P.E.S.

政治、経済、そしてScience Fiction

ソヴィエト・ファンタスチカの歴史

「ソヴィエト・ファンタスティカの歴史」というタイトルを見て、何を想像するか?
 
頭の片隅にロシア語でファンタスティカはSFを含む幻想文学の意味という記憶がありましたので*1、私はソビエト時代のSF史なんだと理解しました。

ソヴィエト・ファンタスチカの歴史 (世界浪曼派)

ソヴィエト・ファンタスチカの歴史 (世界浪曼派)

  • 作者: ルスタム・スヴャトスラーヴォヴィチカーツ,ロマンアルビトマン,Roman Arbitman,梅村博昭
  • 出版社/メーカー: 共和国
  • 発売日: 2017/06/09
  • メディア: 単行本
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この本によると、ソビエトでは革命初期から、「月の支配」にとりつかれた独裁者スターリンによって文学界でのファンタスティカ(つまりSF)の優位が確立、そして月への妄執が後の指導層においても継続された為、ソビエト文學界でのファンタスティカの優位がソビエト崩壊まで続いていきました。もちろん、時代の変化の中での権力争い、そしてその権力への対抗、正に革命を伴いつつ。その歴史の中で、20年代にSF専門といえる雑誌、とまでは言えなくてもアンソロジーと呼べるような書籍を出したり、
スターリン粛清に巻き込まれた者の机の上に粛清を暗示する小説があったり、
という事で、ソビエト史にまさかこれほどSFが関わっていたのかと、
この本を読んで俺は1人興奮してしまっていましたが、To good to be true! その紡がれた歴史は実はフィクションでありました。
 
これは言うならば文学史のオルタネートヒストリー物なわけです。それに気づかずに買って、おお、ソビエト政府はこんなにSFを重要視してたのか!と思って興奮していたので、ほんとお恥ずかしいというやつで... いや、架空歴史物の常で、実際の歴史を元にした架空文学史ではあるので完全にフィクションだけなわけでもないのですが、それがソビエトの歴史なので、何が事実で何がフィクションなのかの判断が全くつきませんでした。これが架空アメリカSF史なら流石に第一章の段階でも分かっていたと思うのですが、ソビエト史でやられると、なぁ。ことの真相を知ったのは、1934年のソビエトの文学大会にウェルズやエイブラハム・メリットやスタンリー・ワインボウム(!)*2などが参加して、更にウェルズが発言を行ったと書かれている第三章を読んでいる時に訳者解説をちらっと見てみて。架空のソビエトSF史を本物だと思って興奮して読んでいた私は、フィクションだという事を知って正直、気分が落ちました。

とはいえフィクションだと分かっても、実際のところ結構面白いです。ソビエトという、現代日本に住んでいる身からするとはっきり言ってパラレルワールドの様な異なる社会を舞台にした様々な闘争の物語ですから。また著者の名誉の為に書いておきますと、著者は最初のうちからこの本の怪しさを分かる人には分かるようにしています*3。たとえば序においてこの本の初版(これは改訂第四版)が1985年に出た時に、ダルコ・スーヴィンによるその書評がギャラクシー誌に載ったと書かれています。ギャラクシーは1980年に終刊になったので、これを読んで一瞬、え?と思いはしたのですが、ギャラクシーの終刊の年をちゃんと覚えていなかったので、フィクションとは全く疑っていなかった私はそのままスルー。全く情けないです。先の1934年にウェルズのエピソードも知っている人なら当然疑いを持つようになるエピソードですし、他にも例えばとあるソビエトSFが「冷たい方程式」をパクっているとなっているのですが、このソビエトSFが出版されたとされるのが1940年代末。「冷たい方程式」が出たのは1954年ですから、これでは「冷たい方程式」の方がパクったことになります。こういったSF史に詳しければ何かおかしいと気づくネタをちょこちょこと著者は噛ましています。一応、これらのネタが著者の無理解故の間違いでない事の例を非SFですが一つ上げておくと、「雨月物語」の上田秋成ソビエトチェコスロヴァキア信仰を非難したとしてソビエトから『好ましからざる人物』とみなされていた、とあります。勿論、「雨月物語」の上田秋成は1809年に亡くなっています。

