P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

デーモン・ナイト:In Search of Wonder

SF作家・批評家のデーモン・ナイトによるSF批評やエッセイをまとめた本の第三版(1996年)をキンドル化したものです(、多分)。

In Search of Wonder: Essays on Modern Science Fiction (English Edition)

In Search of Wonder: Essays on Modern Science Fiction (English Edition)

第一版は1956年、第二版が1967年で、第三版は1996年に出版。第一版は主に50年代前半のSF評をまとめたもので、第二版以降、そこに簡単な自伝や、デーモン・ナイトが主催者側にいたミルフォードやクラリオンのワークショップについてなど80年代(?)あたりまでの文章が追加されていっています。
少なくともSF界ではちょと有名な本だと思いますし*1、なによりも「黄金律」のデーモン・ナイトだから読んだわけです。黄金律は傑作だと思っているので、同様な感想を思てるかと思って読んでみたんですが、その結果の感想はちょっと微妙。
興味深くないわけではないのですが、面白いとは言いかねるというものでした。
 
もともと色んな媒体に発表された文章を集めたものなのですが、単に集めましたというだけじゃなくて、まとめて再構成しています。
まるで複数の短編をまとめて長編へと再構成した作品(スタージョンの「人間以上」とか、セイバーヘーゲンの「バーサーカー」とか)のようですが、残念ながら小説とは違って、発表された時と場所から切り離すことは、批評から何かを奪ってしまっているように感じます。
 
小説も批評も、どちらも現実世界について何かを語るために文章の中で独自の世界を築くものですが、しかし現実を再構成し仮想の現実を内部で作り出すことで間接的に現実を語る小説とは違い、現実との対話を直接取り扱う批評にとって、初出の情報自体も、少なくとも何十年も後に読むのならば、重要な情報であると思うのですが、それがはぎとられてしまっているのが勿体ないと感じます。というか、一章の中の、流れが続いている(ように再構成されている)文章の中で執筆年代が変わっていったりするように感じるのが、どうにも靴の中の小石のようで、歩みを止めるほどでなくてもどうにも気になって仕方なくなります。
 
本の最後に「何章の一部は何という雑誌の何号に最初に掲載されました」云々というのが一杯書かれてますが、それじゃ明らかに不十分です。そんなことをするより、各文章の頭にちゃんと初出の情報をのっけてほしい。60年もたってから当時出版されていたSF小説(現在まで残っていないものが多し)について書評をわざわざ読むのは、まさに「当時」を知りたいがゆえになのになぁ。

*1:少なくとも俺はかなり以前から知っていたという個人的な理由によりそう判断。

「神曲ができるまで」

井上ヨシマサというとAKB48グループの色々な曲の作・編曲を手掛けている作曲家さんですが、実は80年代から活躍していた方だったそうです。この本はその自伝です。

神曲ができるまで

神曲ができるまで


ハロウィン・ナイト STAFF Ver. / AKB48[公式] - YouTube
この「ハロウィン・ナイト スタッフversion」においてセンターで踊っておられるアフロの御仁でございます。

正直、買う気はなかったのですが、宣伝の為になのか出られていたラジオを聞いた翌日に本屋に行ったら見つけてしまったので、まあこれも縁かと買ってみました。1000円と安かったし。

自伝ですが、文章からするとおそらく口述筆記なのでしょう、たぶん。帯には秋元康の「井上ヨシマサは天才である」という言葉が書かれてます。秋元康は高校生の時にラジオの構成作家になりましたが、井上ヨシマサさんは中学生の時にアイドルジャズバンドの一員としてプロデビューをし、その後も高校中退して音楽で食っていく道を探って、二十歳そこそこの頃に作曲家の長者番付に入っていたそうで*1、天才かどうかはわかりませんが早熟の才人なんでしょう。で、その才人の自伝なのですが、秋元康と初めて仕事をしたのが1994年、28歳の時で、この150ページ無い短い本の46ページ目、約3分の1のところです。ここまでは全然、AKBに触れていないのですが、ここから3分の2ではどんどんAKBに触れていきます。その為、正直、この本のバランスが悪く感じられました。

