSFとして語ってみせる「魔法株式会社」を1940年に発表しているハインラインの面目躍如というところです。

ですがそれだけでなく、いやそれ以上にこれがSFを含む広義のファンタジーですらないからではないかと思います。実際、最初と最後のパートについては全くSFではなく、そこでは現実の地球の人間サイズの美しくもなく悲劇的というほどでもない悩みや問題が語られているからではないかと。そういう小説だから、つまり人生の意味を探す小説だからこそ何度も書いているように青春小説と感じるわけです。ゴードンは冒険を経て20代にして人生の頂点を迎えてしまい、その後、冒険の報酬として豪華ではあるが、結局はとても豪奢なヒモの生活を送ることになった事に気がつくわけです。そうなった元勇者はどうすれば良いのか?生活に追われるという事がなくなった後にどう生きるべきか?それは青春の(あるいは豊かな時代の引き延ばされた青春の)疑問。与えられたヒモの生活をI deserve it! I earned it!といって受け入れるのも一つのありかた。けれどそれを受け入れられない人間もいるだろうし、ゴードンはそういう人間として設定されています(といって与えられた富を完全に拒絶するわけでもないですが)。けれど、そのゴードンが新たな挑戦の為に戻ってきた地球(というかアメリカ)で消耗し、結局、一人では人生の闘いに負けて行くのがとても良いわけです。そして、そのゴードンを救済する世知に長けた友。第3のそして最後のパートは、そういう敗北とそしてそこから脱していく成長を描いていて、つまり夢物語だけでは人生はすまない、夢物語ですら人生全てを埋めることはできないという事についての物語になっています。そりゃ嫌われるわなw

*1:あと「自由未来」とか「銀河市民」とか良いですね。それから「宇宙の戦士」もなんだかんだ好き。

*2:こんな表現をしてますけど、日本以外でのこの作品の人気のほどは知らないです。

*3:当然ながら残りの一人はアーサー・C・クラーク。私はアシモフも好きなんですが、なんだか今ひとつクラークは好きになれません。

*4:その上さらに、アマゾンあるいはネットで単純に検索すると弱虫ペダルの"Glory road"という曲がいっぱい出てくるし。

*5:あと、このディレイニーエッセイ集にも載っています。

*6:「どんな政府であれ、あるいはなんならどんな教会であれその民に『これを読んではいけない、これを見てはいけない、これを知ってはいけない』と命じようとする時、その最終的な結果は専制と圧政である。その意図がどれだけ立派なものだろうと。心がすでに惑わされている人間を操るのには大した力はいらない。その反対に、自由な人間、その心が自由である人間はどれほどの力を使おうが操る事はできない。拷問台でも、核分裂爆弾でも、どんなものを使っても出来はしない。自由な人間を征服することは出来ないのだ。最大限出来るのは、そいつを殺すことである。」

*7:くどこうとして失敗したそうです。

*8:あるいは戦間期のヨーロッパに滞在していたアメリカ人芸術家とかについてのハインラインのイメージとかだったりするんだろうか?全然しらんけど。

*9:とはいえ、実のところそういう若者像がニクソン言うところのサイレントマジョリティー的な若者の主流だったんじゃないのかなとも思うけれど。

*10:もともと嫌いだったとかってわけではないですが。

「文芸の本棚 久生十蘭」 

久生十蘭という作家さんをご存知ですか?

読書家の方ならご存じなんでしょうが昭和30年くらいまで活躍されていた作家さんで、検索すると「博覧強記と卓越した文章技巧を以て数々の傑作を世に残し、「小説の魔術師」の異称をもつ作家」といった称賛の言葉が色々ヒットしますが、無知な私はろくに知りませんでした。「全く知らない」ではなくて「ろくに知らない」なのは、横田順彌さんの無茶苦茶面白い日本SFこてん古典

日本SFこてん古典 (1) (集英社文庫)

日本SFこてん古典 (1) (集英社文庫)

の中で久生十蘭の「地底獣国」のタイトルが紹介されていた事をかすかに覚えていたからです。という事で俺にはSF系のイメージがありましたので、本屋で見かけた時にこの本をつい買ってしまいました。

www.kawade.co.jp

久生十蘭の短編や対談、彼についてのエッセイなどを収録しており、久生十蘭について興味を持つにはまさに丁度いい本です。戦中に書かれたショートショートの3篇「雪」「花」「月」とか良いです。大正期の「電車移住者」、素晴らしいです。戦中の44年発表の「第○特務隊」、面白い。収録されている11作のうち6作が戦中発表の作品で、もちろん反戦志向の作品などは無いのですが、戦争賛美、大日本帝国バンザイ!というのでもなく、その戦争の片隅について語るような作品ばかりが掲載されています。まあこれは作者の傾向なのか、この本の傾向なのかはわかりませんが。ですが収録作中もっとも長く、タイトルからするとなんだか特殊部隊の戦闘を扱っているかのように思える「第○特務隊」が、特殊部隊ではあっても特殊な建設部隊の話だったりして、戦う相手は建設場所の自然環境であるという事、しかもその結末がどこかすこし物悲しいという作品であったりするのでやはり変わっている印象です。