ただSFファンとして言っておきたいのが、英語圏SFの作家名や作品名についてです。勿論、ロシア語に訳された英語圏SFの固有名詞を更に日本語に訳しているわけで、いろいろ難しい事があるんだろうなということは分かりますが。ワインボウムがウェインバウムとかの人名については、ぶっちゃけどっちが正しい発音に近いのか分からないくらいので置いとくとしても、たとえばメリットの作品の邦題は「ムーン・プール」だろうし、上のトム・ゴドウィンの「冷たい方程式」も「ゆずれぬバランス」となっています。勿論、これらは多分、ロシア語訳された際のタイトルの和訳なんでしょうから、ロシア語タイトルの直訳を選んだということかもしれませんが、そこはやはり日本で流通している作品名にするべきだったのではないかなぁとは思います。

*1:記憶があったのは事実ですが、この理解がほんとに正しいのかどうかは保証できません。まあ、この本からするともっと狭義でSFを意味するような感じですが。

*2:ワインボウムが亡くなる前年なのですよね。人選が渋い。

*3:訳者解説によるとそもそも著者名とされている名前自体が明らかに怪しい名前でもあるそうで。

「ゴールド 金塊の行方」(ちょいネタばれあり)


映画『ゴールド/金塊の行方』予告編
予告編のサムネイル画像(とは呼ばないのか?)でマシュー・マコノヒーが半ハゲづらを晒してますが、劇中では更に恥ずかしい、映画「J・エドガー」のディカプリオまであと少しなメタボブリーフ姿まで晒しています。

話は80年代はじめのアメリカに始まります。マシュー・マコノヒーが演じるのは、鉱物資源開発会社ワショーの社長、ではなくてその社長の息子ケニー。社内で彼女へ金の時計を贈って口説いているダメそうな息子です。80年代といえばレーガンアメリカの夜明けとか言っていた景気のいい時代ではありましたが、残念ながらワショー社が迎えていたのは夕暮れの方でした。社長が亡くなったワショー社はケニーが社長を継いだものの80年代末には知り合いの酒場で電話営業をしている始末。倒産を避けようと奮闘するケニーに訪れたのが、インドネシアで金鉱が見つかるという不思議な夢。これでかつてインドネシアで銅の鉱脈を発見して一時、鉱物資源開発業界の寵児になったのに、その後その業界から見捨てられた地質学者マイケル。そのマイケルを演じているのがぶっとい肉厚ハムのようなエドガー・ラミレスで、マシュー・マコノヒーが演じているケニーとは全然違ってマッチョなイケメンです。

まだ付き合っている彼女へかつて贈った時計を黙って売って作った金でインドネシアに飛んだ金のないケニーがヨレヨレのスーツを着て、落ち目になったとはいえいまだに良いスーツを着てカッコいいマイケルを何とか口説き落とそうと大物ぶって話すシーンは最高にみすぼらしくて哀しいですし、マイケルの方にそんな詐欺師に騙されたりしちゃダメ、マイケル、逃げて!と思ってしまいます。そして実際、ケニーの真相を見透かしたマイケルは見下した対応をとるわけです。なのにも関わらず結局、マイケルはケニーをインドネシアの密林の中、自分が金鉱があるのではないかと思っている場所へと案内する事にします。それはケニーの情熱に打たれたからとかいう事ではなく、ケニーがマイケルの弱い部分、失われた成功を取り戻したい、切り捨てた業界の連中を見返してやりたいという思いをケニーが理解し共有していたからでした。そして現地についた二人は、ケニーの言葉に結局マイケルがとりこまれる形でハンカチに書かれた契約書を交わします。

こうして始まった金鉱探し、現地の住人を雇ってマイケルが目ぼしをつけた場所を掘りだして金の含有量を調べていくものの、いい結果は全く出てきません。ケニーがマイケルを看板として利用して集めた採掘資金もどんどん乏しくなっていく中、現地住民が雇用条件に反発、職場放棄をした上にさらにケニーがマラリアにかかる始末。そもそもマイケルは不信感を持っていた上に、金はあるから大丈夫だと言っていたのに結局、約束していた額の数分の一しか採掘資金を集められなかったケニーに対してマイケルは採掘を諦める事を提案しますが、病床のケニーはそれを拒否。それどころか残ったクレジットカードをマイケルに渡して、使える全額を使って採掘を続けろとマイケルに頼んだ上で倒れてしまいます...そして残されたマイケルは今回はその熱意に打たれたのか住民の再説得に動いてそれに成功、採掘を再開します。そして数週間後、病から目を覚ましたケニーの目の前に採掘試料の検査結果が入った封筒を持った笑顔のマイケルが...