勿論、私がこの本を買ったのは著者がAKBの作・編曲家であったからなので、AKBに触れてくれるのは良いのです。というか、一杯触れてくれたらいいのです。ですが、建前的にはこの本は自伝でありAKBについてではありません。なので大島優子の「泣きながら微笑んで」におけるエピソード*2とかもあったりはするのですが、これがそんなに深くはならないのです。AKBヲタ的には物足りない。なのにあまり一般知名度がないようなメンバーの名前が説明抜きで出てくるして、非ヲタの読者にとってはわかりにくい、というより置いてきぼり感もあるのではないかと思ってしまいました。一応、建前としては誰でもが対象なのに、実際には「ぶっちぇけ、AKBヲタですよね、皆さん」という感じの文章があったりするわけです。けれどでも、AKBヲタが本当に求める方向では書かれていない、なぜなら作曲家の自伝という建前だから。バランスが悪い。いや、現実的にはこの本を買う人の大半はAKBヲタでしょうから、それを前提にした文書は当然なんでしょうが、だとするならもうちょっと「AKBについて」であってくれたらいいに。バランスが悪い、あるいは狙いがニッチ過ぎて私が外れてしまっているだけかもしれませんが。このバランスの悪さ、あるいは何かずれている感はAKBがらみだと以前にもこの本で感じました。

AKB48とブラック企業 (イースト新書)

AKB48とブラック企業 (イースト新書)

タイトルからするとこれはAKBがブラック企業だと批判している本であると思われるかも知れませんが、実はそうではなく...AKBのメンバーの労働環境が厳しいという指摘はあったりするのですが、しかしAKBがブラック企業だと言っているどころか、ブラック企業についての批判とAKBの昔の公演曲についての解説が混在し、辛い事があってもAKBの曲を聴いて励まされたりするとか語っていたりするという、何のためにこんな事をしたのかよく分からない非常に混乱させられる本なのです。ここ数年でAKBヲタになった私としては公演曲や昔のことを教えてくれた本でしたので良かったのですが、AKBに興味がなくてブラック企業についてだけ興味があった人達からすると非常にうっとうしい本だと思います。そしてまた、AKBについてだけ興味ある人達からすると、ブラック企業についての要らん文章が多いし。ブラック企業とAKB、売れそうなネタを二つを混ぜて本にしたらもっと売れるんじゃないだろうかという企画はわかるんですが、編集の方は中身についてこれで良いと思ってたんでしょうか?個人的には非常に楽しい本だったのですが。

*1:昔はそういうのが公表されていたんですなぁ。

*2:0048から入った私としてまして、まさに「優子さん!」なエピソードで良かったです。

なぜドナルド・トランプは人気なのか?

ドナルド・トランプについてのとある記事を読みまして、下の様なブクマツイートをしました。


すると私のツイートにしては珍しく非常に多いRTやお気に入りを受けましたので、その記事で書かれていたトランプの人気の理由について改めてブログで書いてみます。

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シリアルキラーはなぜ白人男性のイメージなのか?

一つ前のポストで、「シリアルキラーは白人男性(。・ω・。)ノ♡」というアメリカの神話は間違いだという受け売りをしました。okemos.hatenablog.com
しかしこの神話はアメリカだけでなく、日本にもあったりします。
それがなぜなのかについても前のポストで触れるつもりだったのに忘れてしまってたので、その事についての受け売りをこの別ポストで書いておきます。

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高橋朱里とムカデ人間とシリアルキラー、あるいはガチ恋になりかけてる気がしてヤバい

映画「ムカデ人間3」が8月22日(つまり今日)から公開されました。


映画『ムカデ人間3』予告編 - YouTube

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朝井リョウ 「武道館」

武道館

武道館

今年の頭あたり*1にドルヲタ界隈でちょっと話題になり、春に買ってしばらく放置してた本です。ようやく読んでみたらどうにも違和感を感じたので、既に感想を書く旬は過ぎてしまっているとは思うのですが、前のエントリーが60年前の中編の感想だったりもするしまあいいだろうと、その違和感について書いてみます。

*1:だったと思う。

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"Rule Golden" (黄金律) デーモン・ナイト

デーモン・ナイトの1954年の傑作!だと思うのですが、残念ながらあまり有名ではない作品です。でも傑作なんですよ。
初読がいつだったか正確には思い出せませんが、とにかく90年代に古本屋で買った

SF戦争10のスタイル (講談社文庫)

SF戦争10のスタイル (講談社文庫)