ただ、作品を読んでいると十蘭の文章についての様々な称賛の言葉にもかかわらず、(??)となるところがしばしばありました。なぜそうなったのかよく分からないまま話が進んでいたりします。捕物帳である「忠助」とか、なぜそうなったよく分からないところがあります。勿論、それは私の読解力の問題という事もありうるわけです。ですが、たとえば日本人の通訳と一緒にインドネシア人がオーストラリアまでカヌーで旅をした顛末をカタカナで記した「弔辞」では、そのインドネシア人が日本人を守る為にサメ(鱶、ふか)に追い払おうとした結果左腕の肘(肱)から食べられるのですが、

私ノ突キダシタ腕ハウマク鱶ノ口ノ中ニ入リ、鱶ハ私ノ左腕ノ肱カラ先ヲ喰イトッテ急ニ水ノ中ヘ沈ンデ行キマシタ。

改行されてからのその次の文章が

私ドモハソレカラ五日目ニ「ヨーク」岬ノ西側、「カルン」岬ノ北ノ「ダック」湾ノ、人ノイナイ淋シイ砂浜ニ舟ヲツケマシタ。

となっていて、ここを読んだ時、私は目を疑いました。左肘から先を食べられた事には何も触れないの?肘から先を食べられるというのはどんな人にとっても大事件のはずだし、食べられた後どうしたのかも非常に大事。二人っきりのカヌーの旅ですから、そのまま出血多量で死ぬかもしれない、食べたサメは肘から先を食べた事で満足したとしても血が他のサメを呼び寄せるかもしれない。当然ながら敢えて触れないという書き方もあるわけですが、この食べられた肘に改めて触れられるのが2ページ先、上の引用中の5日目からさらに時間が経って、オーストラリアから戻るカヌーの旅に出てから。ここで食われた左腕を蔦で縛っていた事が知らされるのですが、その左腕が腐って臭くなってから。「肱」という古い漢字なのでもしかしたら私が食べられた部位を誤解していて、実は指の先を食われたとかなのかもと自分の理解を疑ったりもしましたが、このやはりこのあたりの文章を読むと肘から先で正しいよう。となると、作者はこの主人公の左肘から先をサメに食われたという件に大した重みを感じていないという理解にしかならず、別にインドネシア人差別だとかどうとかという事ではなくて、やはり変な感じがします。まあ作品の物語の中で理解しようとすると、これは亡くなった日本人への追悼の文章である為、その日本人の「忠実ナ『ジョンゴス』(下僕)」を自称する主人公が使えていた日本人の死と比べて己の左肘から先を食われたその事件を些細な事と捉えていたという理解も出来なくはないですが、いくらなんでもって感じです。
 
こういった(?)となる唐突な部分もあったりはするわけですが、全体としては面白い本でした。ほんとに「第○特務隊」とかお勧めです。

ミシェル・ウェルベック「服従」、あるいはぶっちゃけ、男なんて持ち上げられてセックスできたらなんでも良いんじゃないの?

数年前に話題になったウエルベックの「服従」を今頃読みました。

www.kawade.co.jp

「仏大統領選で激震!!」と帯にあり、「世界の激動を予言したベストセラー」とも書かれている本であります。内容が2022年の大統領選で極右政党への対抗策として左派政党とイスラム政党が共闘、その結果イスラム政党からの仏大統領が誕生し、フランスのイスラム化が進むという設定のこの本、反マクロンのイエローベスト抗議運動が大きな話題になっている今、なんか時代とずれている感もありますね。ですが、中道を標榜していたマクロンが今の不人気のまま2022年の大統領選挙へ突入すれば、逆にそういう展開の可能性も高まるのかもとか思ったりもしますが...まあ別段、真面目に予想として捉える作品でもないでしょう。さて、そういう設定の作品となると自然に予想されるのは反イスラム色のポリティカル・フィクションというあたりになりますが、しかしウェルベックについてはろくに知らないながらもこれまでに読んだ唯一のウェルベックの本

www.kokusho.co.jp

について

という感想を持った私としては、そんな単純な本なわけもないだろうと思いながら読んでみましたら、やっぱり違いました。もちろん、日本やアメリカならばともかく、フランスそして欧州・イスラム圏についての政治的言明については基本判断がつかないので話の中で起こっている事のリアリティの度合いは全く分からないわけではあるのですが。ちなみにこの本の事を全く知らない私の知人がタイトルだけを見てエロい本かと誤解した事があったのですが、そっちの方のは当たってはいないながらも、この本の重要なところを押さえてはいました。この本は、陰謀論を現実であるとするようなポリティカル・フィクションタイプの面白さではなく、文明論と、中の上流レベルのインテリの中年の危機が一夫多妻という名のハニートラップによって救われる様を描いた作品でした。そしてその精神的劣化・弱体化という中年の危機のセックスによる解決がフランスの征服・服従につながるという。