ここから彼らの復活と復讐が起こります。そして金(キンでありかつカネ)の匂いを嗅ぎつけた連中がうようよと彼らに寄ってきます。この映画はその中をサバイブしていく二人とその友情の物語です。ですが、その最中に繋がりの見えないシーンが差し込まれ、見えない何かが裏で動いている事を示唆してきます。

これは友情と裏切りと復讐の映画であり、面白い映画だったのですが、最後の最後でちょっと悩んでしまいました。映画の公式サイトでは「実話」とか書いてますが、その実話というのは90年代にカナダで起こったものであり(金鉱掘削はインドネシアですが)、80年代のアメリカの話ではありません。勿論そんな事はどうでも良いのですが、これが実話を基にしたものだとすると、この映画の最後を復讐の成就として素直に喜んでいいのかと。業界への復讐だけで済んではいないわけだし、その事のコラテラルダメージ、巻き添えにあう犠牲者達も映画がみせている事は製作者たちもそのあたりはちゃんと理解しているという事なんでしょうが、あのラストも事実に基づいているのかどうか。完全なフィクションならまああれもありかなと思わなくもないのですが、なまじ「実話」に基づいていると言われるとどうにも気になってしまいます。

嫌な気分ってやつを思いだした...「海外SFハンドブック」

積読本を消化しようと、2年前に買って以来放置していたこの本に手を出してみました。
www.hayakawa-online.co.jp
早川書房の説明によると、

クラーク、ディックからイーガン、チャン、『火星の人』、SF文庫2000番のレム『ソラリス』まで! 巨匠の作品から最新の必読作まで全100冊を選定して紹介するガイド、年代別SF史、SF作家のエッセイ、完全保存版のハヤカワ文庫SF全作品データなど、一冊で海外SFのすべてがわかるガイドブックの最新版

とのこと。この説明に書かれている事以外にも、アメリカSF略史やミリタリーSF略史もあり、2015年8月に出た本なのでそんなに古い印象もありません。とはいえ、アメリカSF略史の中で触れられている中国のSF作家劉慈欣の「三体」のアメリでの翻訳が、この本が出た直後にヒューゴ賞を取ってしまうという神様の意地悪みたいな事は当然触れられていなかったりしますが。

読んでみた感想なんですが、「良い感想」と「悪い感想」の2つがあります。

「どっちから知りたい?」
「じゃあ、良い感想から」

という事で良い感想から始めますと、最近ほんとに本が読めていない私としてはお陰で久々に色々SFが読みたいなと思えました。流石に紹介されていた作品の大半は読んでるわけですが、やっぱこういうのを読むと忘れていたSFの豊かさや楽しさを色々思い出します。

けれど思い出すのは必ずしも良いことばかりでもないというのが、悪い感想。最近はSFマガジンもちゃんと読んでなかったりしてたので、久しぶりに批評っぽい文章を読んで、思い出したこのなんかちょっと苛つかさせられる感覚!どういう事かというと色々あるわけですが、

とか思ってしまったわけですよ。アシモフ、クラークときてSFビッグ3の残りの一人ハインラインをあげずに、ブラッドベリとかあるいはバラードとか持ち出すのって違うのじゃないのと。勿論、好みの話、自分の好きな作家を上げているのなら誰をあげようとそれは当然自由なわけですが、そういう流れではないところでビッグ3の一人だけハブったりするのがむかつきますです。これ以外でも批評の臭みみたいなものを久しぶりに感じてちょっとウンザリ。

ではあっても、やっぱりSFは良いものだと再認識させてくれた本でした(と、持ち上げて終わる)。

「誤解するカド」、あるいは「誤解する」んじゃなくて「誤解させている」アンソロジーの事

大森望さんと、現在(2017年5月)放送中のSFアニメ「正解するカド」の脚本を書かれている作家野崎まどさん共同の「ファーストコンタクト」テーマアンソロジー、「誤解するカド」を(だいたい)読みました。
www.hayakawa-online.co.jp

