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P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

『おくりびと』 「もてなしのいい」映画。

監督:滝田洋二郎
出演:本木雅弘 広末涼子 山崎努

まずは前口上。映画評というものはこれまで書いたことはなかったが、実は先月からずーと、「ダークナイト」について書きたいと思っていた。どの映画評も高評価で、いや、もちろんいい映画なのは間違いないからそれでいいはずなのだけれど、実はちょっと引っかかるところがあって、手放しの高評価への小さな反抗を試みたかったのだ。だが、書きたいことを書くには俺がものを知らなすぎる事がわかったので諦めていらたら*1、この映画に出会い、これの感想は書ける!(特に調べ物をしなくても!)と思ったので、書いてみる次第。ネタばれしまくりです。


まず、最初に書いときますが、いい映画です。広末涼子がかわいいし!きれいだし!!俺の奥さんになってくれ!!!って真剣に思うし。それだけでもう十分いい映画なわけだが、涼子の事を除いても、いい映画。よくできていて、無駄がない。ただねぇ、ある意味、なさ過ぎるんじゃないかと、そんな不満を思うのだ。昔々、アメリカの作家カート・ヴォネガットはSFとポルノを「もてなしのいいファンタシー」と評したそうだ。ポルノの方は(あんまりは)知らないが、少なくともSF全体への評価としてはこれは厳しすぎるだろうと思う。だが、完全に間違っているとはさすがに思わない。人が小説であれ、その他のメディアであれ、とにかくそのフィクションの世界の中に入っていこうと思う根本の理由の1つは間違いなくこの「もてなしのいい」世界への逃避だろうし、他のジャンル小説と比べてSFはポルノと同じくらいもてなしのいい世界だとヴォネガットは感じたのだろう(SFのもてなしはポルノのもてなしとはまた性格の違うタイプのものだろうが)。で、俺はこの「もてなしのいいファンタシー」という言葉を、この映画を観ながら思い出していた。だって映画の中で展開することの(ほとんど)すべてが主人公の本木雅弘の為に用意されていて、その他の人達のことは(ほとんど)何もないのだから*2


娯楽映画としてはこれは当たり前のことのように思えるし、上で述べたように、人がフィクションを消費する理由のひとつが「もてなしのよさ」を味わうことであるのだから、まったくもって当たり前のことではある。ある程度ヒットする映画を作ろうとするのなら、「もてなしが悪い」など絶対にあってはならないだろう。またこの作品のもてなしのよさは、単純な娯楽映画でのご都合主義とも違う。中で描かれる納棺の儀式が細やかな心遣いによるもてなしに満ちた美しいものであるように、この映画のもてなしもよくできている。だがだ、この映画のもてなしは、美しい、というよりは、結構あからさまだと思う。単純な娯楽映画ではないように見せながら、観客には実にあまーい、あまーい、お話を提供している。その事にどうにも不満を感じてしまうのだ。この映画の主人公は、映画の中でただただ、ひたすらもてなされているだけ。話をただ追っていくならば、そうではないように見える。最初に主人公は東京で挫折して夢を諦め、故郷の山形へ戻って行く。そして山形で山崎努の下、納棺師として何かを学び、その学んだことのゆえに子供の頃から嫌ってきた家族を捨てた父親を理解し許せるようになる。一見すると、挫折を乗り越えた成長、いや主人公の年齢を考えれば再生の物語の様にも思える。実際、そうなりえてもいただろう。だがだ、映画を観ていると、主人公はその再生をまるでベルトコンベアに乗りながら体験していくように思えるのだ。そのベルトコンベアでの工程はよくできていてる、というか無駄がない。全てが主人公を、そして観客を最後の涙へ連れて行くために用意されている。でもそれがあまりにあけすけだし、しかもその中で主人公はなんらかの再生の苦しみをくぐり抜けているようにはまるで見えない。納棺師という職業についた主人公は、妻(俺の涼子!!)や友人から、忌避されてしまう。そりゃ、陰口や少々の差別的取り扱いはあるだろうなとは思うが、正直あんなにも嫌がられるものか?妻の涼子などはなんと、納棺師という職業を忌み嫌って、別居までするのだ。ああ、かわいそうな主人公という構図になっていて、一応主人公は納棺の仕事をやめようとも思うのだが、そうなると予想通りに山崎努との心の触れ合いシーンとなる。いっしょに飯をくって、努が納棺の仕事を始めた昔話が披露されると、主人公は心変わりしてそのまま仕事を続ける。とってもスームスにそうなるので、努が語る彼の人生と彼が納棺した第一号である彼の妻の人生は、主人公が納棺の仕事を続けるために存在していたように見える。やがて山形の冬が終わり春になって、妻が(つまり俺の涼子が!)、妊娠したからと戻ってくる。この間、映画の中でたとえば主人公が妻とコンタクトを取ろうとした描写は、一切ない。戻ってきてくれと頼むこともなく、それでも妻は戻ってくるのだ。まだこの時点では妻は納棺師の仕事に反対なんだが、その妻を心変わりさせるために、人が一人死んでしまう。いや主人公のために殺されるのだ!死人がでれば、ここは納棺師の出番ということになり、妻と友人(死んじゃった人の息子)は感銘を受け、ああ、納棺師ってすばらしいとなるわけだ。その後、かつて主人公とその母を捨てた父親が死んだと知らせが入る。主人公は憎んでいる父親の葬式にいまさら行けるかと怒るのだが、妻が行くこと薦め、納棺の会社で事務の仕事をしていた余貴美子などは自分もかつて子供を捨てたのだと告白して葬式に出てほしいと懇願するのだ。で、行く事にすると、努はどれでも好きな棺おけを持って行け!と主人公に棺桶をプレゼント。実際に行ってみると、すぐにその父親の納棺に立ち会うのだが、その納棺が余りにおざなりなので、怒った主人公が自分で行う事に。その結果、主人公は父親が自分の事をいまだに思っていた事を発見して、自分自身の心の中に父親を取り戻す。で、めでたしめでたし、なんだが...