中年の危機に見舞われた大学教授である主人公はイスラム政権誕生後、ゆっくりとイスラム化していくフランスの中で、その過程に参加しないという消極的なあり方でイスラム化に(意識的にではないとしても)微妙に逆らっていたわけですが、それが最終的には体制に取り込まれていきます。男が女性に求める事は「セックスのできるお母さん」であるという批判をどこかで読んだ気がしますが、一夫多妻という制度により「セックスのできる(≈見た目の良い・若い)お母さん(≈世話をしてくれる)」妻をキメラ的に作り出すことでその制度を生み出すイスラム化をエリート層に容認させていくというこの「征服」方法は男についての身も蓋もない批評かもしれません。現実的であるのかどうかは難しいところですが。個人レベルでなら有効的でしょうが、流石に社会レベルだと既に存在している女性エリート層からのバックラッシュがあって実効的とは思われない。そういうバックラッシュへの暴力による抑圧を想定しているということだろうか?とか考えたりもしますが、まあ既に書いたようにそもそもまず真面目な予想ではなくて、これもある種の「世界系」、主人公自身の悩みがフランスの悩みを表しており、「世界」がそれに反応してくれる物語と捉えるべきなのかもしれません*1。そしてその点で、終盤、主人公のイスラムへの転向が起こるあたりで、この作品が「1984」の反転であるかのように感じました。「1984」では無気力な党員であった主人公がプライベートを得て活力を取り戻していく末に国家と衝突、国家によって粉々に破壊されて社会に適応しますが、こちらでは活力を失っていく主人公が変わりゆく国家の中で、国家によって女性と社会的地位*2をあてがわれて活力を取り戻し新しい社会へ適応していきます。個人の欲望の肯定による国家の勝利というのは、まあ現代的かな*3

*1:ま、いい加減に「世界系」という言葉を今さら使ってますけど。

*2:この両者はそもそも結びついているわけですが。

*3:あくまで男性についてだけですが。

キングの幻、ハーツの市街戦ー「まぼろしの市街戦」

1966年の映画が4Kデジタル修復されてK's cinemaでリバイバル上映*1。大昔に放送されたのを観て感動した記憶に動かされて行ってきましまた。といっても先月の話なのですが。


映画『まぼろしの市街戦』≪4Kデジタル修復版≫ 予告編

第一次世界大戦中のフランスの田舎町を舞台に、占領していた町から撤退するドイツ軍が仕掛けた爆弾を解除するために英軍から送り込まれた一兵士を主人公にした映画、という紹介だとなんかシリアスなミリタリーもののような感じですが、上の予告編からも分かるように全然違います。幻想の優しさと現実の悲しさが交差する、そしてそんなタイプの映画にしては珍しく退屈せずにちゃんと観れる映画です。公開当時、一般的な人気を得たわけではないそうなのですが、アメリカでの上映でカルト的人気を得たとか。70年頃のアメリカは、ナイト・オブ・ザ・リビングデッドとかエル・トポとか、マイナー映画が若者に支持されてロングランのカルト映画になるケースがよくありますね。

前にテレビで観た時は途中からだったので実はそもそもどういう設定の話なのかよく分かってなかったのですが、それでも戦争批判の主張がはっきり伝わったのがラストシーンが非常に印象的なものだからでした。今回のリバイバル上映ではそこからまだ話が続くので、正直、鮮烈さが失われているようには感じましたが、ただ幸せさはより伝わるようになったのかも知れません。

ところで今回観て、一番印象的だったのが、サーカスが放置していったライオンの入っている檻の出入り口を主人公が開けるシーン。66年の映画なので当然ながらCGではないし、ライオンは鎖に繋がれているわけでもないし、主人公は役者さんであってサーカスでライオンに芸をさせる人でもないわけで、すっと開けた時にはライオンが出来てたらどうするんだとマジびっくりしました。でも、ライオンは出てこない。勿論、それが分かっていたからこそ開けたわけでしょうが、それはそれでなんとなく檻から出ないライオンが可哀想にも思えてきます。

あと一つ、この映画を観終わって買ったパンフレットからこの映画の原題が"Le Roi de Cœur"、英題が"The King of Hearts"と知って驚きました。キング・オブ・ハーツって、機動武闘伝Gガンダムではないか!と思ったら、なんとGガンのあのキング・オブ・ハートの元ネタがこの映画だったとは!…いや、昔WIKIPEDIAでその情報を読んで、へー、と思いながらもすぐに忘れていた事をこの映画のパンフレットを読んで映画の原題を知り思い出しました。

*1:より正確には4Kを2Kに変換したもの。