和洋合わせて10篇収録で、その最初の作品が筒井康隆「関節話法」。深夜にこれを読んで爆笑してのツイートが以下のもの。

この後で解説を読んだら大森さんが

ファーストコンタクトじゃないのでは――というツッコミなど、この小説の破壊力の前では屁でもない

と書いててまさにかと思ったわけですが、この「ファーストコンタクトじゃない」というのがこの「間接話法」だけの話ではなかったのが、この「ファーストコンタクト」テーマアンソロジーのミソだとは、神ならぬ身のこの凡人には予測のつくはずもなく...どころかそもそも異星人との接触ですらない話まであって、流石に看板に偽りありじゃないのかと思っちゃいました。未知との接触なら「ファーストコンタクト」ってことになるの?まあそれは看板の問題なので、どの作品もが「間接話法」並みなら文句も出しようがないわけですが流石にそんな事あるわけがなく、人の好みは千差万別だとはいえ、あるいはだからこそ俺には響いてこない作品も多くて。とくに筒井作品以外の現代日本SFがなんかダメで。もっともこのアンソロジーだけでなく、SFマガジンに載ってる今の日本SF作品でも響いてこない事が多いので、俺の嗜好にはなにか今の日本SFとは合わないものがあるのかもしれません。
 
まあ今の日本SFだけでなく、今回はじめてちゃんと読んだ問題作として有名なコニー・ウィルスの「わが愛しき娘たちよ」も、その世界自体にはすっと入っていけたのは良いけれど、特に何かが刺さる事がなかったわけですが。作品の終わりでテッセルが救われたのならいいけれど(寮母は没収したテッセル達をどうしたんだろう?)、この作品が扱っているのは近親相姦?父親による娘への支配がなんらかのモラルコードの裏にあるとか?正直、登場人物達の個人的なフラストレーション以上の何がそんなにショッキングなのかよく分からないのですが...30年前のアメリカのセックスコードは分かりません。
まあでも「関節話法」が読めただけでももとは取れました。

「ザ・コンサルタント」 「ローグ・ワン」

「ザ・コンサルタント」と[ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリ」をMovixさいたまで鑑賞。
 

映画『ザ・コンサルタント』予告編
ベン・アフレックが裏の顔を持つ自閉症の会計士を演じるアクション映画。随分と奇妙な映画ではあるのだけど、面白かったです。色々な話の筋が雑多に放り込まれていて、正直、その全てが上手く溶け合っているとは思えず、変な違和感をずっと感じさせる。その最大のものが、アクション映画なのにも関わらず自閉症についての教育映画のような要素を抱えているところ。なので食合せの悪さを感じる瞬間もあるのですが、なんとそこから結構上手くこの映画はひっくり返してくる。散々人を殺した後の山場のアクションシーンがマジですかというギャグのような終わりを迎えるのに、それでもなんか変に清々しい良い物を観た感で映画が追われるのには、実はこの教育映画要素がギリのところで上手くいっているのもあるのかなと。あと、主人公が物凄く強いのに物凄く童貞臭くてキュートな点も貢献していると思う。
 

「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」予告 希望編
スター・ウォーズシリーズは、その実写の映画についてはこれまで全作を一応観てはいるのですが、正直あまり面白いとは思っていませんでした。ですが今回は初めて、面白い!と思えた作品でした。スター・ウォーズシリーズ、評判の悪いEP.1からEP.3は勿論、シリーズを打ち立てたEP.4からEP.6にしてもどうにも面白えませんでした。というか今も思ってません。ごめんよ、ジョージ・ルーカス。あんたは悪くない。ただ僕らの相性が良くなかっただけさ。なのになぜ全作観てきたのかと言うと、SWファンの熱気に騙されたのと、有名映画シリーズについてのお勉強のため、そしてアクションはダメでもSF作品としてのデザインや絵は良かったりしたからでした。なんですが、EP.7あたりから少々面白くなってきて、この「ローグ・ワン」でようやく初めて、あれ、これは面白いじゃないのと思えて、ちょっとビックリしました。ありがとう、ギャレス・エドワーズ