の中に収録されていた翻訳版の「黄金律」を読んだのが初めて。それで感銘を受けて、デーモン・ナイトの名前を覚えました。といってもナイトというとSF評論家としての方が有名なのでこれを読む前から名前は目にしていたはずですが、確実にその名を覚える事になったのがこの「黄金律」です。
留学やらなんやらで何回も引っ越しをして本を整理してしまううちにこの本も手放してしまってたのですが、思い出す事がよくある作品でしたので今回改めて原文の方を読んでみました。
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(なぜかアマゾン貼り付けだと表紙が出ませんので画像をはっつけてます。)
なんかバカっぽい表紙ですが、中身はいたってシリアス。アメリカ中西部において暴力を振るったものがまるで自身に暴力を振るわれたかのような痛みに襲われるという現象、つまり「他者から望む行為を他者にせよ」という黄金律(Golden rule)の逆である「他者になした痛みが己に戻る」という黄金律をひっくり返した(Rule Golden)謎の症状が人間だけでなく動物にまで発生。その為に、犯罪者に発砲した警官は銃弾の痛みに襲われ、屠殺場では食肉の為の屠殺が出来なくなり、さら監獄の看守たちも人間を閉じ込める事による精神的苦痛から退職者が出る始末。ゆっくりと拡大を続けるこの「目には目を」によって引き起こされた暴力からの逃避により社会が崩れていく状況を背景に、地方の小新聞社の社主である主人公が米軍の秘密の研究らしきものに気づいて調査を始めたところ、米政府からその研究施設への招待を受けてというところから物語が始まり、そしてまったく新しい世界への扉が開かれたところで物語が終わります。
読んでいて小松左京
明日泥棒 (角川文庫)

明日泥棒 (角川文庫)

を思い出しました。中盤以降、主人公ともう一人の人物がバディとなり逃避行をするからというのもありますが、60年代小松左京における大所高所と市井が混じって世界が描かれるのに似た感触を受けたからです。まあどちらも現代とほぼ地続きの近未来*1を舞台に、侵入者によって変えられてゆく世界についての小説ですから、似てくるのは当然なのかもしれません。それに似ているといっても「明日泥棒」はユーモアを纏いつつ困惑と未知への怯えと共に終わるのに*2、こちらは人間だけではない幾多の地球上の生物の屍の上に築かれる楽園への道が示されて、ある種とてもポジティブに終わります。スターリン毛沢東なら我が意を得たりと思ったかもしれない要素があるわけですが、これがマッカーシーがようやく弾劾をうける事になる1954年に発表されていたわけで、アメリカSF界において良く言われるようにフィクションの舞台としてSFはやはり自由だったのだなと感じます*3
作中で人類そしてある程度以上の知性をもった地球の生物全体が強制的な変化に直面してゆくのですが、正直、邦題が「黄金律」となっているこの作品は上でスターリン毛沢東の名を出したことからも分かるように倫理的な作品には思えません。Golden ruleではなく、Rule Goldenなのはそのあたりの事をデーモン・ナイト自信が認識していたからというのもあるのでしょうか。「正しい事」を成す為の犠牲が正当化される、あるいは軽視される作品ですから。パワー・ファンタジーなどと揶揄される事もあるSFにおいてもこういう発想は基本的には否定される傾向にあると思いますし、アラン・ムーアなどはその代表作でしょう。勿論、犠牲を伴いつつ世界が変わる話は一杯ありますし、変える為の犠牲は当然とする偉そうな登場人物が出てくる話もありがちでしょうが、主人公側がそっちの作品はそうないのではないでしょうか。パッと思いつくのはSF周辺作品ですが、「ファイト・クラブ」と「ヨルムンガンド」とかくらい(どっちも原作は未読)。思い出せない・読んでいない作品でそういうのは色々あるでしょうが、基本的に犠牲を良しとする連中は悪役側であり、「Watchmen」のオジマンディアスのような犠牲も致し方ないと計算する上から目線の者たちによってなされるものであるのが普通だと思います。
このRule Goldenにおける世界の変化もまさに「上からの」者たちである、まあ未読の方でも推測はもうついていると思いますので書きますが、宇宙人によってなされるわけですが、しかし作品の印象として嫌な感じがしません。それは主人公が最初はともかく基本的には巻き込まれ型であり、真相を知ってからも変化に関わっていかざる得ない立場にある事、そして「上から目線」の宇宙人も実はこの変化の為に大変なコストを支払っていることがあるからです。なので印象としては、冷静に考えれば膨大な命を奪っている酷い話なのに、主人公たち自身も膨大なコストの一部を支払っている事によって一見倫理的なように感じられます。経済学でいうところの清算主義っぽいというか。その仕組みによって上からの変化の押し付けの厭らしさを感じさせずに、大量虐殺に基づく苦難に満ちた楽園を読者に飲み込ませるこの作品は、踏み入れて良いのかどうか分からない領域に足を踏み入れる事を納得させている作品であり、故に何の悪意も込めずに傑作と言いたい作品なわけです。

*1:勿論、もうどっちも大昔の近未来ですが。

*2:全編シリアスですけど同じ小松左京「見知らぬ明日」も同様の終りを迎えますね。

*3:もちろん、まだこの時期のSFは性的、人種、民族的な制約・偏見にとらわれてもいるわけですが。