しかし、挫折や辛かったはずの事が辛かったようには様には思えず、すべては主人公の為に仕組まれているように感じられる。もちろん映画を含めたフィクションは主人公のために仕組まれたものだし、正確にいえば、たしかに主人公は苦しみを味わっている。とくにストーリの始まり時点ではそうなっているのだが、その苦しみからの脱却が、どうにもすっきりさっぱりで、とてももてなしがいいのだ。出てくる全ての人達が主人公のために行動し、生きて、そして死ぬ。人々は独自の存在としてではなく、あくまでも主人公のために存在しているような。ほんと主人公だけが人間で、後はすべてロボットというSFなのではないかと疑ったくらい、というとかなり誇張が過ぎるが、しかし、ヴォネガットにみせたら「もてなしのいいファンタシー」と言ってくれるのではないかと思う。回りの人達が主人公の気持ちを察し、また彼らの行動は結局すべて主人公の為になる。実人生でそんな事がどれだけあるだろう。フィクションにおいても、必ずしも全てがそんなにもてなしがいいわけではない。露骨じゃないですかと、感じたのだ。


ヒットを狙う以上、よいもてなしをしなければならないし、それを映画の限られた時間の中で行わなければならない。ネット上の映画評を見ても大体好評だし、俺が観た地方都市の小さな映画館でも結構、人が入っていた上に、製作者の狙いどおりその多くが涙していたようだ。もてなしのよさがちゃんと評価されているのだろう。ただそのものてなしのよいファンタシーが必ずしも、すべての人に気に入られるわけじゃない。もちろん、趣味の問題でしかないわけだが。

*1:未練がましくちょっとだけ触れておくと、この映画で誰もが誉める要素って、80年代以降のバットマン・リアル路線、いやもしかしたらアメコミ全体のなかでのリアル化のなかで、シリアスにバットマンという存在を考えた際にどうしても突っ込まざるを得なくなる「バットマンって変態じゃん」という事実を前にして、それでもバットマンは「かっこいいヒーロー」なんだという想いを守るために生み出されてきたバットマン/ジョーカーのキャラクター理解、それもおそらくはコミック評論の中で練りこまれ生み出されてきたキャラクター理解なのではないかという事。シリアスにアメコミ世界、特にバットマンを考察し、しかしバットマンはかっこいいヒーローなのだという線は絶対に守るのならば、こうなるしかないじゃんというストーリー、だと思うのだが。つまり俺は、この映画を観ながら、クリストファー・ノーランのコミック評論、それもものすごく整然と整理されたやつを読まされている気がして、どうにもそれが気になってたのだ。ただそのなかで1つだけ、当然こうなるだろうの線を軽く踏み越えていて圧倒されたのがジョーカー/ヒース・レジャーだったが。この俺の感想は当たり前だがこのままではただの感想でしかなく、まともに書くためにはその証拠というか、肉付けのための様々な文献が必要だのだが、そんな知識はない!読んだアメコミやアメコミ映画、またその評論なんて数えるほどだ。じゃあ、知りもしないアメコミとその評論についてなんでこんな感想を持つのかというと、どうもSFマガジンのアメコミ関連記事の受け売り、および、たまに訳されてたアメコミへの思いを込めた短編SFからの印象からなんだよな。

*2:映画の中でワンシーン、主人公の本木雅弘が脇に引き、その友人役の杉本哲太がメインになるとこがあるのだが、このシーンが異様に感じられてしまうのだ