「ゴッド・ガン」

日本SFにはいくつもの素晴らしい「タイトル」がありますが、その幾多のタイトルの中でも燦然と輝くタイトル「神狩り」は、山田正紀によるタイトル通り「神」を狩り殺そうとする人間たちの話であり、日本SF史に残るような素晴らしい書き出しから始まる作品です。そして残念ながら尻すぼみに終わる長編作品でした*1バリントン・J・ベイリーの「ゴッド・ガン」は、ちょっとマヌケなタイトルと、悪くはないが凄くもない印象の書き出しから始まる短編ですが、こっちはマジで神を殺します。

オフビートなユーモア奇想SFですが、明白なギャグSFでも、複数の神々がいる世界の話でもなく、唯一神が存在してそれが理屈ありで殺されてしまう作品って他にあるんでしょうか?思いつきませんが*2。この流石はバリトン・J・ベイリーという作品を表題作とした短編集が、

です。表題作が一番頭に収録されてもいるので如何にもベイリーという感じで始まる短編集なのですが、それが段々ベイリーとしては想像していなかったタイプの作品が出てきます。たとえば「災厄の船」の様な。ただあくまでベイリー作としては想像しなかった様なタイプという事ですし、また一面、ベイリーぽくは無いがこういうのを心の中にやっぱり抱えていたのかと合点がいく事もあります。「蟹は試してみなきゃいけない」のように。収録作はみんな良かったですが、一番心に刺さったのはこの「蟹は...」でした。だって、SFファンは、そしてSF作家は、どうせ非モテなんだから!*3

*1:「神狩り2」は未読。

*2:とはいえ、実は多分あるんだろうなとは思います。世界は広く、SFは深いですから。

*3:まあ世の中は広いし、SF界は深いので、ニール・ゲイマンみたいにそうでもない人もいるらしいですが、俺の精神安定の為にこう仮定しておきましょう。

俺モラリストvs小悪党達の嫌な闘い: 「ドント・ブリーズ」

映画館の素晴らしいところはなにか?円盤レンタルはもちろん、配信が充実してきている今、わざわざ交通に時間とお金を費やした上で、2時間くらい特定の場所に閉じ込められにいくのはなぜなのか?

まずは大きいスクリーンに大音量、さらには最近は4DXなど劇場だけの魅力があるからですが、それ以外に劇場だと途中で作品を止められないというのがあります。これがホラー*1だと大きい。家で観てるとホラー映画は怖くなった途端に止めちゃうので最後まで観れないのですが、劇場だと閉じ込められて強制的に最後まで観ることができます。すばらしい事です。ということで、予告編だけでもテンションが高いこの映画を映画館で観てきました。


映画 『ドント・ブリーズ』 予告

観てる間、何度もだしてくれ~と思いながら座席で体が固まって疲れました。ちなみにこの日本の予告編よりもアメリカのオフィシャルトレーラーの方が更にテンション高くて怖かったりするのですが、この本国版が一ヶ所要らないネタバレをしているので日本の方を出してます。

作品の内容は、アメリカ南部の荒野の一軒家で若者たちが殺される話、ではなくて、荒廃して住民減少中のデトロイトで、周りに住民が住んでいない家に住む元軍人の盲人のもとへ金を盗むに忍び込んだ3人の小悪党の若者たちが経験する恐怖の物語です。正直、南部の一軒家の殺人鬼を北部に移した話かと最初思ってたのですが、全然違いました。殺人者の側が盲人であり、舞台が基本、家の中なので殺人者と対面する事が何度もあるのですが、主人公たちはそれをなんとかやり過ごします。タイトル通り息をしなければ、つまり音を出さないでおければ。SF系、あるいはそれっぽい作品でなら主人公が見えなくなっているといった理由で見つからないように息を止めるというのはありますが、SFでは全くない作品でこういう対面は珍しい。なので静かなシーンの多い映画なのですが、この静けさがテンション張り詰めた恐怖の静けさになっていて素晴らしいです。
 
あとホラーなのですが終盤、とある種明かしがあり、それによってこの作品がほんとうに南部の殺人鬼が北部に移住してきた作品ではなく、神などいない世界での俺モラリストと小悪党の対決の映画である事が笑いと共に明らかになります。アメリカらしい。この作品の最後にテレビニュースが流れるのですが、そこでも改めて俺モラル、つまりはモラルの不在を感じさせられました。
 

*1:そして眠くなりそうな芸術系の作品とか。